日常

男娼になったら、好き嫌いなくどんな男とも寝なければならない。

 観音通りに来たばかりの頃、薫はそんなふうに考えていたし、しばらくの間それは事実だった。20分間分の代金を払った男に体内で射精をさせることが薫の仕事の全てだった。けれどすぐに、それはそう単純な問題ではなかったんだということが分かった。

 薫が、街灯の下に立たなくてもいい男娼に成長したからだ。

 今の薫の客は、もはやほぼ瀬戸一人だった。

 瀬戸は毎晩のように長屋にやってきては薫を抱き、翌日の予約を入れて帰っていった。 毎晩薫を貸し切りにするのだ。

 「きみが好きだよ。」

 と、瀬戸はよく言った。

 薫は曖昧な笑みでその言葉を流した。

 瀬戸を受け入れて、男妾になる。

 それはある意味、この通りで生きる人間の中ではサクセスストーリーだ。

 ただ、薫はそれを良しとはしなかった。だって、まだあのひとの面影さえ掴めてはいない。

 だから毎朝薫は蝉に抱かれた。

 瀬戸に抱かれ尽くしたあとで、疲れた身体をそれでも蝉に投げ出した。

 「あんたが好きだよ。」

 蝉もよくそう言った。

 その言葉にも、薫は明確な返事をよこさなかった。

 あの人が見つかるまでは、薫の心は何もかもが曖昧なままだ。

 薫の身体を抱いた後、蝉は毎日女捜しに付き合ってくれた。

 観音通りの遣り手たち一人一人に、薫を覚えていないか聞いて回るのだ。

 答えはどれも決まって、覚えていない、の一言だったが、蝉は根気よくその店の古株の女郎を紹介してもらっては話を聞いていた。

それでもやはり、答えは誰も同じ、覚えていない、だった。

 めげてはいけない。

 蝉に抱かれながら薫は思う。

 めげてはいけない。見つからないのが当たり前という状況で始めた人探しだ。めげてはいけない。

 気持ちいい? と、セックスをするたび毎回蝉は薫に訊いた。何度でも。

 気持ちは良かった。客とのセックスとは違い、ただその場に寝転んでいれば快楽が与えられるのだ。

 だから薫はいつも素直に、気持ちがいいと答えた。

 それ以外答えようがなかった。肉体に与えられる刺激と、それに伴う悦楽は本物だった。

 「俺と二人でここを出よう。」

 蝉はいつもそう囁きもした。

 前借金で縛られた身体の薫に、それでも。

 その囁きをいつも、薫は聞こえないふりをした。

 聞こえてはいけない誘いだと思った。前借金を残してこの街を出るのは命がけだ。

 それでも蝉は、毎朝飽きもせずに囁いてきた。

 俺と二人でここを出よう。




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