追憶・一

 金色の髪を烏帽子に詰め、蒼い切れ長の瞳で衣冠を纏う。

 武官として都に出仕する、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろは孤独な存在であった。

 征夷大将軍として蝦夷に向かえば、一騎当千の勢いで敵を鎮め、敵をおそれさせた。

 しかしそれは、味方をもおそれさせた。


──あれは鬼の子。必死に人になろうとしている

 ──あんな肌が象牙色の男がいるものか

  ──髪の色も、目の色も、人とかけ離れておるわ

 ──聞こえぬようにな、あれを敵に回せば死ぬぞ


──ああ、恐ろしいおそろしい


 田村麻呂は文官の戯言を、適当に受け流していた。

 文官は都の移動のことだけ心配していればいいだけの話。自分は蝦夷地の制圧をすればいいだけの話。文武共に役割が違うのだから、できる相手に任せればいいのだ。

 できぬことを自身の手柄にしようと躍起になるほうが、馬鹿馬鹿しいのだから。

 当時、都は移動したばかり。各地の平定のために、あちこちに兵を派遣し、制圧を繰り返していた。

 そのときも、田村麻呂は鷹野の平定を命じられ、その帰りだった。部下たちを先に都に返し、しんがりを務めた田村麻呂は、返り血をべっとりと浴びて馬を走らせていた。

 いい加減、馬がつらそうに息を荒げている。

 自分はまだいいが、せめて馬に水をやろうか。ちょうど耳を澄ませたところで、せせらぎの音が響いてきた。そこでしばし馬を休憩させようか。そう思って馬から降り、馬を引いて川辺へと向かっていると、先客がいるのが目に留まった。

 ちょうど川の畔でせりを摘んでいる娘を見つけ、彼は言葉を失った。

 真っ黒なぬばたまの髪に、真っ黒な瞳。肌もつるりと光っていて、地味な直垂を着ているのがもったいないと唸らせる姿をしていた。

 彼女にしばし見とれていたが、田村麻呂はすぐに我に返った。自身は血塗れで、これでは彼女を怖がらせてしまう。さんざん考えてから、田村麻呂はおずおずと声をかけた。


「……すまない、馬に水をやってもいいだろうか?」

「……っ!」


 彼女は息を呑んだ。籠に入れていた芹が川辺に散らばる。それに田村麻呂は謝る。


「すまない、お前さんの芹摘みの邪魔をするつもりはなかったんだ。ただ……お前さんに見とれていて……」


 これでは、口説いているように聞こえる。ただでさえ、甲冑を付けたままなのだから、余計に彼女を怖がらせてしまうだろう。

 田村麻呂は自身の言葉の足りなさを後悔していたが、彼女は少しだけ上擦った声を上げた。


「……あなたは、私が見えるというの?」


 彼女は芹を拾い集めながらも、警戒したように肩を強張らせて、じぃーっと田村麻呂を見ていた。まるで野山を駆け回る鹿のようだ、と田村麻呂は少しだけ苦笑して頷いた。


「ああ、俺にはお前さんがよく見えるよ」

「そう……馬に水をやるんだったらどうぞ」


 名前すら聞く暇もなく、彼女は芹を全て籠に収めると、そそくさとその場を立ち去ってしまった。

 田村麻呂は少しだけ呆けて、彼女の光輪を弾く髪を眺めていた。

 彼女は、一度も自分の顔をじろじろと見なかったのだ。自身を気味悪がって眺める人間など、少なくないというのに。

 格好からして、どこかの使用人だろうが、またどこかで会えるだろうか。あの小さな背中を思い浮かべ、田村麻呂は少しだけ胸に温かいものを覚えていた。


****


 夜が迫り、いい加減馬を休ませなかったら走れないだろうと、馬を引いていく。

 ちょうど、道を歩いた先に、この辺りを治める長者の屋敷が見えてきた。

 門番は夕焼けに照らされた田村麻呂の髪に驚いたものの、長者は温かく出迎えた。


「遠路はるばるようこそお越しくださいました。都で噂の坂上様が我が屋敷を訪れてくださいますとは。これは縁起がよいものですなあ」


 わかりやすいおべんちゃらにうんざりしつつ、馬の餌とひと晩の宿を頼むと、心得ている長者がすぐに使用人たちに指示を飛ばして食事と寝所の世話とくるくると働かせはじめた。


