伝承

 シベリアを食べながら、みずほはいったいどうやって伊藤に切り出したものかと考える。

 朔夜はうすらとぼけて自分の正体を言いたがらないし、もし彼がいる前で尋ねたとしても、絶対に邪魔するように思える。だとしたら、どうやって聞いたものか。

 そう考えていたとき。


「お客様、お財布を忘れて……お客様ー!!」


 松葉は扉を開けて、叫んでいる。どうも伊藤と行き違いで店を出て行った客が、会計の際にそのまま財布を忘れていったようだ。

 松葉は困ったように財布を眺めてから、「すみません、店長。ちょっとお客様を探しに走ってきます」と言うので、みずほが立ち上がる。


「すみません。最近なにかと物騒ですので、私も松葉ちゃんに着いていこうと思います」

「おや、田村さんが行くんですか?」


 伊藤が不思議そうな顔をする。

 今のところ殺されているのは、裕福な女学生たちばかりだが、年齢を考えれば松葉もみずほもそう変わらないのだから、彼女が一緒に行くというのを不思議に思ったのだろう。

 それに気付いたのか、朔夜がポンとみずほの肩を叩く。


「お前さんの知己になにかあったら事だろう。俺が見てこよう」

「ああ……お願いしますね」


 朔夜が松葉と店長のほうに話をすると、松葉は何度も何度も頭を下げて、ふたりで一緒に客を追いかけて出て行った。

 ふたりがいなくなったのを見て、松葉を心配しつつ、ふと今がいい機会なのではと思い至る。


「あのう……伊藤先生は千年ほど前のことを研究しているとおっしゃっていましたが。坂上田村麻呂って、ご存じですか……?」

「おや、坂上田村麻呂ですか? 蝦夷でアテルイと戦った征夷大将軍のことでしたら、今もよく資料を見ていますよ」

「そうだったんですか……あの、あの方もたくさん伝承があるでしょう? その方がたくさん鬼を倒したっていうので、そのことを少しだけ勉強したいなあと、思ってまして……」


 さすがに、無知な娘がこんなことを言い出したら、不審がるだろうか。そうみずほは思ったが、単刀直入に「坂上田村麻呂と鈴鹿御前に関係する鬼の名前を全部教えて」なんて聞く訳にもいくまい。

 しかしみずほの不安とは裏腹に、伊藤は目をきらきらと輝かせている。自分の本分の話ができる機会を与えられて楽しいというような。


「そうですねえ。坂上田村麻呂は有名人な上に、伝承や創作もたくさんつくられていますからねえ。鬼狩りの伝承も、東北のほうに広く分布していますし。蝦夷地の平定で戦ったアテルイも、実は鬼だったんじゃないかという話もつくられていますしね」

「なるほど……」

「元々征夷大将軍という称号も、朝廷から日ノ本を預かっている武士の長の称号ではなく、蝦夷地制圧を任命された将軍の位でしたからね。時代を経て、意味合いも変わってきてしまいましたが。それはさておいて、坂上田村麻呂に関わった鬼、ですか」


 伊藤は持っていた紙束の内のひとつを、ぺらぺらと捲った。それはなにかの本を書き写したもののようだ。


「坂上田村麻呂について、鈴鹿山一帯で鬼斬り伝承が発生しているんですね。それを元に、『田村語り』と呼ばれる創作物が発生し、小説、能、浄瑠璃の題材にされています。一番有名な話はこれでしょうか。鈴鹿山に住まう鈴鹿御前と呼ばれる女性と協力し、悪鬼、悪路王あくろおうを倒したとされるものです」


 その言葉に、みずほは目を丸くした。

 坂上田村麻呂と鈴鹿御前は、彼女の先祖だ。そして、ふたりが倒したとされる悪鬼。

 悪路王。みずほは口の中で何度も反芻する。

 みずほの異変に気付かない様子で、伊藤は「これも話が何個にも分かれていましてねえ」と続けている。


「鈴鹿御前が何物なのかというのには、諸説があるんですよ。鈴鹿山に根付く盗賊だった説もありますし、天女だった説も鬼だった説も存在します。鈴鹿御前と田村将軍が元々敵対していたところを結婚し鬼退治をはじめるようになった説と、田村将軍を助けるために鈴鹿御前が天から降臨して、結婚してから鬼退治をはじめるようになった説と。どちらの説でも、坂上田村麻呂は鈴鹿御前に言い寄ってくる鬼を退治しています」


