第1部 学院
第1章 プラクティカ
第1節 入学
灰を含んだ風が頬をなでた。春のはずなのに、少し冷たい。
雲の切れ間からこぼれる光は淡く、どこか遠い。
丘の上に見える白銀の塔群――。
エリシオン王立魔術学院。
この国で最も理層が濃い場所にして、最も危険な場所でもある。
黒瘴の観測範囲は年々広がり、学院はその防衛線の中心に立っていた。
「……本当に、ここに入学する事になるなんてな」
思わず口にしてから、自分で少し笑った。見上げれば、頭上には雲ひとつない青空――のように見えるけれど、あれは空じゃない。王立魔術学院の上空を覆う、薄く透き通った光の層。理層を安定させるために展開された人工理層だ。
淡い光の膜が、ごく僅かに脈を打つ。呼吸みたいに、吸って、吐いて。俺には、そこを流れる“何か”のざらつきまで、はっきり感じられる。
「兄さん、立ち止まって見上げてると怪しいよ」
隣でセシリアが言った。
いつも通りの、落ち着いた声だ。
「初日くらい、いいだろ?」
「浸るのは中に入ってからでもできるでしょ。ほら、もう結構人来てる」
視線を前に戻す。
制服姿の新入生たちが、正門をくぐっていくところだった。
皆、緊張した顔か、期待に浮かれた顔をしている。
学院の敷地に足を踏み入れると、足裏がかすかに震えた。
舗装された通路に組み込まれた魔導回路が、理層の流れを拾っているせいだ。
薄く青白い線が地面を走り、建物の基礎へと続いている。
中央棟へと続く広い階段の手前で、無意識に歩みを緩めた。
視線を上げる――というより、正確には“意識を上に向けた”。
「アルト」
声は、すぐ傍で響いた。
見上げた空間に、ふっと輪郭が浮かび上がる。
白い髪。
喪服にも似た黒一色の装い。
人の形をしているのに、足元は地に触れていない。
ネフェリアは、俺の頭上――ほんの数歩分の高さに、静かに佇んでいた。
彼女の姿は完全ではない。
光を通すように淡く、しかし確かにそこに在る。
それでも周囲の新入生たちは誰一人として足を止めない。
視線は彼女の存在を自然に避け、まるで最初から何も無かったかのように通り過ぎていく。
そういう在り方だと、分かっていた。
それが分かるから、俺は驚かない。
「ネフェリア」
名を呼ぶと、彼女は小さく頷いた。
それだけで、十分だった。
こうして姿を見せるのは、何かを伝える必要があるときだけだ。
アルトと、セシリアの傍で――言葉よりも先に、見守るために。
思わず呼び捨てにしてから、少しだけ周囲を警戒する。
誰もこちらを気にしてはいない。話し声と足音が、ざわざわと階段を満たしているだけだ。
彼女は、ふっと穏やかに笑った。
「心の準備は出来ているのかしら? 人工理層が珍しくて眺めるのは構わないけれど、私達の目的はちゃんと覚えているのよね?」
「もちろん覚えているさ。ただ理層が奇麗だと思っただけだ。あれが人工物だと思うと余計にな」
「そうね、限りなく自然に理層を補完しているわ。貴方達の両親の努力の結晶よ」
「……それで、俺達をここに?」
「いいえ。これはね、私が貴方達にただ見せたかっただけ。ここに来たのは私達の目的の為。それだけは忘れてはダメよ」
ネフェリアはそう言いながら姿を消した。
ネフェリアの気配が消え、ざわめきだけが世界を満たす。
人工理層の光が、変わらず足元を照らしていた。
見せたかっただけ――その言葉の意味を、俺は胸の奥で反芻する。
逃げ場を与えるためじゃない。
慰めるためでもない。
――進め、ということだ。
ここで学び、ここで備え、来るべき時に、迷わず立つために。
俺はもう一度だけ理層を見下ろし、そして視線を前へ戻した。
忘れない。
目的も、理由も、託されたものも。
だからこそ――。
俺は、この学院に来た。
「じゃあ行こ、兄さん」
「ああ」
中央棟へと続く階段を、強く踏み出す。
数段進んだところで、ふと背中に視線を感じて振り返った。
その瞬間、頭の中で“何か”が弾ける。
声なのか、記憶なのか、理層の反響なのか判別できない。
――ようこそ、再び――。
足が止まりかける。
セシリアに袖を引かれていなかったら、本当に立ち尽くしていたかもしれない。
「兄さん?」
「……いや、なんでもない」
首を振る。
数呼吸分の間に収まったはずのその響きは、妙に長く尾を引いていた。
聞き間違いか、幻聴か。
そういうことにしておくには、あまりに“俺に向けられた感じ”が強すぎると感じた。
だけど、振り返ってもネフェリアは居ない。
(今のは何だ……?)
考えても答えは出ない。
だから、今は考えないことにした。
学院に来たことで聞こえたのだ。学院に居る事で答えは自ずと見つかるはずだ。
セシリアの背中を追い、足を動かす。
立ち止まっている暇はない。
ここに来た理由は、揺らがない。
俺は、進むと決めたのだから。
学院の大きな扉が近づいてくる。
ここから先は、魔術と理層の世界。
黒瘴に呑まれかけたあの日から、ずっと遠くにあると思っていた場所だ。
扉の前で、ほんの一瞬だけ息を整える。
「……行くか」
「うん」
セシリアと並んで、重厚な扉をくぐると空気が一変した。
外よりもひんやりとしていて、どこか澄んでいる。
鼻腔をくすぐるのは、石でも金属でもない、言葉にしづらい匂いだった。
理層が安定している場所特有の感覚だと、直感的に理解する。
広いホールに、新入生たちが一斉に流れ込んでいく。
天井は高く、壁面には装飾と実用を兼ねた魔導構造が組み込まれている。
意匠として配置された紋様の多くは、単なる飾りではない。
理層の流れを制御し、学院全体を一つの巨大な術式として成立させるためのものだ。
「……広いな」
思わず漏れた声は、ざわめきに紛れて消えた。
「うん。迷子になりそう」
隣を歩くセシリアが、軽く肩をすくめる。
表情は落ち着いているが、視線は忙しなく周囲を追っていた。
「大丈夫だよ。案内符がある」
壁際に設置された半透明の案内表示を指さすと、セシリアは「あ、ほんとだ」と小さく声を上げた。
表示は固定されているわけではなく、混雑状況に応じて配置が微妙に変わっているらしい。
機械と魔術の中間。
この学院らしい仕組みだ。
人の流れに合わせて歩きながら、無意識に周囲を観察する。
新入生の多くは、期待と不安が入り混じった表情をしていた。
家族と別れ、これから始まる生活に胸を躍らせている者。
逆に、緊張からか、足取りがどこかぎこちない者もいる。
その中で――。
わずかに“浮いている”者たちがいた。
視線の動かし方。
立ち位置の取り方。
人混みの中で、無意識に死角を作らない歩き方。
(……慣れてるな)
学院という環境に、というより。
危険が身近にある状況に。
軍属の家系か、あるいは――。
外獣や黒瘴に近い場所で育った人間かもしれない。
「兄さん」
セシリアが小声で呼ぶ。
「どうした?」
「……さっき、一瞬だけ止まりかけた」
前を向いたまま、淡々とした声音だった。
探るような響きはない。ただの確認だ。
「考え事してただけだよ」
「ふうん」
それ以上、何も聞いてこない。
昔から、彼女はそうだった。
踏み込まないと決めたら、きっぱり距離を保つ。
助かる反面、誤魔化しが通じているのかどうか、分からなくなる。
胸の奥に、まだ小さな違和感は残っている。
だが、それを言葉にするつもりはなかった。
(……今はいい)
答えが出ない問いを、今ここで抱える意味はない。
学院に来た理由は、他にある。
俺は歩調を整え、視線を前に戻した。
歩調を整えたことで、胸の奥のざわつきも次第に落ち着いていった。
新入生たちは案内に従い、円形の待機エリアへと集められていく。
どこか儀式めいた配置だが、不思議と威圧感はない。
中央の空間は広く取られているものの、何も置かれていない。
壇上も、演台もない。
俺とセシリアは並んで腰を下ろす。
「思ったより、静かだね」
セシリアが小声で言う。
「説明が始まる前だからな」
「もっと、ざわざわしてると思ってた」
確かに、人数のわりには落ち着いている。
誰もが初めての場所で、無意識に空気を読んでいるのかもしれない。
周囲を見渡すと、既に機符を起動している生徒もちらほらいる。
表に画面は出ていないが、視線の動きで分かる。
理層情報や、学院の簡易マップを確認しているのだろう。
視界の端で、職員らしき人物が動き始める。
黒を基調とした制服に、胸元の徽章。
数人が静かに位置につき、場を整えていく。
その様子を見て、ようやく実感が湧いてきた。
(……本当に、入学したんだな)
そう思った瞬間、不思議と気持ちは静まった。
浮つく理由も、怯える理由も、もうない。
ここでやるべきことは決まっている。
それだけを、淡々と積み重ねればいい。
俺は背筋を伸ばし、静かに待つことにした。
待機エリアには、次第に落ち着いた空気が満ちていく。
さっきまであった小さなざわめきも、今では控えめな囁き声に変わっていた。
誰もが、これから始まる何かを前にして、無意識に呼吸を合わせている。
壁面に組み込まれた魔導構造が、淡い光を保ったまま安定している。
理層の流れも乱れはない。
ここが徹底的に管理された場所であることを、改めて実感させられる。
セシリアは隣で、静かに前を見ていた。
特別な緊張は感じられないが、気を抜いているわけでもない。
その横顔を見て、少しだけ安心する。
俺たちは、ここまで来た。
誰かに連れてこられたわけじゃない。
選んで、この場所に立っている。
視線を巡らせると、職員たちの動きが目に入った。
配置につき、互いに短い合図を交わしている。
準備は、ほぼ整ったようだ。
まだ言葉は発せられていない。
だが、空気が確実に切り替わりつつある。
ここから先は、聞くだけの時間じゃない。
学び、選び、応える場所だ。
胸の奥に残っていた微かな違和感は、意識の底へ沈めた。
今はそれでいい。
答えは、必要なときにしか浮かび上がらない。
俺は静かに息を吸い、吐く。
この場所で、やるべきことをやる。
それだけを胸に刻みながら、始まりの時を待った。
エイトレット・アンフェヴン 悲志忌 @aozora_00234
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