そして夜は更ける

 あっちゃんが浴室を去ってから数分経ち、僕はようやく風呂をあとにした。

 ろくに身体も拭かずに、脱衣所の壁に取り付けられた扇風機の前に立つ。

 風量を最大にしてその真下で仁王立ちすると、けたたましい風切り音に見合っただけの風量が、オーバーヒート寸前だった体の熱を徐々に冷ましてくれる。


 クールダウンを終えてから向かった居間では、昨夜に引き続き大人たちが酒を酌み交わし盛り上がっていた。

 伯父と伯母がいない分だけ幾らか静かなそこに、彼女の姿を見つけることはできなかった。

 ここでなければきっとあそこだろうと見当をつけ、仏間と繋がった南側の広縁へと足を運ぶ。

 

 広縁の掃き出し窓は開け放たれており、彼女は外に降ろした足をプラプラとさせながら夜空を眺めていた。

 黙って隣に座るとすぐに、氷が山盛りの麦茶を手渡してくれる。

 きっと僕のために用意してくれていたのだろう。

「ありがとう」

 彼女の隣に腰を下ろすと、お風呂での出来事など初めからなかったかのように、「今あそこで星が流れた」とか「夏の大三角形ってどれだろう?」などと、プラネタリウムにも引けを取らないような、満天の星々を仰ぎ見ながら同じ時間を過ごした。


 小一時間もそうして、夏の夜空を存分に満喫してから居間に戻る。

 いつの間にやら宴会はお開きになっていたようで、祖母と母だけが茶を飲みながら静かにテレビを見ていた。

 男連中はすでに床に就いたらしく、そのうちに祖母も寝床へと向かい、母は風呂に行ってしまった。

 大人たちのいなくなった居間で、夜店で仕入れた食べ物と昼間にロマンで買っていた菓子やジュースを持ち寄り、二人だけで盆踊りの打ち上げをささやかに行う。

 夜風に揺れる風鈴がたまに鳴らすチリンという音が、間もなく終わりを迎える今日という日を名残惜しんでいうように聞こえた。


「明日那ちゃん一人だとあれだから、あんた一緒に寝てあげな。二階に布団敷いてあるで」

 風呂から上がってきた母はそれだけ言うと、ふがふがと大きな欠伸をしながら寝床へと消えていった。

 彼女が怖がりなのは母も知るところだったようで、その対策として僕が充てがわれたのだろう。

 ここまでは別にもう、今更なのでどうでもいい。

 問題は寝室が用意されているのが、この家の二階だという点だった。

 二階にあるのは二部屋で、そのうち一部屋には祖母が趣味で蒐集しゅうしゅうしている大量の市松人形が安置されていた。

 あれは確か、小学校に上がったばかりの頃だったか。

 そんなことなどまったく知らずに、初めてその部屋のドアを一人で開けてしまった時の衝撃はといえば、筆舌に尽くしがたい恐怖体験として、今でも心の奥底に刻み込まれている。

 部屋の一番奥にあった等身大の少女の人形を見た瞬間、まるで首でも絞められたかのように息苦しくなり、ついにはその場で泣き出して祖父に救出されたのだった。


 歯磨きを済ませ、玄関脇にある階段の前に立つ。

 目の前には黒光りする踏板が、暗闇を真っ直ぐ上へと伸びているのが見えた。

 明かりを点けても尚暗いそこを上り切ると、わずか一帖ほどの廊下の正面と左に一枚ずつドアがあった。

 迷わずに『人形の間』ではない、もう一方の部屋のドアを開ける。

 そこには二組の布団が並べて敷かれており、天井の和風ペンダントライトには明かりも灯されていた。

 彼女に気づかれぬようそっと胸をなでおろすと、額に浮かんだ汗をやはりこっそりと手で拭ってから入室した。


 南側の一面にしか窓がないその部屋は、昨日まで寝ていた一階の和室よりも風の通りが悪いはずなのに、なんだかやけに涼しかった。

 彼女が布団に横になったのを確認してから、照明の紐を引っ張って明かりを消す。

 消灯直前の記憶を頼りに自分も布団の中に潜り込むと、ほぼ時を同じくしてモグラが地面の中を掘り進めるように、彼女がこちらの布団へと移動してくる。

 言ってしまえばそれすらも予定調和だったのだが、先ほどの風呂での出来事を思い出すと、なんだかとんでもなく後ろめたいことをしているような気分になる。

 エアコンもなければ扇風機も回されていない部屋は、僕と彼女がたまに発するかすかな衣擦れの音以外しない静寂と暗闇の世界だった。


 まったく眠くなる気配のないまま、十分ほどが経過した頃。

「……ナツくん起きてる?」

 もう寝てしまったものだと思っていた彼女の呼びかけに、声のトーンをやや落として応える。

「起きてるよ。あっちゃんも寝れないの?」

「うん」

 布団の中で寝返りを打つと、すでにこちらを向いていた彼女と向かい合わせになる。

 文字通り目と鼻の先に、彼女の目と鼻、それに口があった。

「今年の夏も楽しかったね」

 その小さな口から発せられた言葉に、夏の終りを感じていたのが自分だけではなかったことを知った。

 彼女がまだ小学生だった去年までは、お盆の三日間は昼夜を問わずに、ほとんど離れることもなく時間をともにしていたのだが、今年は夕方から夜にかけての多くない時を共有しただけだった。

 その少ない時間のほぼ全てで、彼女は僕の隣にいてくれた。

「……ナツくん。ちょっと目、閉じて」

「うん?」

 彼女の唐突な指示にほとんど反射的に従う。

 次の瞬間、シャンプーのいい香りとともに唇に柔らかなものがそっと触れた。

 何が起きたかを理解するのにそう時間は掛からなかったはずだが、驚いて目を開けた時にはもう、彼女は先ほどと同じ三〇センチ離れた場所で僕の顔をじっと見つめていた。

「来年も再来年も、ずっと一緒にいようね」

 彼女はそう言うと、布団の中でもぞもぞと僕の手を探し当てて握った。

 それから少しして、小さな寝息が聞こえてきた頃になって、ようやく瞼が重くなるのを感じた。

「おやすみ、あっちゃん」

 こうして僕の小学五年の夏は、彼女のぬくもりを感じながら幕を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る