「こら、坂上様ぞ。もっと酒と料理をふるまわんか! 蝦夷を平定してくれたから、ここでこちらはのぉんびり暮らせるというに!」

「いや、俺は馬の餌さえ用意してくれれば、納屋でも充分寝られるんだが」

「そんなこと、坂上様にさせられますかっ!!」


 どうにもここの長者は見栄っ張りらしかった。

 そのため、彼の前にはこれでもかと酒と姫飯ひめいいが振る舞われ、食後に芋粥まで出されるという始末に閉口しながら、田村麻呂は食事を終えた。

 このまま貸し出された部屋に寝に行こうとしたとき、長者に「坂上様」と声をかけられる。


「もう食事も酒も充分いただいた。これ以上は大盤振る舞いが過ぎよう」

「いえいえ。寝るとなったら、女と共寝が定番でしょう」


 ここまでされたら、いい加減都に戻る際になにか便宜を謀れとか迫る気ではないかと疑えてきたが。田村麻呂は半眼で長者を睨みつける。


「明日もまた、馬を走らせねばならぬから、俺は本当に横になりたいんだが」

「いえいえ。せめて女を枕に使えばよろしいでしょう」


 どう断ったものか。素直に「いらん」のひと言で突っぱねたせいで、あることないこと触れ回られたら、今後の北方平定の際の士気にも関わる。

 長者の後ろには、ここで働いているらしい女たちが並べられている。皆が皆、脅えた顔をしているのは、自身が異人の顔立ちをしているからだろう。

 そんな中、ひとりだけこちらをじっと見ている娘がいることに気が付いた。

 川辺で出会った、おそろしく美しい娘であった。


「……彼女は?」

「ああ……坂上様。失礼ですが、もっと上等な娘もおりましょう。あのような醜女しこめを夜の共にせずとも」

「醜女? どこが」


 田村麻呂からしてみれば、どこからどう見ても、他の娘たちよりもひと際美しく見えるが、長者はあからさまに顔をしかめてたしなめてくる。


「あれは売れ残りを安く買った女ですよ。働き者ではありますが、客人の相手にさせるのは恐れ多いです。今だって、別に呼んではいなかったのですが……これ、悪玉あくだま! 呼んでもいないのに、何故このような場所に!?」


 長者に怒鳴られても、悪玉と呼ばれた娘はぴくりとも反応せず、答える。


「長者様は呼んだではございませんか。『あの風変わりだったら抱くやもしれぬ』と。だから私は並んだまでです」


 抑揚のない声でぴしゃりと言われ、田村麻呂は長者に視線を向けた。長者は背中を丸める。


「い、いえ……本当に、呼んだ覚えはないのです。ほ、ほら、他の娘もおられますから」


 まだたじたじと言い募ってくる長者に、田村麻呂は溜息をついた。

 いい加減、彼女たちが脅えているのだから解放したいし、なによりも悪玉のあまりにも醒め切った表情が気になった。そもそも彼女が美しいのは見てわかるというのに、長者も周りも、本気で彼女を醜女と信じて疑っていない。


「彼女をいただこう」

「……はっ! はあ、わかりました! これ悪玉! ちゃんと坂上様にお仕えするように」

「わかりました」


 抑揚のない声を上げ、悪玉はしずしずと田村麻呂の傍に寄った。田村麻呂は仕方がなく、彼女を与えられた部屋に連れ帰ったのだった。


****


 脂を入れた皿の上で、火が踊っている。

 その中、田村麻呂は悪玉を組み敷くことなく、甲冑を脱いで床に置き、ごろりと横になる。


「ひとつ聞く。本当にお前さん何者だ?」

「何者とは」


 田村麻呂の傍に座る悪玉の返事は素っ気ない。

 これは長者が気に入らないとか、使用人として扱われるのが気に食わないとか、そういう類のものではあるまい。

 彼女は人間嫌いなのだろうと、田村麻呂は当たりを付けた。初めて出仕したとき、周りからさんざん奇異なものを見る目で見られたために、田村麻呂自身もそんな態度を取った覚えがある。


「長者は気付いてなかったようだがなあ……お前さん、なにかしら術を使っているだろ? お前さんのことを、誰もかれもが本気で醜女と信じてい疑ってない。だがなあ……俺はその手の連中をさんざん見てきたからな。まやかしの術を使うものというのはよく知っているさ」

