第2話 ゴトランド島陸軍病院〜ウィズビー近郊(深夜)
夜に備え、その日は早く寝たものの、なかなか寝付けなかった。
ここゴトランドも高緯度帯に入り、6月では10時近くまで陽が残っていることも大きい。
しかし1時くらいになればさすがに暗くはなるが、地平線は太陽の残照によって薄ら明るさが残る。夏のゴトランドに漆黒の闇は来ないのだ。
「起きてるか?」
ジークムンドの小声が聞こえる。あいつも眠れなかったらしい。
「そろそろ時間だな」
「鉄線を切るにも時間かかるかもしれん。早い方がよい」
夜目に慣れたハンスには、ベットの上でジークムンドの身体がムクリと起きたのがわかる。ハンスもまた身を起こし、音を立てずに床に立つ。
夜にはドア外の兵士も配置されないことはわかっているが、何が災いするかわからない。音を出さないに越したことはない。
ベットの下をまさぐり、右手が鍵を探し当てる。
防弾ガラス窓の鍵だ。
この鍵、合鍵として作ったものである。
「今日は温かいコーヒーを持ってきました」
とマリーヤが持ち込んだコーヒーポットの中に、小袋に包まれた
それをマリーヤが下着に隠して持ち出し、ヤコブに頼んで合鍵を作った。そして形式的なボディチェックにつけ込んで再び持ち込んだものだ。
この鍵で窓が開くことはすでに実験済みだ。音を立てないようにゆっくりと窓を開け放つ。
次の難関は窓の外につけられた有刺鉄線だ。隙間は小さく、大人がすり抜けることはとてもできない。
だが、これも対処済みだ。ジークムンドのベット下に隠した小型のペンチで、パチンパチンと切っていく。これまたマリーヤの下着の中に隠して持ち込んだものだ。
まったく表情も変えずにこれらを持ち込んだのだから、その語学能力も考えればマリーヤには女スパイの才能があるのかもしれない。
大人が抜けられる隙間を作り、まずはハンスが通る。服も引っ掛けずに抜け出ると、次は足の悪いジークムンドだ。杖を先に出し、ハンスが窓外から引っ張りながらジークムンドを引き摺り出す。服が鉄線引っかかって多少手間取るところもあったが、無事に屋外に脱出する。
「さて次だ」
病院とはいえ軍の施設だ。高い塀で病院は囲まれており、常時空いている門は正面門しかない。非常口の門の鍵は軍用で、さすがにおいそれと合鍵は作れない。
だが、これもリサーチ済みだ。
24時間で歩哨が立つが、中には歩哨中にうつらうつらする門番もいるとの話を聞いている。
歩哨のローテーションを読み切り、今晩のこの時間帯の口髭が立派な兵士の1人は、小さい歩哨小屋のなかで椅子に座って「夢の世界」に行っていることが多いらしい。その彼を起こさず、そおっと通り抜けるのだ。
杖歩きに慣れておらず、長いベット生活で脚が萎えてもいたジークムンドはなかなか早く歩けなかったが、ハンスが肩をかしながらも、薄暗い正面門に着く。
息を潜めながら、鍵のかかっていない正面門横の通用門を開ける。
ギギーッとドアが軋む音にビクビクしながら門の外に出ると、情報通りに舟を漕いて座っている口髭兵士。漫画なら鼻提灯をつけたいほどだ。
そろりそろりと足音を立てずに、寝ている兵士の横を通り抜けるハンスとジークムンドだが。
「アッ!」
焦ったか、ジークムンドが杖を取り落としてしまう。カラカラーンと甲高い音が辺りに響く。思わず声もでてしまう。
口髭親父を見ると、眠りから覚めた兵士とバッチリ目が合ってしまう。
➖あ、終わった。
一瞬で諦めたハンスは逃げることもしなかったが、口髭はにやりとすると、そのままさっきの居眠りスタイルに戻ってしまう。
それどころか、目を瞑ったままで右手を左を指す。
見逃してくれる、とわかったハンスは小さい声で『ありがとう《タック》』と数少ないスウェーデン語を使って感謝を述べ、杖を拾ったジークムンドを連れて左手に行く。
「み、見逃してくれた、のか?」
「らしいなっ」
「なぜ?」
「知るかっ。でもありがてぇ。今はそれだけで充分だっ」
「そ、そうだな」
訳がわからないままではあるが、2人は左手方向に走って逃げる。
訳はわからないが、想像はできる。
多分、同情されたのだ。
人道主義の強いスウェーデン国民、そして世論は、逃亡兵と言えど過酷な強制労働が待っているソ連に送るのは、心情的にしたくないのだろう。だが国際法上、または自国の利益からすれば強制送還するしか選択肢はない。
