現世奇々怪々談

永谷部流

タロウ

 茹だるように暑い夏のある日。

 彼は近くの小学校からガヤガヤと聞こえてくる子供達の声に目を覚ました。ベッドから体を起こし時計に目をやると針が指していたのは十五時過ぎ。

 大きく伸びをしながら部屋を出て一階へ降りれば、リビングは外の喧騒とは打って変わって静まり返っている。


「ヴーッ、ワンワンッ」


 と、玄関の方から犬の鳴き声が響いた。階段を降りて来る足音に気付いたタロウが散歩の催促をしているのだろう。両親と妹は父方の実家に帰省しており、家にいるのは夏季講習のため残った彼一人だけ。


 暑い中散歩に出るのは面倒だがずっと鳴き続けられては堪らない。冷蔵庫から取り出した麦茶を飲み、肩掛けバッグとスマートフォンを手に玄関から庭へ出る。

 蒸し暑い空気が肌に張り付き、夏独特の土と草の湿った匂いが鼻を突いた。


「やっぱり散歩はもうちょっと暗くなってから……」


「ヴーーー」


 溜息を吐いて軒先に繋がれたリードを解いてやれば、タロウはすぐ門扉へと駆け出す。


 普段の散歩は母や妹の役割であり、いつも通る道なども知らない。仕方ないので引っ張られるリードに任せ、付いていく形で歩き出した。


 そうして十分程。早くも吹き出した汗でTシャツがじっとりと張り付き、やはりもっと遅くにすれば良かったという後悔が彼の脳内を埋め尽くすが、タロウはそんなことなどお構いなしに住宅街をズンズンと進んでゆく。


 住宅街を抜け川の横の土手を通り、立ち並ぶ工場を横目にまた住宅街へ入る。

 長く住んでいる街であっても、いつもの道から少し外れれば意外と知らない場所は多いもの、二十分も経つ頃には周りの景色は見覚えのないものへと変わっていた。


 しかしそんな目新しさなどどうでも良いほど暑さでヘトヘトだった彼は坂道の手前で、そろそろ引き返し時だろうと踵を返してリードを引っ張る。


「そろそろ帰るぞ」

 

 しかし、タロウはその場で踏ん張って動こうとしない。

 どうも少し先にある、緑地のような公園が気になっている様子だった。


 道路と隣接する丘の下に遊具や砂場が置いてあり、斜面を鬱蒼とした木々の緑が覆っている。そしてその木々の隙間を縫うように丘の上へと続く階段が設置されていた。


 公園には自動販売機が設置されており、ベンチもある。少し休憩しても良いかと公園に足を踏み入れた彼が自動販売機の前で財布を取り出した時、突然走り出したタロウにその手からリードがすり抜けた。


 丘の上への階段をタッタッタッと駆け上がっていくタロウを、彼は慌てて追いかける。

 

 蚊柱の立つ階段を上り切った先に広がっていたのは、古めかしい街並み。ボロボロのブロック塀に平屋の一軒家、錆びだらけの外階段付きアパートに木造2階建ての長屋、昭和の雰囲気を色濃く残すその光景に彼は何とも言えない不安感に駆られた。

 特に生活音も声も一切しないシンとした人影の無さが、その不気味さに拍車を掛けている。


 少し先の方でタロウが脇道へと姿を消した。


 場所を確認しようとスマホを取り出すが画面は真っ暗なままで起動せず、まるで図ったかのように太陽が沈み始め空は赤く染まりだす。


 ここは何がおかしい。そんな直感に、暑さからではない嫌な汗が吹き出しドクリドクリと心臓が早鐘を打っていた。不安な思考を振り払い、早くタロウを連れて帰ろうとその姿が消えた脇道へ足早に歩を進める。


 脇道を曲がったその先の古い石塀の奥、そこは雑草の一本も生えていない土が剥き出しの空き地だった。中心には身の丈程の高さの石碑が建っている。


「さっさと帰るぞ!」


 その石碑を見上げるように立ち止まるタロウへ駆け寄ってリードを掴み引っ張るが、やはり頑として動かない。


 彼の恐怖が怒りへと変わるのに、そう時間は掛からなかった。


 自分はこいつの我が儘に付き合ってこんな場所まで来たのに、こいつはこちらの言うことなんて何一つ聞きやしない、と。


「もう知らないからなっ」


 彼が怒りのままにリードを放り捨てた瞬間、視界の端で石碑の裏からズッとこちらに伸びて来る長い影が見えた。


 今まで感じたことのない程の恐怖と焦りに苛まれた彼は、踵を返し無我夢中で駆け出す。石塀をくぐり、人気の無い住宅街を駆け抜け、先程上ってきた階段を今度は転げるように降りる。

 そうして丘下の公園まで戻ってきた彼は、目の前の道路を車が通り過ぎたのを見て思わずその場にへたり込んだ。

 街頭には明かりが灯り、公園の時計は午後八時を指している。いつの間にか太陽は完全に沈み、あたりには夜の帳が降りていた。


 今しがた駆け降りてきた階段を呆然と見ながら、必死に息を整える。そして消えぬ恐怖とタロウを置いてきてしまった罪悪感に呆然とする中、彼はふと、気付いた。


 、と。


 さっきまで一緒にいたはずのタロウの姿形が思い出せない。

 あの古めかしい街並みも、ボロボロの墓地もはっきりと覚えている。だが自分がの姿は靄が掛かったように分からなかった。


 そんな体験から十年以上が経った今でも、彼は犬の鳴き声を聞くと時折、酷く恐ろしくなるのだという。


 そんな話。

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