彼方まで広がる青は海の青 空の青とも、また違う青

 風呂から出て居間に行くと、先ほどまではせかせかと働いていた母も仕事が一段落したのか、祖母と伯母と仲良く茶を飲んで寛いでいた。

「夏生ちゃんもお茶にする?」

 そう言って立ち上がろうとした伯母を手で制すると、三人に散歩に出掛ける旨を伝えて居間をあとにした。


 時計は見てこなかったが、多分三時を少し回ったくらいだろう。

 時間的には夕方の入口に差し掛かったところなのに、夏の日差しというものはまったく以て容赦がなかった。

 玄関を一歩出た途端、肌が灼かれるジリジリという音が聞こえそうなほどの日射に晒される。

 掘割のトンネルに差し掛かると熱線の責め苦からは逃れることができたが、今度はその代わりだと言わんがばかりに四方八方から蝉時雨が降り注ぐ。

 それでもついさっきまでの灼熱地獄に比べれば、緑色の風が吹き抜けるこの場所は極楽浄土に等しかった。

 その楽園からもわずか十数秒歩いただけで追放され、再び灼熱に身を焦がされる運命が待ち構えているのだが。


 目的地を決めずに家を出たはずの僕だったが、その足は一直線に海へと向けられていた。

 釣りをするわけでもなければ海水浴が出来るわけでもないのに、物心がついてからは毎年のようにあの海へと足繁く通い詰めていた。

 強いていえば、海と空と砂浜が織りなす碧と蒼と白のコントラストを見ることが好きだったからなのだが、僕のそれは執着といっていいほどのものだと自分でも思う。

 もしかしたら前世が海に住む生き物だったのかもしれない。

 イソギンチャクとかナマコだったらちょっと嫌だな、などと下らないことを考えながら歩いていると、すぐに赤土の台地と海岸線とを隔てる竹藪へと辿り着く。


「今年も来ましたよっと」

 旧知の友に挨拶をするように呟きながら砂浜に降り立つ。

 足跡ひとつない砂の上を波打ち際まで進み、あと数歩で足が波に濯われるというところで手頃な流木を見つけて腰を下ろす。

 遠く水平線の上では巨大な入道雲が縦にも横にも大きく広がり、その真下で存分に海水を湛える海を覆い隠そうと頑張っている。

 ただ、海の広大さに比べてあまりにも矮小なそれは、遥か彼方の海面にほんのわずかに影を落とすのが関の山だった。

 海岸には相変わらず人影はなく、まるでプライベートビーチにいるような気持ちよさと、禁足地に足を踏み入れているような後ろめたさが共存していた。


 三十分もの間何もせずに、ただずっと海の青と空の青とを眺めていた。

 海の上には風速二メートルほどの南風が吹いていたが、僕の心の中はといえば完全に凪いでいた。

 まるで自分が目に映る景色と一体になっているような、そんな不思議な感覚の正体を探ろうと頭を回転させてみる。

 もっともそんなことは、いくら考えたところでもともと答えなどないのだろう。

 このまま海に沈む夕日を見送ってから戻ろうかとも思ったが、その前に日焼けか喉の乾きで限界が訪れるのが関の山だ。

 少々名残惜しい気もするが、明日の少し遅い時間にまた訪れればいいのだから、今日はもう戻って母の手伝いでもしようか。

 そう思って勢いよく立ち上がった、まさにその時だった。


「すいません! それとってください!」

 反射的に声がした方向に顔を向ける。

 すると、浜風に舞い上がった麦わら帽子が、今まさに僕の頭上を通過しようとしていた。

 咄嗟に伸ばした手が空を掴む。

 世にも珍しい空飛ぶ麦わら帽子は、まるで意思をもっているかのように僕の手からするりと逃れると、高度をわずかに上げながら尚も空中を滑空していく。

 一体全体どんな力学的作用が働いているのかはわからないが、小さなグライダーと化した麦わら帽子を追いかけているうちに、いつの間にか波打ち際を数十メートルも歩いていた。

 このまま日が暮れるまで砂浜を彷徨うことになるのではないか?

 そんなあり得ない懸念が脳裏を横切った、ちょうどその時だった。

 それまで吹いていた風がほんの一瞬だけ止んだ。

「っしゃ!」

 数歩の助走をつけると波で濡れて固くなった砂の地面を蹴りつける。

 それは我ながら絶妙なタイミングだった。

 レイアップシュートを決めるような格好で垂直に飛び上がった僕の指先が、たったの数ミリだったが帽子のつばを掴むことに成功する。

 しかし、シュートを決めた僕の着地点はといえば――。

 

 何とか帽子は濡らすことなく確保したが、残念なことに僕の下半身はたった今終わってしまった。

 ズボンから水を滴らせてトボトボと砂浜へと戻ると、帽子の持ち主が向こうから駆け寄ってくるのが見えた。

「あの……大丈夫ですか?」

 少しだけ息を切らせてそう言ったのは、膝下丈の白いワンピースを着た少女だった。

「うん。ギリギリセーフだった」

 それは帽子の安否に関してであり、下半身はアウトもいいところだ。

「あの……ありがとうございます」

 彼女はそう言って、足元の砂にも負けないような白い腕を伸ばすと帽子を受け取った。

 彼女は帽子を被り直しながら、その大きな瞳を僕の下半身へと向けた。

「あっ! あの、ごめんなさい……」

 先方に倣って自分の酷い有様を改めて確認した僕は、途端にこみ上げてきた笑いを我慢することができなかった。

 突然笑い出した僕を見て驚いた様子の彼女に下半身を指差しその理由を訴えかける。

「……ふふっ」

 笑えてもらえてよかったと、不思議と心の底からそう思えた。

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