第2話 「小説ってそもそもなに その2 心を描くってどういうこと?」
小説とは「心を描く」ものである。
この認識がないかぎり、いつまで経っても小説は書けません。
速読ができる方ほど「会話文をつなげれば物語は読める」と思っています。
そういう方には「小説は書けない」のです。
では「心を描く」とはどういうことでしょうか。
視点を持っている者がどう判断したかを描く
「心」とはなにかが起きたときに、それをどう感じるかという判断基準が詰まっていると思ってください。
よく読書感想文で「思いました。」「考えました。」「感じました。」と書きましたよね。
その思ったこと、考えたこと、感じたことを「なぜそうだと判断したのか」という状況を含めて書く。
それが「心を描く」ということです。
しかし制限があります。
それは「一人称視点」の場合は、主人公が思ったこと、考えたこと、感じたことしか書けません。ライバルがどう判断したのかや、ヒロインがどう判断したのかを直接書いてはダメなのです。書くとしたら「〜らしい」「〜ようだ」「〜そうだ」といった推測・伝聞の形にして決めつけないように配慮します。
どうしてもライバルやヒロインがどう判断したのかを断定して書きたければ、確実に視点を切り替えてから書いてください。主人公に視点があるのにそのままライバルやヒロインの判断が混じってしまうと「神の視点」という、最も忌み嫌われる小説になってしまいます。
価値観の移ろいを書く
「心を描く」には価値観の移ろいを書くという一面もあります。
小説のスタート地点での価値観と、ゴール地点での価値観が変化している。
この変化こそが「価値観の移ろい」です。
「価値観がまったく変化しない」という小説もありますが、成長を感じさせないので小説賞・新人賞・コンテストでは不利になります。
「心を描く」という小説の根本から逸脱しているからです。
スタート地点での価値観が「海賊王になる」だとして、ゴール地点での価値観が「海賊王になる」のままだったら、この物語はまったく先に進んでいませんよね。
もちろん間で紆余曲折があって、一周回ってスタート地点の価値観に戻ってきた、ということはありえます。
でも小説賞・新人賞・コンテストでは明らかに不利です。
では「価値観の移ろい」を書くとはどうするのか。
スタート地点で現在の価値観をしっかりと書いておく。
中間ではさまざまな出来事を経て価値観が移り変わります。
そしてゴール地点で物語が終わるときの価値観をしっかりと書く。
このスタート地点とゴール地点の価値観の移ろいが、大雑把にいえば「心を描く」ということなのです。
心を描く
とはいえ、「価値観の移ろい」は「心を描く」の一部分でしかありません。
実践的には「ある出来事が起きたら、視点保有者はどのような感情を抱いたか」を書くのが「心を描く」ということです。
「出来事」を発生させて、主人公はそれに対処し、どんな感情を抱いたか。
極論すればその積み上げこそが「心を描く」なのです。
そして数々の出来事を経て価値観が変化する。
だからスタート地点とゴール地点では価値観が移り変わっていて当たり前なのです。
たとえば、親友だと思っていた人に恋人を横取りされた。
これが「出来事」です。
そうなったら主人公はどのような感情を抱くでしょうか。
これが「心を描く」です。
出来事があり、視点保有者がどんな感情を抱いたか。
それが「小説」の「心を描く」であって、「会話劇」では「心を描けない」ゆえんです。
心を描く小説の文章とは
では、「心を描く」文章とはどのようなものでしょうか。
「状況を淡々と書く部分」と、それを受けて「視点保有者がどう感じたかを書く部分」。
大きく分けてこのふたつです。
「状況を淡々と書く部分」は、
「今はいつでここはどこ。どこになにがある。どこに誰がいる。その人はどんな格好をしている。その人はどんな態度をしている。なにがどう変化している」
を書きます。
そして「視点保有者がどう感じたかを書く部分」は、
「なにに対してどう感じた。どう思った。どう考えた」
を書きます。
「状況を淡々と書く部分」だけではニュースや記事にしかなりません。
「視点保有者がどう感じたかを書く部分」だけではポエムになってしまいます。
このふたつを巧みに混ぜて書くからこそ、「心を描く」文章になるのです。
新聞記者や雑誌記者がフィクションを書く小説家として大成しないのも、「状況を淡々と書く部分」はできているのに、「視点保有者がどう感じたかを書く部分」が書けないからです。
だって新聞や雑誌は事実以外を書いてはならないメディアです。誰々がこう思っていました、という文はコラム欄くらいしか書けるスペースがないのです。
だから記者は小説家としては致命的に弱い。
ただ「会話劇」や「シナリオ」を書いている人よりは「小説」に近いところにいるのは確かです。
事実、新聞記者はノンフィクション作家として大成することがあります。
事実以外書けないから、ノンフィクションは書けるわけです。
しかしフィクションが求めている「心を描く」ができません。
会話劇・シナリオは心から乖離してしまう
ここまでお読みになって「会話劇」「シナリオ」でも「心を描く」のは可能ではないか。
そう思いますよね。
実はそれこそ落とし穴なのです。
「会話劇」「シナリオ」で書いている人が、その合間に「心を描く」つまり「なにに対してどう感じた、思った、考えた」のかを書けばじゅうぶんだろう、と短絡的に考えてしまいます。
ですが、文の主体が「会話文」にあるのでは、「心を描く」のではなく「セリフを書く」になっていると気づかないのです。
だからそもそもアプローチを変えなければなりません。
「会話文」が先導するのではなく、「心を描く」が先導するのが小説なのですから。
状況を淡々と書く。そして「なにに対してどう感じた、思った、考えた」かを書いていく。
「会話文」なんて刺身のツマです。なくても小説は成立します。
しかし肝心の「心を描く」がなければ小説は成立しません。
だからこそ今「会話劇」「シナリオ」で書いている人は、アプローチを変えなければならないのです。
「会話文」依存から脱却するのです。
「会話文」が一行もなくても成立する文章を目指してください。
あとがき
今回は「心を描く」ことについて述べました。
小説賞・新人賞・コンテストでは「心を描く」書き方をしなければ絶対に一次選考は通過できません。
「会話劇」「シナリオ」をいくら極めても、「心を描く」小説には敵わないのです。
もちろん小説にも新形態があって、「会話劇」に特化した投稿サイトも現れました。
それでもやはり書籍化するのは「心を描く」小説だけです。
今「会話劇」「シナリオ」を書いている人は、パラダイム・シフトしてください。
固定観念を捨てて時代の変化に適応するのです。
あなたが「会話劇」「シナリオ」に強くてもそれを活かして小説は書けません。
「心を描く」ことに特化した書き方をしないかぎり、小説賞・新人賞・コンテストは勝ち抜けません。
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