The end of romance

 山盛りのサンドイッチで朝食を済ませると、急いでシャワーを浴びて汗を洗い流す。

 今日はこのあと隣町の病院に入院している祖父を見舞いに行くことになっていた。

 午後からは志帆ちゃんと会う約束があり、さらに夜は寺に墓参りと、僕の夏休みとしては珍しくスケジュールが詰まっている。


 大人たちの準備を待つ間、先ほど軍手を借りた時に目に止まった虫取り網を手に取ってみた。

 物置の隅で埃を被っていたそれは言わずもがな僕の所持品なのだが、最後に使ったのは確か小学三年か四年の頃ではなかっただろうか。

 久しぶりに手にした虫取り網は記憶にあったものよりも遥かに小さく、そして随分と軽く感じた。

 試しに家の前の掘割に生えている大きなクヌギの木で翅を休めるアブラゼミに網を振るってみたのだが、いともたやすく逃げられた上に危うくオシッコまで掛けられそうになる。

 振るタイミングを変えながら幾度となく試していると、ようやく一匹のセミを捕獲することができた。

 地面に伏せられた網の中でジージーと大声をあげながら、何とかしてこの難を逃れようとしている彼――セミはオスしか鳴かないとどこかで聞いた――を、ただ捕らえることだけを目的としていた僕はすぐに解き放つ。

