第十三話 頬伝う『水』の名は
ショートケーキの入った紙箱がぐしゃりと音を立てて床に落ちた。
焼け焦げた異臭が館内を撫ぜるように漂っている。館内中に多くの従業員や女将たちが倒れていた。軽症者もいれば、もうすでに手遅れかもしれない者もいた。
外では雪が白銀の世界を作り始めていた。だがそんな美しい世界のことなど露知らず、文字通りの『地獄絵図』が彼の眼前で繰り広げられていた。
「……なんなんだよ、これ」
辛うじて出た第一声は随分と掠れていた。晴はしばらくその場に立ち尽くすほかなく地獄をただ見つめるしかなかった。
どこからか「晴さん……」と自分を呼ぶ小さな声が晴の耳に届いた。晴はその今にも消えてしまいそうなか細い声に気付くと、すぐにその人のもとへと駆け寄った。
その従業員は左肩に大きな火傷を負っていた。うぅ、と苦しげに唸りながらも必死に晴に状況を伝えようとする。伸ばされた彼の手を、晴は優しく受け入れる。
「どうした、何があった」
「ひ、彼岸池の“烽火九尾”が、何者かの手によって楔を外され、暴走を……っ」
「——は、」
言葉を続けようとした瞬間、晴の背後から何かが爆発したような轟音が彼らの耳を劈いた。「彼岸池の方からだ」と誰かが息を呑んだ。嫌な予感がする。顔を酷く青くした従業員を見て、晴は息が詰まりそうになった。
「今、彼岸池にいるのは、誰だ」
「……鳴坊ちゃんと、
春輝とは、晴の兄であり鳴の相棒として現在この彼岸屋で護衛官を勤めている人物だ。晴は「クソッ」と一度舌打ちをすると、轟音の鳴り響いた彼岸池へと走った。
◆◇◆◇◆
本来、彼岸池に入ることができるのは、『神宿』彼岸屋を担う彼岸家当主とその護衛官の二名のみだが今はそんなことを言っている状況ではない。
イレギュラーの発生により、晴は彼岸池へと足を踏み入れる。瞬間、濃い血臭と花の甘い香りに思わず顔を
晴はこの日初めて彼岸池に入った。辺り一面に広がるのは、仰々しいまでに赤く染まった彼岸花と明かりの一切ない暗闇。それ故に、初めは目の前で何が行われているのかを理解するのに時間が掛かった。
ようやく慣れた彼の視界に映ったものは絶望だった。
「——兄さん‼」
兄の春輝が、黒くしなやかに
ボタリボタリと薄く水の張った彼岸池に何かが垂れ落ちてゆく。垂れる糸のその先を視線で辿れば、そこにあったのは黒い獣に咥えられたまま脱力した——鳴だった。
黒い獣——烽火九尾——が咥えていた鳴の体を宙へと放った。ふわりと浮かんだ鳴の体は、放られた先に立ち尽くす晴のもとへと落ちた。
無意識のうちに晴は鳴の体を受け止めていた。受け止めたはずの鳴の体は力を失い、全ての体重が自分に掛かっているはずなのに、酷いくらいに軽く感じて息が詰まる。「……め、い……?」と発した晴の声は、はたして“声”になっていただろうか。
「ギャハギャハギャハ‼ 人の血はやはりうまい……それも彼岸と行実の血は格別よ。甘い蜜の様だ——ん?」
ぐるり、と血のように濁った赤い双眸が晴の姿を捉えた。
「ほう? お前も行実の血の者か。今宵は随分と豪勢だな」
「…………黙れ……」
「先程食った彼岸の子は実にうまかったが、行実のはあまり腹が満たされんかったな」
「——黙れって言ってんだよ‼」
晴は足元に転がっていた、兄の遺品でもある家宝刀『
不意に「……は、る……」と舌足らずに自分を呼ぶ、か細い声が聞こえた。その声にすぐに晴は反応して、腕の中でぐったりとしている鳴の口元に耳を近付ける。
「どうしたっ、鳴……?」
「……に、……て……」
にげて、と。
音はなかったが、鳴の口は確かにそう言っていた。
晴はその時ただ「どうして」と疑問の眼差しを鳴に向けることしかできなかった。
焼け
このままでは死んでしまうのも時間の問題だと頭では理解しているものの、その実、足がすくんでしまい動けない。動けず、ただ目の前で消えてしまいそうな命を見つめることしかできない自分が情けない。
だから、晴は思ったのだ——「死のう」と。
きっと、『新宿』の彼岸屋で働く鳴の父・宗純がこの『神宿』を立て直してくれるだろう。それに鳴の妹たちが遠くない未来にこの彼岸屋を継いでくれるかもしれない。行実家が晴たちの代で途絶えたとしても、分家筋は他にもある。
だからもう、いいんだと、この瞬間晴は思った。
「……うん。逃げよう。鳴も、一緒に、ここじゃないずっと遠くに。何もない場所にいこう?」
鳴は静かに晴の言葉を聞いていた。彼の唇には鮮やかな赤色の血が付着していた。それはまるで口紅のようだった。晴は何を思ったのかその唇に親指の腹を押し当て、優しくなぞった。
「……はは、女みたいで、綺麗だな」
「僕は男ですよ!」と、頬を一杯に膨らませてそっぽを向く鳴がいつもの流れだった。
まんざらでもない鳴を見て、自然と表情が
「……俺もすぐにいくよ、鳴」
頬を伝う水がどんな名前だったか、晴はすぐには思い出せなかった。
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