「そう……あなたはずいぶんと鬼を」

「ああ、さんざん屠ってきた。お前さんには酷かもしれんがなあ」


 田村麻呂はじっと悪玉を見た。

 制圧の際に、田村麻呂はさんざん魑魅魍魎に鬼、妖怪変化との戦いを繰り広げてきた。

 四鬼がことを起こせば馬を走らせ、それを一騎当千で仕留め、魑魅魍魎が騒乱を起こせば、それを薙ぎ倒し。

 部下も死んだ。馬も死んだ。しかし坂上田村麻呂は返り血で血塗れのまま、直刀を背になおも生きているのだから、各地で彼の名が轟くのは仕方がなかった。

 しかし青い瞳、象牙色の肌。甲冑を纏い、兜をかぶったところで、それらが隠れることもなく、都ではひとり、またひとりと嘯くのであった。


──坂上田村麻呂は、蛇の化身の子ぞ。ただの人間がこうも強くあるわけがない

 ──仏の加護がついている。直刀だけでこれだけ力を持つわけがない

  ──あれだけ人並外れたものが、ただの人であるわけがない


 坂上田村麻呂は、ただの人である。

 ただ大陸の血が混じり、この国に住まう者と髪の色も瞳の色も、肌の色すら違うだけの。

 彼の長身により、他の者が振るうどころか持つことすら困難とされるほどの長く重い直刀を振るい、数多の鬼や魑魅魍魎を屠るだけの、ただの人。

 鬼や魑魅魍魎からは、天敵とされ命を狙われることも物ともしないだけで、ただ強過ぎるだけの人である。

 だからこそ、悪玉の術式に引っかかることもなく、彼女の本来の姿を瞳に捉えていた。

 悪玉はしばらく遠くを見たあと、ようやく口を開いた。


「……私は、堕とされた神。鬼と成り果てた身」


【悪】は本来、「強い、大きい」という意味を持っていた。

 しかし、宗教がめまぐるしく日ノ本に入り、意味も変わってきた。

 その名を冠する彼女も、ただの出自な訳があるまい。

 悪玉は淡々と語る。


「私は元々、天照大神あまてらすおおみかみの使いとして地上に降りたけれど、そこで貶められた」


 悪玉はそこで口を噤んだ。初めて彼女から感情らしきものが滲んで見えた。

 憎い。醜い。嫌い。酷い。

 それに田村麻呂は察することができた。

 荒くれものの中には、伊勢詣をする姫君や公家を襲う輩も存在している。彼女は天の使いとして降りたところを、荒くれものに襲われたのだろう。

 貶められたら、もう天に戻ることはできない。さりとて、貶められた神に居場所はない。

 死んでしまえ。死んでしまえ。お前らなんか全てならされて屍をさらし、そのまま踏み鳴らされて、土に還れ…………!

 彼女のされたことを思えば、その心身を怨嗟に苛まれ、天に還ることすらできなくなっても仕方があるまい。

 悪玉は怨嗟の表情を浮かべる一方、声に抑揚がない。それはおそらく、泣いたところでどうすることもできないからという、諦観から来たものであろう。


「……そのまま、私は売り飛ばされた。だから術を使って姿を変えた。ここに住まう者たちには、私がさぞかし醜悪な姿に見えているだろう。だから、あなたのように、私の顔を見抜いたのは初めて見た」

「いや、事情はわかった。お前さんの口から、嫌なことを言わせてしまって済まなかったな」

「抱かないの?」


 悪玉は、なおも座ったまま警戒した視線を隠そうともせず、田村麻呂を見た。

 心底憐れな娘だと思った。帰ることもできず、嫌い抜いている人間たちの中で生きるしかできない、鬼に堕ちた娘。幸か不幸か、彼女はまだ誰ひとり害していない。

 田村麻呂は、彼女の手を引くと、彼女を自身の隣に横たえた。悪玉は観念したように目を強く瞑ったが、なんの衝撃も襲ってこなかった。

 彼女が今までされたことを思い、田村麻呂はただ、彼女の掌を手に取った。悪玉はびくんと肩を強張らせる。

 ひと回りほど大きさの違う彼女の掌は、この年頃の姫君ではありえないほど手がささくれ立っている。さぞや使用人として酷使され続けたことだろう。


「なにもせんよ。ただ、お前さん体が丈夫なせいか、ずっと使われ続けていただろう? 手が荒れ放題じゃないか。今日一日くらいはよく休め。俺のお手付きということにしておけば、長者も多少はお前さんに便宜を謀るだろうさ」

「……どうして、私にそこまでするの?」

「そうさなあ……」


 金髪碧眼。黒髪黒眼。肌の色も、顔かたちも、性別や出自すらも違うが。田村麻呂からしてみれば、初めて出会った似通った娘であった。

 人間を嫌い抜いているというのに、それでも背筋を伸ばして生きている。

 田村麻呂は脂の火を消すと、そのまま再び寝転がる。


「お前さんは俺によく似ていると思っただけだ」


 悪玉は困惑したように、田村麻呂を見ていたが、やがて彼女も目を閉じた。

 有言実行した通り、ただふたりは一緒に眠りについただけで、閨事らしきことは、一切なかったのである。

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