浜栲
昨夜は日付が変わる直前まで大人たちの宴会に付き合わされてしまった。
母に詰め寄られる覚悟は決めていたのだが、意外にもたった一言「こっちにもお友達が出来てよかったじゃない」と言われただけだった。
それが逆に不気味だったが、母はもしかしたら息子の二股を疑っているのかもしれない。
ゆえにあまり深く突っ込むことはしなかったとしたら、それはそれで心外だったが、いずれにせよ自分から申し開くようなことでない以上、母の疑念を晴らす手立ては思いつかなかった。
午前中はいつものように隣町の病院へと出掛けた。
昨日は丸一日検査だったという祖父は、その疲れからかあまり元気がないように見えた。
力なく「盆くらいは家で過ごしたかったな」と言う祖父に掛ける言葉が見つからず、ただ隣でテレビのバラエティー番組を一緒に見ただけで病院をあとにした。
家に戻ってくるとすぐに、もはや定型文となりつつある「ちょっと出掛けてくるから」の言葉を残し、海のある南の方角へと足を向ける。
無限に続いているようにすら思える赤土の畑の中を進み続けると、程なくして今年二度目の海へと辿り着く。
時計は見てこなかったが、彼女と約束した夕方にはまだかなりの時間があるのは間違いない。
今まで一度も人がいるのを見たことのなかった海岸の波打ち際を、一組の親子が潮風に身を晒しながら並んで歩いている姿が目に映る。
母親と、それに就学前くらいの女の子だろうか。
足元に目線を落としながら、たまに来る波を楽しげに避けながら歩く母子は、貝殻かシーグラスでも探しているように見えた。
幼かった日の僕も珍しい色や形のそれを探して、波打ち際を何往復も歩いた記憶がある。
あの時手に入れた青色や緑色の宝物たちは、一体どこにやったのだったろうか?
確か。
確かポケットに大切に仕舞っておいたそれは、家に戻るまでの道中でいつの間にか失われてしまっており、そのことに気づいた翌日の昼から丸一日掛けて探したんだった。
僕は結局あのあと、宝物を見つけることができたのだったか?
薄紫色の小さな花が咲き乱れる砂の丘の上に腰を下ろし、そこから仲睦まじい母子を遠くに眺めながら、彼女が目の前に現れるのをただ大人しく待つ。
昨日の自然薯掘りと盆踊りの疲れが残っていたのか、それともこんな気持ちのいい場所にいる以上仕方がないのか。
急に激しい眠気に襲われると、ほとんど抗うこともできないままその場に横たわる。
……五分だけ。
「……」
目を瞑っているのに世界がやけに明るかった。
恐る恐る瞼を開けると、紺碧の空の上を気持ち良さげに泳ぐ雲が目に入る。
そして、海から吹き付ける心地の良い風に
「おはよう、夏生くん」
「……僕、寝てた?」
欠伸を噛み殺して身体を起こす。
腕に貼り付いていた砂の粒を彼女が優しく払い落としてくれる。
日の高さからすると眠ってしまっていたのはわずかな時間だとは思うが、彼女を待たせてしまったことには違いない。
「ごめん。起こしてくれればよかったのに」
「ううん。今さっき来たところだし、それに夏生くんのほうが早く来てくれてたし」
それはあいも変わらず僕が勝手に早く来ていただけなのだが、ここは彼女の厚意に甘えてこれ以上は何も言わないでおこう。
「ね、夏生くん。この花って知ってる?」
僕たちの周りの至るところに、それそこ星の数ほど咲き乱れている花の一つを撫でるようにして彼女が尋ねてくる。
「わかんない。なんて花なの?」
「ハマゴウっていうの」
「へぇ」
小さくて可憐で少し儚げなその花は、僕が彼女に抱いているイメージにどことなく似ているように感じた。
「花言葉は」
風に揺れらて波打つハマゴウの花畑を眺めながら、彼女の口から続きの言葉が紡がれるのを待つ。
「知らないんだけど、かわいい花だよね」
心の中で『なんだそりゃ!』と盛大にずっこけたが、こんな過酷な場所に人知れず咲いているその姿はとても健気で美しく、そしてやはり少し儚げに思えた。
やがて普段通りの調子に戻ると、「あの雲ってどのくらい遠くに浮いているんだろう」とか、「このずっと向こうにオーストラリアがあるのかな」などといった他愛もない話をしながら、僕と彼女二人だけの夏の時間が流れてゆく。
『このまま時間が止まってしまえばいいのに』
唐突にそんなベタな言葉が脳裏に浮かんだ。
今までの僕であれば、間違いなく躊躇せずに口に出していただろう。
だが、今の僕はそれをしなかった。
言葉にしてしまうと、このかけがえのない時間がすぐにでも終わってしまうような気がして、開きかけた口をきつく閉じる。
夏の海と空は徐々にその色を濃く変えながら、僕たちの視界の半分以上を青色に染め続けていた。
その時、不意に風向きが変わった気がした。
まるでそれを切っ掛けにしたように、彼女は少しだけ身を乗り出すとこちらに向き直る。
「あのね。夏生くんにお願いがあるの」
彼女はおもむろに立ち上がると、静かにその白い手を海岸線の遥か彼方に向ける。
「あっちの方にね、おっきな灯台があるの。小さい頃、お父さんに連れられて行ったことがあるんだけど」
彼女の指し示す方向に目を向けたまま腰を上げる。
そこには弓形の海岸が見渡す限りに続いており、遠くの方は霞んでしまっていて見ることもできない。
視線を彼女の方に戻すと、そっと手を上に向けて目配せをする。
僕の意図を汲み取った彼女は、白くて小さな手をそっと置いてくれる。
「行こう、志帆ちゃん。この海岸線の向こう側まで」
まだ見ることのできない目的地へと向かい、僕と彼女は同時に一歩を踏み出す。
その足元ではハマゴウの花たちが、まるで「いってらっしゃい」とでも言ってくれているかのように、風に吹かれながら静かに揺れていた。
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