第3話 クールラント〜ゴトランド島(払暁)
前も書いたが、この高緯度帯の5月は劇的に日の出時間が早くなる。
また高緯度であるため、明るくなり始める払暁も早く、長い。
バレないように昨日午後から準備し、軽く睡眠をとって起きた午前3時頃には水平線が白々としてきている。
とはいえ、基地内は静かなもので、ハンスとジークムンド2人の息づかいでさえ辺りに響く心地さえする。
無言で宿舎を抜け出し、隠し掩体壕へ。
停戦協議発表で気が抜けているのか、見張りも全く立っておらず、薄暗い棟が立ち並ぶ基地内を小走りで走る2人。
偽装網に包まれた掩体壕はさすがに暗い。
だが、昨日のうちに必要最低限の荷物はシュトルヒに積み込んである。シーツを切って枝に結んだ、戦闘意志がないことを示す白旗も。
「航空燃料の管理は流石に厳重でな、整備用にって持ち出せたのは軍用タンク2個だけだった」
「まあ、なんとかなるだろ。たどり着くだけなら」
だが、今の言葉を裏返せば、あまり回避行動を取る余裕はないということだ。
中立国スウェーデンは国際法遵守を標榜する国だ。交戦国の逃亡兵に亡命は認められず、所属国に送還されるのが原則なので、見つかれば追い回されること必定だ。
それどころか領空侵犯で、問答無用に撃ち落とされる可能性だってある。
ソ連国内に抑留されるされるよりマシとはいえ、逃亡も安全ではないのだ。
「よっしゃ、いくぜぇ。……ふんっ!」
大人2人の人力で、気合いを入れてシュトルヒを押す。最初こそ力がいるが、機体が軽いシュトルヒのこと、ごろごろと車輪が回ると慣性が働いてそれほど力を込めなくても動く。
本来の滑走路はもっと南にあるが、そこは不整地離着陸が得意なシュトルヒ、ひらけている海岸方向に機体を向ければ、もう離陸準備完了だ。
操縦席に乗り込むハンス。
この座席に座るのも久しぶりだ。座りこごち、匂い、握った操縦桿の形。帰ってきた感が高まる。
さらにエンジンをかけると、一発でかかる。飛べてない間もジークムンドが整備してくれていた証拠だ。そしてその機動音でさえ懐かしく感じる。
「邪魔するぞ」
後席にジークムンドが乗り込む。
「整備でこの機体に乗り込んだことは数かぎりなくあるが、こいつで飛ぶのは初めてかもしれん」
「そうか。初飛行にようこそ」
整備兵あるあるだ。地上スタッフは基地移動の時も陸上移動するのが普通だから、そういうことも少なくない。
「シートベルトの付け方は分かるか?」
「それはさすがにバカにしすぎだな。俺は元自動車整備士だぞ」
「そうだったな。じゃ、とっとと行くか」
スロットルを開き、シュトルヒを加速させる。まだ暗い海岸を、大きな翼のシュトルヒが疾走。そのエンジン音に驚いたか、翼を休めていた海鳥がけたたましい鳴き声をあげて飛んでいく。
そうした海鳥の親分の如く、短い距離でシュトルヒが離陸した。
「…あっけないものだな」
「何が?」
「いやな、なんか軍を脱走すること自体が、なんか重々しい、重大犯罪をしでかすような感じがしてたんだが。……やってみれば実にあっけなく、脱走できてしまうのだな。あれだけ緊張していたのが、バカらしく思えるほどに」
「『意志あるところに道はひらける』っていうだろ。困難に思えても、やってみれば結構うまくいくものさ」
「お前の場合は、ただの行き当たりばったりに思えるがな。でも、まあ、悪くない気分だ」
振り返れないのでジークムンドの顔は見えないが、声からは楽しんでいるように思える。
しばらくは海面低空でシュトルヒを飛ばす。朝方ということもあり、風もほとんどなく海面も静かなものだ。
時間と共に明るさも増す。薄暗かった海も、徐々に彩りを取り戻していく。
と、同時に、目の前にひろがる平べったいゴトランド島も、だんだんと大きく鮮明に。
「もう少ししたら、スウェーデン領空だ」
ゴトランド島周辺のまだ暗い海域には、漁火のような光がいくつか見える。世界大戦中であっても中立国スウェーデンでは、漁船による日常の漁業が行われているのだろう。
「ジークは上空を見ていてくれ。スウェーデン軍の哨戒機が飛んでるかもしれん。俺は海上の巡視艇を中心に見張る」
「こんな朝早くから警備しているのか?戦争中でもないのに?」
「わからん。が、警戒するに越したことはない」
ぶっちゃけ、ハンスにもスウェーデン軍の情報は全くない。だが、クールラントにドイツ軍が閉じ込められて半年以上。ハンスたち以外にも脱走を企んだドイツ兵がいても、全くおかしくない。だとするなら、当然警戒しているはずだ。
