宿題とお使い
僕が目を覚ましたのは、あっちゃんが伯父の車で部活動へと向かった少し後だった。
彼女は中学の陸上部で中距離走の選手をしており、お盆の間も練習に休みはないらしい。
もっとも、それも午前中いっぱいで終わるそうで、夕方からはまたここにやってくると昨日の晩に聞いていた。
母たち女性陣三人は、朝から掃除や洗濯などの家事をこなしていたが、祖父と父は十時を回っても一向に起きてくる気配はなかった。
なんでも昨夜は日付が変わるまで宴が続いていたらしい。
昼食までの時間を利用し、本日のノルマ分の宿題をやっつけてしまう。
勉強が好きというわけでもなければ嫌いというわけでもなかった僕は、学校の成績も見事にそれを反映して中道を貫いていた。
たった三十分ほど鉛筆を動かしただけで、あっという間に本日の成果物が上がってしまう。
まだ十一時を少し回ったばかりだった。
昼食まで遊びに出掛けるほどではないが、ぼーっとして過ごすには些か長い余暇をどうやって潰そうか。
例年は暇さえあれば虫取り網を振り回していたのだが、小五になった僕は以前ほどセミやらクワガタやらに興味を抱けなくなっていた。
それに今頃は部活動に精を出しているであろうあっちゃんのことを考えると、僕だけ遊んでいるというのも罪悪感がある。
何をすべきか考えあぐねていると、丁度いいことに向こうから母がやってくるのが見えた。
「ねえお母さん。なんか手伝えることってない?」
息子から唐突に殊勝な申し出をされた母は、目を白黒させながら思案を巡らせているようだった。
「あ、じゃあ」
何かを思いついた母は一旦捌けると、すぐに紙袋を手にして戻ってくる。
「これ、お向かいの
いかにも母らしい随分とざっくりとした指示であったが、おかげで手持ち無沙汰から開放された。
河合さんはすぐ向かいに三世代で住んでいる家で、そこのおばさんは伯母と同級生であり、当然母とも昔からの顔なじみであるはずだった。
渡された紙袋の中身は多分、二日前にここへ来る途中のドライブインで買った焼き菓子だろう。
玄関から足を踏み出すと、太陽から発せられた高熱で身体の表面温度が一気に上がる。
昨夜のテレビのニュースでは『明日が今夏の暑さのピークになるでしょう』と、見るからに頭の良さそうな天気予報士が言っていたことを思い出す。
本当に明日以降に気温が下がるのかは若干あやしく思えたが、今日の暑さは確かに今年一番といってもいい。
普段は少し薄気味悪いと思っている掘割だったが、その脇を生い茂る木々のトンネルの中を吹き抜ける風が、こんな猛暑の日に限っては最高に気持ちがよかった。
この道を左に上っていけば海まで抜けることができるが、今は河合邸に繋がる右の道へと足を向ける。
一〇メートルの高低差を五〇メートルの下り坂で埋めていくと、すぐ目の前に早くも目的地の河合さん宅が見えてきた。
道路から敷地へ足を踏み入れた途端、奥の犬小屋から柴犬の雑種犬『コロマル』が、まるで火でも付いたかのように吠え立ててくる。
「僕だよコロマル!」
コロマルは侵入者が知った顔だとわかると、今度は尻尾が千切れてどこかに飛んでいってしまいそうな勢いで尻を振って歓迎してくれた。
すぐにでも撫でてやりたいのは山々だが、本気でコロマルを相手にした暁には、毛やらヨダレに塗れてしまうことになるだろうことを、僕は経験則から知り得ていた。
「もうちょい待ってみ。あとで撫でてあげるから」
言ったことがわかったのか、彼女――コロマルは雌犬だった――は大人しくその場にしゃがみ込み、まるで手を振って見送るかのように尻尾を左右にゆっくりと揺らした。
ようやく玄関まで辿り着き、インターホンのボタンに手を伸ばしたちょうどその時、廊下の奥から河合のおばさんがドスドスと地鳴りを伴いながらやってくるのが見えた。
「こんにちは」
「はーい……あら? 夏生ちゃんかね? また大きくなったわねぇ!」
『河合さんもね』と言いそうになったのを
「あの子は台風の日でもあんなだからね」
「あ、これ。うちのお母さんからです」
「あら! いつもいつも悪いわねぇ。夏生ちゃん、ちょっと待っててね」
廊下を再び軋ませながら家の奥の方へと走って行った彼女は、しばらくして大きさのビニール袋を手にぶら下げ戻ってくる。
「代わり映えがなくてあれだけど」と言って渡されたそれはずっしりと重かったが、これも毎年のことなので確認するまでもなく中身が何なのかはわかっていた。
お礼をすると玄関をあとにし、コロマルと全力で遊んでから帰路についた。
「こんなにいただいちゃって逆に悪かったわね。毎年のことだけど」
ビニール袋にビッシリと詰め込まれた椎茸を見ながら母はそう言った。
椎茸農家でもある河合さんにしてみれば、椎茸はそれこそ売る程あるのだろうが、スーパーマーケットで買えば数千円はするであろうそれは、とても大きく肉厚で美味しそうだった。
以前お邪魔した時には、僕に椎茸狩り体験をさせてくれたこともあった。
黒い日除けが天井を覆うハウスの下で、規則正しく立て掛けられた
「あとで私もお礼言ってこなきゃ」
そうひとりごちる母を尻目に無言で風呂場へと向かう。
一人と一匹の全力がかち合った結果、まるで交通事故にでも遭ったかのようにボロボロになっていた僕だったが、母も慣れたものでそのことは一切指摘しなかった。
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