 大慌てで空へと逃れる姿を目で追いながら、ほんの思いつきで恐い思いをさせてしまったことを少しだけ後悔した。


 虫取り網を片付け手を洗っていると、母と伯母がああだこうだとお喋りをしながら出てくる。

 遅れてやってきた祖母の手から取り上げた荷物を車のトランクに積み込むと、僕たち四人を乗せた車は静かに走り出した。

 相変わらずガラ空きの県道を西進する車内では、母と伯母が今日の晩ごはんをどうするかといった、いかにも主婦らしい話で盛り上がっていた。

「夏生ちゃんは何か食べたいものない?」

 まだ朝ご飯を食べたばかりで大した案を思いつけなかった僕は、とりあえず大枠の提案をしてお茶を濁すことにした。

「お肉――うん。肉料理がいい」

 さすがに雑に投げすぎではないかと反省したのだが、膠着していた場に一石を投じると言う意味では、それは案外悪くはなかったようだった。

 前席の主婦たちは「だったら唐揚げは?」とか「焼き鳥もいいね」と、さらに議論を活発にする。

 仲の良い姉妹そのものといったそのやり取りは、生まれてこのかた一人っ子の僕にしてみれば羨ましく思えるくらいだった。

 結局、病院に着くまでに結論が出ることはなかったようで、帰りしなにスーパーで買い物をしながら決めるということで話は落ちついたようだ。

 程なくして車は目的地へと到着すると、役目を終えたエンジンはその鼓動を即座に停止させた。


 病院の入口で受付を済ませ、エレベーターで祖父の病室のある五階へと向かう。

 エレベーターのドアが開くとすぐに、ホールの脇に設けられたデイルームの奥のほうで、他の入院患者たちとテレビを見ている祖父の姿を見つけることができた。

 祖父もすぐにこちらに気づき、『よっこらせ』と口を動かしながら椅子から立ち上がると、少しだけ足を引きずりながら近づいてくる。

「そんなに毎日来てくれんでもいいだに」

 そう言いながらも嬉しそうな表情を見せてくれた祖父は、空いていた壁際の応接セットの椅子を引くと、再び「どっこいしょ」と声を出して腰を下ろした。


 しばらくは五人でわいわいと話していたのだが、母と伯母が主治医に挨拶をしてくると言い席を立ち、祖母も昨日買ってきた花の水を替えに病室に行ってしまった。

「夏生、中学はどうだ?」

 テーブルを挟んで正面に座る祖父が突然そんなことを聞いてくる。

 もっとも祖父はいつもこんな調子なので、この話題に特別に深い意味などないのだろう。

「新しい友達がたくさん出来たから楽しいよ。勉強は相変わらずあんまりだけどね」

 そんな有り体な僕の回答に、祖父は笑顔で二回うなずくと言った。

「そうかそうか。勉強なんて人並み以下でもいいから、その分沢山思い出を作れよ」

 真面目な顔で言われたせいで妙に含蓄のある言葉のように聞こえたが、要するに学校生活を満喫しろよということだった。

「うん、わかった。それよりさ、またおじいちゃんと釣りに行きたいから早く良くなってよ」

 祖父は返事をしなかったが、その代わりにテーブルの上に身を乗り出すと、僕の頭をグシグシと力強く撫でてくれた。


 祖父は今日も病院の玄関まで降りてきて僕たちを見送ってくれた。

 昨日と同じように、やはり少しさみしげに手を振る姿に後ろ髪を引かれる思いだった。

 ただ、顔色も表情も昨日よりはだいぶ良いように見えたし、お見舞いで持っていった梨も丸々ひとつ平らげていたので、きっと快方に向かっているのだろう。

 僕は車の後部座席から祖父の姿が見えなくなるまで手を振り続け、祖父もまた僕たちの車が見えなくなるまで手を振り返してくれていた。


「どっか寄って買い物してかんとね」

 お盆で交通量の少ない市街地を走りながら、母が誰に対してという風でもなくそう呟く。

 隣町には大型スーパーが何軒かあったが、断然ロマン派だった僕は母に要望を伝える。

「あれ、あんたには言ってなかったっけ? ロマン、潰れちゃったんだよ」

「え? 潰れた……って?」

「なんか火事で焼けちゃって駄目になったって。怪我人は出なかったみたいだけどね」

 さも事も無げに言い放たれた母の言葉は、僕に多大な衝撃と落胆を与えた。

 ロマンが、あのロマン無くなってしまった。

 少し大袈裟に聞こえるかも知れないが、それは僕にとって生まれ故郷がダムの底に沈み、この世界から永遠に失われてしまったほどに悲しい出来事だった。

 品揃えは然程――まったく良くなかったが、僕の大好きなオカルトシリーズが必ず置いてあったあの本屋も、プラモデルやボードゲームの山が迷路のようだったあの玩具屋も、大晦日の買い出しでは毎年必ず一リットルもある巨大なパックに入ったバニラアイスを買ってもらっていたあのスーパーも、全てが思い出の中にしか存在しなくなってしまったのだ。


 大きいだけで何の面白みもない、ただの四角い箱のような隣町のスーパーで買い物を済ませると、今日はそれ以外どこに寄るということもなく家へと戻ってきた。

 昼ご飯はスーパーで買った弁当を皆で食べ、ようやく一息ついたところで柱の時計を見上げる。

 短針が文字盤の二の数字に乗り上げていた。

 若干早い気もするが、志帆ちゃんとの待ち合わせ場所である『リカーショップコジマ』に向かうことにした。

 座卓の縁に手を掛けて立ち上がると、ズボンの尻ポケットに財布をねじ込む。

「ちょっと出かけてくるね。暗くなる前には帰るから」

「また海にでも行くの? いいけど気をつけなさいよ」

 今から行くのは海ではなく、海で出会った少女のところへだったのだが、それを説明して敢えて面倒事を作る必要もない。


 少し前に車で通った県道を、今度は歩きで逆走し目的地へと向かう。

 車で五分程度の距離だった気がするので、僕の足だと二十分かそのくらいだろうか。

 西に真っ直ぐ伸びる道路は若干起伏しており、ユラユラと陽炎が立ち昇る路面から視覚的にも夏の暑さを感じてげんなりしてくる。

 幸いにして時間には余裕があるので、木陰を見つける度に少しだけ立ち止まると、身体に極力熱を溜めないように気をつけながら歩いた。


 このあと彼女とどこへ行くのかはまだ決まっていなかったが、第一条件としてとにかく涼しいところにしよう。

 そして約束の場所に着いたら、とりあえずジュースを買おう。

 冷蔵ケースの奥でお店の人にもその存在を忘れ去られているような、キンキンに冷えた炭酸飲料がいい。

 そんなことを考えながら、灼熱のアスファルトの上をひとり歩き続けた。

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