「なんて言っていたら、やっぱりな」
白々してきた空に、ハンスはぽつんと浮かぶ飛行機の姿を見つける。
「10時上方上空に機影あり」
「…あれか」
ジークムンドの声は思ったよりあわてていない。
整備兵である彼が偵察や戦闘に慣れているわけがないので、もう少し動転するかと思ったが、ジークムンドも軍に入って長い。それなりの慣れはあるようだ。
「シルエットからして双発機、動きもゆっくりしているから哨戒機だろう。攻撃してくることはないだろうが…」
上空の飛行機と、海上を交互に目を配りながらハンスは言う。
「…だが、あの機体、段々と大きくなってきてないか?」
「……こっちに近づいてきているな。まあ、見つかるのも仕方ないか」
海上迷彩もしてない。上空からは一目瞭然だろう。存在を主張するように、その機体を降下させシュトルヒに近づいてくる。
やがて銀色に塗られた双発機が、胴体や尾翼に描かれた青地に黄十字のスウェーデン紀章を見せびらかせるように、左手上空に並飛行した。距離はそれなりに離れており、パイロットを確認できる事はできない。
そのまましばらく並んで飛行していたが。
「ジーク。後席の無線のスイッチ入れられるか?」
ハンスは双発機に眼をやりながら、思いつきをジークムンドに話す。
「扱い方ぐらいは分かるが…」
「入れてみてくれ。周波数は…」
ハンスはかつての後席、ミヒャエルに聞いた公的周波数を口にする。
「こんな感じか?…うわ、なんだ⁉︎」
ジークムンドが驚くくらい、無線から大音量で言葉が流れてきた。スウェーデン語だ。
スウェーデン語とは分かるが、内容の理解はハンスにはできない。ドイツ語と似た部分はあるものの、スウェーデン語はハンスの範囲外だ。
だが、発信先が並飛行しているスウェーデン機なら、内容は大体予測できる。
「多分、これから先はスウェーデン領空だ、引き返しなさいという警告文だろうな」
「……俺も意味はわからんが、同じ言葉を繰り返しているのはなんとなく分かる」
「ジーク、返信してくれ。敵意はないって」
「ええっ?俺はスウェーデン語なんて話せんのだが…」
「ドイツ語でいい。返信する事でこっちに敵意がないことが伝わるかもしれん」
「大丈夫だろうか…」
「ダメ元だよ」
「……わかった」
意を決してジークムンドが話し出す。
『こちらドイツ機だ。そちらに亡命したい。当方に敵意はない』
そのような言葉を何度か繰り返すが、相手の言葉に変化はない。
「伝わってる感じはしないな…」
「いいんだよ、それで。こちらが返信していることで、攻撃が抑えられれば万々歳だ」
敵意はないことを示しつつ、時間を稼ぎスウェーデンに近づく。それがこっちの狙いだ。
『繰り返す。当方に敵意はない。貴国への着陸許可をもらいたい。繰り返す…』
ジークムンドの相変わらずの返信に、スウェーデン機からも同じような言葉が返ってくる。だが、若干ボリュームは大きくなってきており、イラついているようにさえ感じる。
「…なんかご機嫌斜めのようだが」
「陸地まであと少しだもんな。警告のために銃撃が来てもおかしくないわな」
だが、機体は近づいてこないし、そこまでしてくる感じはない。
「もうこのまま誤魔化しながら、ゴトランド島へ不時着する。もう目の前だし、着陸してしまえばこっちの…」
もんだ、と言おうとした言葉が途切れる。
こんもりと海面に突き出た岩礁の影から、スウェーデン旗をはためかせた小型の巡視艇が表れ、シュトルヒの進路を阻むように航行してくる。
上空の飛行機に気を取られ、海上の監視を怠ったハンスは視認が遅れた。
そしてその前方甲板には対空砲が備え付けられ、こちらに砲身を向けている。数人の甲板兵もこちらを指差し、何か叫ぶように口を動かしている。
それがはっきり分かるくらいの近距離だ。
「伏せろっっ‼︎」
ハンスはシュトルヒの高度を海面ギリギリに落とす。対空砲の俯角の下に潜り込むためだ。
巡視艇の喫水線と甲板の間の高度まで落とし、船首先を横切る。シュトルヒのプロペラが波頭を巻き上げ、風防に潮が当たる。
俯角下のためか、あるいは同士討ちを恐れたか。対空砲が火を吹く事はなかったが、甲板兵が自動小銃を構える姿は確認できた。
「チイッ‼︎」
次の瞬間、シュトルヒの右側面に無数の銃弾が撃ち込まれた。
「うぐっ!」「ぐわああ‼︎」
銃撃音と破壊音の中、火かき棒を腕と脚に当てられたような激痛が走る!