その板挟みの中、『勝手に』収容所から逃げてしまった兵については、まあ仕方ないと目を瞑ることもやぶさかではないのだろう。あまり数多くの逃亡兵を出してしまうと問題だが、数名程度ならソ連にバレることもあるまいというわけだ。
加えてマリーヤの好感度の高さもある。スパイの真似事をして機材を持ち込めたのも、もしかするとスウェーデン側の黙認があったのかもしれない。
なんにせよ、ありがたいことだ。自分ではあまり自覚がなかったが、俺はやはり強運の星の元に生まれたのかもしれない、などと考えながら、運動不足の足を動かして薄暗い道を走るハンスだった。
と、不意に強烈な光が目を刺し、目潰しを食らったようになる。思わず手を目の前に出し、光を遮るハンス。
「ハンスさん!ジークさん!」
聞き慣れたマリーヤの声が響く。今の光はマリーヤが乗ってきた車のヘッドライトだったようだ。
「無事に逃げれて何よりです!」
「なんとかな。運もあった」
「追手が来るかもしれませんっ。すぐに乗ってくださいっ」
言われるまでもない。オープンタイプの後部座席に飛び乗り、足の悪いジークムンドを引っ張り込む。
「行きます」
エンジンをかけ、砂利道をUターン。その後はかなりの加速で一目散に逃げる。
なかなかに荒い運転だ。エンジン音も大きく、少しの高低差にもサスペンションが軋む音を立てるくらいに、上下に揺れる。
「お、おい。もっとやさしい運転を…」
「はいぃ⁉︎何か言いましたぁ⁉︎」
自動車整備士だったジークムンドがたまらず声をあげるが、ハンドルに齧り付くような前屈みで運転し、速度も出しているマリーヤにはよく聞こえないようだ。
「だからぁ!もっとスピードを落としてぇ!」
「ごめんなさい‼︎運転に集中したいんで‼︎」
運転初心者で気が張っているのか、マリーヤにまったく聞く耳がない。
ハンスも、自分の操縦する飛行機なら相当めちゃくちゃな機動をしていたが、他人の運転する車だと結構怖い。
まあこの時間だと対向車もなく、道も曲がりくねっているわけではない。
大丈夫だよな、多分…、と自分に言い聞かせ、マリーヤのかっ飛ばし運転に命運を預けるハンスだった。
荒い運転に幾度かヒヤッとしつつも、マリーヤが2人を導いたのは、ウィズビーから少し離れた漁村だった。
早朝の漁のためか、漁灯をきらめかせながら何隻もの漁船が出港していく。
「漁船に頼んで、乗せてもらうことになっています」
車を止め、エンジンを切ったマリーヤが言う。この車は後で回収するらしい。シートをかぶせて目立たない場所に駐車する。
マリーヤ、ジークムンド、ハンスの順番で、どうしても遅れがちなジークムンドを2人で支え、漁村の桟橋へ向かう。
「あの船です。なんでもリガにいた頃からヤコブさんの密輸を手伝ってくれていた人達らしく、信頼はできます」
マリーヤが指差した小さい漁船には2人の若い漁師がいた。気さくそうで長身、顔つきも似てるから兄弟かもしれない。
マリーヤがスウェーデン語で声を上げ、2人もまた手を振りスウェーデン語で返す。意味はわからないが、表情からして歓迎されてはいるらしい。
「今日は波も穏やかですね。これなら数時間でストックホルムに着きますよ」
笑顔のマリーヤの言う通り、あまり揺れてない船縁に足を掛け、漁船に乗り込むハンスとジークムンド。
それを見届けたマリーヤは漁師に声をかけ、するすると
船が滑り出した海面には、まだ直接の日光は届いてないが、もうちょっとしたら水平線から日が昇りそうなくらいに明るくなってきている。
「どうやら、逃げれたようだなぁ」
ここまで来れば、もう大丈夫だろうと言う安堵感がハンスにはあった。
「杖落とした時は、さすがにダメかと思ったが」
「さすがにあれは指導案件だぜ、ジーク」
「あれは弁解できん。申し訳なかった。まだ杖に慣れてなくてな」
「まあ、今なら笑い話になるけどな」
ハンスもジークムンドも、自然と笑い顔になる。
「ハンスさん、ジークさん」
と、万感の思いを込めた顔で、マリーヤが2人同時に抱きついてきた。
「お帰りなさい」
「ああ」「ただいま、かな」
ハンスもジークムンドも、それぞれに抱きつく。
3人で肩を組むような形になって、無事を祝い合う。笑顔と笑い声で溢れる。
泣き虫のマリーヤも、大仕事を終えた満足感か、今日だけは満面の笑顔だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます