六道・四
はしごの最後の段を昇り終えたとき、はしごはたちまち消えてしまった。
自分自身の中にあると言われている六道では、元いた場所と違う法則が働いているのだろうと、いちいち驚くのは止めてしまった。
みずほは自身の腰の獅子王の柄を撫でながら、辺りをぐるりと見回す。
今までの場所はなんの気配もなかったが、ここは違う。
不可思議な模様の蝶が羽ばたき、艶やかな色の花の蜜を吸っているのが見える。ジリジリと虫の鳴き声が響き渡り、今までの人気がなく、音もない場所を思えば、虫がいるだけ賑やかなのかもしれない。
みずほはしばらく蝶の採蜜に目を留めていたが、気を取り直して走りはじめた。地面は程よく固くて、それでいて土は柔らかいので足音が大きく響かない。
天狗を探さなくては。今までも探せばすぐに見つかったのだから、今度もそこまで苦じゃないだろうと、そう思っていたが。
「う……うわぁ……」
子供の悲鳴を聞き、みずほの体が強ばる。
……千年経って、忘れてしまっていたことを、ずっと後悔していた声だった。
「千熊丸……?」
生き別れてしまった我が子の声を、聞き間違える訳がない。みずほは辺りを見回す。
草木が生い茂ったこの場所では、伸びに伸びた草はみずほの履くブーツほどにはあり、子供ひとりを探すのもまた難しい。
みずほは獅子王を抜き放つと、辺りの草を刈りながら、少しずつ探しはじめた。
「千熊丸、千熊丸……!」
ここは自分の中にある六道だと、頭ではわかっている。だからここにいる千熊丸は本物ではないということも。鈴鹿がみずほを六道まで引きずり落としたとき、どんな罠を仕掛けているのかわかったものじゃないと。
鈴鹿は田村麻呂以外に興味がないが、みずほ……悪玉は違う。
夢幻でもかまわないから、我が子にひと目会いたかった。
やがて、草木を刈って回り、だだっ広い場所へと辿り着いたとき。
切り揃えられたあどけない髪、まだがばがばの水干を着た幼子が、草原でこちらに足を向けて横たわっているのが見えた……その上に馬乗りになっている、白拍子の女と一緒に。
「……鈴鹿!? どうしてここに……!」
「あ……う……」
みずほの悲鳴も無視して、鈴鹿は千熊丸を睨みながら、金色の瞳を爛々に輝かせながら、まだ細い首に指を絡めていた。
千熊丸は、必死で抵抗したのだろう。手足に伸びた草が付いているが、もう動かない。
「……憎い、あの女が、ぬし様の子を……!!」
「お止めなさい……!!」
みずほはとうとう我慢できず、鈴鹿を大きく蹴り飛ばすと、彼女は難なく彼女に地面に転がされた。
それでも千熊丸は、ぴくりとも動かない。先程まで声を上げていたというのに。
みずほは必死でその子を抱き上げると、先程まではあっただろう体温が、どんどん抜け落ちていることに気付き、彼女は唇を噛んだ。
自分が悪玉だとわからないかもしれない。自分が母親だと気付かないかもしれない。それでも。それでも。夢幻でもかまわないと願った親子の再会が、こんな形でだなんて信じられなかった。
みずほは頭に血が昇り、地面に転がったままの鈴鹿を斬りつけた。
獅子王は顕明連の写しではあるが、神刀でも霊剣でもない。それでも鈴鹿の傷口は塞がらない。そこに気付かぬまま、みずほは力いっぱい刀を振り下ろし続けていた。
「あなたがいなければ……! あなたがいなければ、この子は……! 幸せに元服し、嫁を娶って、都や皆のために働いたでしょうに……! あなたさえいなければ、あなたさえいなければ……!!」
みずほは気付かない。
いつも自分が口開く前に口を閉ざされてしまったとき、なにを思っていたのかということを、そっくりそのまま口にしているということに。
みずほは気付かない。
第六天魔王の娘にして鬼女である鈴鹿は、本来ならそう簡単に血を垂れ流しながら、何度も何度も斬られることはないということを。
みずほが夢中で刀を振るい続け、だんだん鈴鹿の返り血で、みずほが赤黒く染まってきたとき。
「蓋を開ければ、どれだけ綺麗事を並べても、所詮は畜生ぞ」
淡々とした声が響いた。
背丈の大きな男は、黒い着物を着て、背中に黒い羽根を生やし、顔に烏の面を嵌めている。それはどう見ても天狗そのものであった。
そこでようやくみずほは、獅子王を鈴鹿から抜き、赤黒く濡れた刃を天狗に向けた。
「……あなたさえ、殺せば」
「畜生風情が、畜生には説法が通用せぬか」
淡々と毒を吐く天狗に、みずほは少しだけ怯む。
ここは畜生道。人間はいないものの、それ以外の動植物は存在している道。
そして畜生には説法は通用しない、改心しないという皮肉を投げかけられたのだ。天狗は淡々と言う。
「貴様の子供は、敵を殺せば生き返るのか。なにも考えずに殺せばそれで気が晴れるか。そのときそのときの気分で生きるは、人間はおろか犬猫にも劣る畜生そのものぞ」
「違……」
「なにが違うと言うのか。貴様、自分が殺したいから殺しただけであろう。怒りでもない、衝動でもない。貴様自身の快楽のために殺したのであろう」
「かいら……私は、違います!」
「じゃああの女の死骸はなんだ」
天狗が鈴鹿を指差す。
本来、彼女は美しい御髪の、透き通る肌を思った美しい女だが、怒りのままにみずほが切り刻んだ彼女は赤黒く汚れ、血で地面を濡らしながら、野ざらしにされている。そこには死に対する敬意も尊厳も、微塵も感じられない。
それをしたのは、間違いなくみずほ自身なのだ。
みずほは言葉を失う。
たしかにあの女は、千熊丸を殺したのだ。自身の目に入れても痛くない子を。みずほはずっと見ないふりをしていた。思い出せないように必死に蓋をしていた……そうでなかったら、我が子を死なせてしまった絶望と虚無に、耐えきれる自身がなかったからだ。
自分は我が子を踏みにじった鈴鹿に、全く同じ思いをさせたい、それで気が済むまで嬲りたいと、本当に一度も思わなかったのか? どこかでそう感じていたのではないか?
……戻ったとき、鈴鹿と対峙する際、本当に全く同じことをしないとは限らないのではないか?
「私は……あの人は憐れだと、本当に思っています。あの人は、私と同じなのに、どうしてこうも変わってしまったのか、わかりませんから」
「ふん。口ばかりでならなんとでも言えるな。あの女を無残に野ざらしにして」
「……なら、私の怒りはどこに向ければいいのですか。ずっと燻っていたから、表に出たのではないのですか!?」
とうとうみずほは、天狗の言葉に髪を逆立てて声を荒げる。それをますます天狗は鼻で笑った。
「激情は肯定されるべきものだと考えているなら、これほどおめでたいこともないものだな」
「あなたは……本当に……!」
怒りをぶつけるのは簡単だ。鈴鹿のように、獅子王で手に掛ければそれで終わるのだから。だが。それでいったいなにが残る? 我が子は帰ってくるのか? 死んだものは帰ってこない、そんなことは千年前からよくわかっている話だ。
今までの天狗も、さんざんみずほの奥底に眠っていた欲求と、否が応でも向き合うように責めてきていた。今回もまた、この天狗の問答に答えるべきではないのか。
みずほはふつふつ湧き上がってくる感情をどうにか冷ましながら、必死で言葉を探った。鈴鹿は性格上、人を煽ってそれを逆手に取ってくることはありえる。
朔夜と共に生きると決めたのだ、その彼が悲しむようなことがあってはならない。美しい自分にはなれないかもしれないが、出してもいい自分でいなければ、彼と共に生きることは叶わない。
****
宝蔵から、次から次へと得物が降ってくる。
尽きることなく降り注いでくるのは、彼女が大六天魔王の娘であり、六道の宝物を押し込めているからだろうと推測することができる。
町の舗装が抉れ、めくれ上がり、とうとう
今は避難している人々の町を、これ以上この女のせいで、蜂の巣にすることはできまい。
そんな中、ひと振りの直刀がすごい勢いで朔夜の退路を塞いだ。
鈴鹿は恍惚の笑みを湛えて、彼を眺めている。
……万事休す、か。まだみずほが戻ってきていないというのに。朔夜が唇を食いしばったとき、こちらを塞いだ直刀に見覚えがあることに気付いた。
これこそが、ずっと逃げ回りながら朔夜が探していたものだったのだから。
「……お前さんのことを、信じていてよかったと思ったことは、後にも先にもこれだけだろうさ」
そうひとりごちながら、そのすらりと伸びた直刀を引き抜いた。それはゆうに朔夜の背丈を超える長さのものだった。長さだけならば、騒速丸と遜色ない。
それを見た途端、鈴鹿はぴくりと唇の端を持ち上げた。
「ぬし様……その刀は」
「俺の相棒を、ずっと持ち歩いていてくれて、ありがとう、な……!!」
そう言って、朔夜は乱暴に直刀を一閃させた。
途端に、その衝撃で降ってきていた得物が散らばり、地面に転がる。
この刀は、騒速丸はおろか、神刀でもなければ、霊剣でもない。
逆に言ってしまえば、この世でただひと振りの、朔夜が振り回してもそれに耐えうることのできる、ただの剣だという訳だ。
宝蔵の得物を、黒漆剣で捌きながら、朔夜は鈴鹿の懐目掛けて走って行った。
妻、みずほが帰ってくるまでに、彼女を討たないといけない……彼女の刃を鈴鹿の血で濡らすようなことは、あってはならない。
人間と共に生きたいと願う彼女が、これ以上鬼女としての性質に苦しめられるところは、見たくはなかった。
****
しばらく考え込んでいたみずほだが、やがて獅子王の刃を懐の懐紙で清め、鞘にしまった。それを天狗は一部始終眺めていた。
「なんのつもりだ?」
「あなたを斬る前に、あなたの言葉に答えねばならないと思いました。私も疑問なんです。私の衝動は、今代で生きるにはあまりにも不向きですから」
「ふむ……」
「……ええ、私は鈴鹿が憎い。憎くて憎くて仕方がなく、同時に彼女が憐れでなりませんでした」
「また口先だけの同情か。あの女、ちっとも浮かばれんな」
「違います! ……ただ、彼女のように私は生きられないと、そう思っただけです。たしかに生い立ちは似ていますし、愛した人も同じですが、その後の選択は必ずしも同じではありません」
「ふむ……貴様の選択とは?」
「私は、朔夜さんと、生きていたらあの子と、ただ幸せに生きていたかった。嫌われるのは悲しいですが、全員から好かれると思って生きた試しはありません」
「ふむ」
そうだ。自分はただ、田村麻呂と千熊丸と、平凡でも共に生きられれば、それだけでよかった。
……間違っても、自分を滅茶苦茶にして、天に還れなくした男たちの一族郎党を滅ぼしたいなんて、思ってはいない。男たちは全員悪玉が殺したが、その家族には手を出してはいないのだから。
鈴鹿は自身の幸せのためなら、躊躇なく手をかける。それは女子供問わずに。
みずほはようやく、獅子王を引き抜いた。
「好きな人と一緒に生きたい、最初はどちらも同じ願いでしたが、私はきっと朔夜さんと添い遂げられなくとも、長者屋敷で使用人として一生を終えていたこともあったかと思います。彼女みたいに、国ひとつを滅ぼしたいとは思えませんでした」
「それは何故か?」
「私の欲は私で律するためのもの。ただ思うがままに生きることは、自分らしく生きることからは程遠いからです……!!」
そう言って、ようやくみずほは一度納めた刀を引き抜き、天狗を斬った。
天狗の面は割れ、こちらを見てきたのは、白い髪、金色の瞳をした……大嶽丸の姿だった。
大嶽丸の姿かたちを持つ天狗は、首のまま言う。
「そのことをゆめゆめ忘れべからず。畜生道とは、欲に溺れた末路と見つけたし」
「……ご教授、ありがとうございます」
やがて、蝶のはばたきで鱗粉が飛んだ。その鱗粉が、くるくると形をつくり、みずほを誘った。そちらに行けば、次の道へと進めるのだろうか。
「朔夜さん……私、あと少しで……」
みずほは獅子王を鞘に収めると、蝶を追って走り出した。
その先こそが、最大の難所だということを、みずほはまだ知らない。
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