後席のジークムンドからも悲鳴が聞こえ、コクピット内の風防に血飛沫が飛ぶ!
「ジーク‼︎」
ハンスは叫ぶも振り返えることはできない。目の前にゴトランド島の岸壁が迫ってきている。
急上昇のため操縦桿を思い切り手前に引く。被弾した右腕に激痛が走る。
「くぅうおぉぉーっ!」
どんなに痛くても操縦桿は離せない。叫んで痛みに耐える。
スロットルも引き絞り、速度を落として、海から岸壁を吹き上げる上昇気流にシュトルヒを乗せる。
そそり立つ岸壁を越えた先には、すぐに滑走路があった。
駐機してある哨戒機や戦闘機。立ち並ぶ格納庫。ひときわ高い管制塔にはスウェーデン旗。
軍の飛行基地のようだ。
「着いた」としか、ハンスは考えられなかった。燃料もつきかけていたシュトルヒを、滑走路を横切るような無茶な着陸をさせて停止させる。
「おい!ジーク‼︎」
右腕と右脚の痛みで感覚がなくなりつつも、慣れない左手でゴーグルと飛行帽をはぎ取り、後席を見る。
ジークムンドは血溜まりの中にいた。
「くそっ‼︎」
操縦席から身を乗り出して、ジークムンドのシートベルトを外そうとするが、激痛で動きが止まる。ただ、ジークムンドの口は動き呼吸はしているようだ。
と、機外から大音量のスウェーデン語が聞こえた。
あらためて外を見ると、10数人の銃を構えた兵隊に半包囲されていた。ご丁寧にも軍用トラックの荷台に対空機銃を取り付けた対空自走車もあり、シュトルヒに狙いをつけている。
着いたばかりにしては周到な準備だ。多分哨戒機の接触を受けた時から連絡は入っていたのだろう。
再び、拡声器で増幅されたスウェーデン語が響く。意味は相変わらずわからないが、この状況なら『投降せよ』の一択だろう。
ハンスは風防をゆっくりと開ける。こういう時、素早い動きは相手を警戒させる。
そして、操縦席横に準備した白旗を上げ、2度3度左右に振る。血飛沫が飛んで、少し赤が滲んでいるため完全な「白」旗ではないが、意味は伝わるだろう。
「抵抗する気はない!怪我人がいるんだ!助けてくれっ‼︎」
左手で白旗を持って立ち上がり、ドイツ語でありったけの大声で叫ぶハンス。
それを見たか、銃を降ろした兵たちがシュトルヒに近づいてきた。
「負傷しているのか⁉︎」
ドイツ語で聞いてくるスウェーデン兵がいた。
スウェーデンにもドイツ語を
「そうなんだ‼︎頼む!ジークを、後席を救ってくれ‼︎」
「わかった‼︎」
その兵隊は後ろの兵に短くスウェーデン語で命令したようだ。この兵は軍服からして将校、指揮官らしい。
『はい《シュッ》!』
それを答えて、兵たちが答える。スウェーデン語のYesの発音は、さすがのハンスも知っていた。
そして、遠目に担架を抱えた兵隊が走り寄ってくるのが見えた。
➖助かった、かな…
安堵したハンスは、操縦席に崩れ落ちた。
♢♢♢
ハンスのスウェーデン到着後の約1週間後、ドイツは連合国に、そしてソ連に降伏した。
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