 伊藤の話を聞きながら、みずほは考える。

 朔夜は、田村家の面々には冷淡であった。そして自分のことを妻だと言っていた。

 もし、坂上田村麻呂に鈴鹿御前を寝取られた悪路王だったとしたら、辻褄が合うんじゃないだろうか。

 朔夜が……悪路王が。

 鈴鹿御前とみずほを混同しているのだったら、ありえるんじゃないだろうか。

 頭の中がぐるぐるとする。気持ちが悪い。

 見たこともない先祖と自分を混同されたら、誰だって頭がおかしくなる。自分が今までかけられた言葉は、見知らぬ先祖にかけたかった言葉だったのだとしたら。

 伊藤はみずほの心中を知らずに、話をまとめていた。


「……ただ、あまりにも伝承が多過ぎる上に、一部の伝承は別の伝承と合併したり、新しく創作されたりしています。悪路王だってアテルイと同一視される説もありますし。自分が話を必ずしも正しいとだけは、思わないでくださいね」


 そう伊藤が言ったのと、扉が再び開いたのは同時だった。朔夜と松葉が戻ってきたのだった。

 松葉は上機嫌に、女給仲間たちに差し入れを配っている。朔夜もなにやら持って戻ってきた。


「忘れ物を返したらお礼にと土産をもらってな。ふかし芋だそうだ。店を出たら、食べるか?」


 みずほは彼の屈託のない顔を見て、とまどう。

 今の言葉は、先祖に向けて語りたかったものではないだろうか。

 自分を通り越して、先祖を見ているだけじゃないだろうか。

 みずほはぎこちなく言う。


「……いただきます」


****


 松葉が無事に仕事を終え、家に帰ったのを見届けてから、自分たちも家路に着く。

 空は黄昏。既に金色で影も黒く濃く伸びてはいるが、まだ夜ではない。

 ただみずほは朔夜の後ろを歩いている。


「どうした? 俺が松葉と客を追いかけて行ってから戻ってくるまでの間に、ずいぶんと力をなくしているが。また余計なことで悩んでいるのか?」

「……私、そんな風に見えていますか?」

「見えているなあ。お前さんはどうにも生きづらい性分みたいでな。器量はいいし、飯は美味い。その上太刀筋もよくて申し分ないと思うんだが、どうだ?」

「……なに言っているんですか」


 みずほは特に自身を器量よしと思った覚えはないし、食事は自分のつくれるものをつくっているだけなのでいまいちわからない。太刀筋はこのご時世、退魔師でもない限りはいらないものだろう。

 ……夫婦だった鈴鹿御前と自分を、どこまで混同するんだろうか。


「私、そんなにご先祖様に似ていますか?」

「なにを言っている?」


 朔夜の蒼い瞳が、少しだけ揺れたのを、みずほは見逃さなかった。

 ……動揺するということは、図星なんだろうか。


「……伊藤先生とお話ししたんです。ご先祖様の話をしてほしいと頼んだら、教えてくださったんですよ。あなたの本当の名前も、そこで知りました」

「そうか」

「……あなたは、悪路王なのでしょう? ご先祖様と夫婦だったという」


 朔夜は答えない。ただ、黙ってみずほを見ているだけだった。

 答えないということは、伊藤の語った話は真実ということなんだろうか。

 みずほは吐き出す。


「……振られて、それでも迫って。それでご先祖様たちと遣り合って、封印されて、それで……今度は私に言い寄るんですか? 私は、私は……ご先祖様じゃありません」


 朔夜はやはり、なにも言わない。

 腹が立つ。腹が立つ。ここで彼のことをもっとなじりたい衝動に駆られるが、それでもみずほは唇を噛み締めた。


「私に、なにか言うことはないんですか!? 私のことをさんざん口説いていた癖に、その言葉は全部上っ面だけで、私に向けたものじゃなかったんでしょう?」

「……いや、どうしたものかと思っただけだ」


 朔夜はようやく言葉を返した。その声には温度がないことに、みずほはようやく口を噤んだ。

 今まで、自分にかけてくる言葉は飄々としているものの、こんなに冷たい声を出されたことは一度もなかった。

 怒らせたんだろうか。だとしたら。みずほは日傘の柄をぎゅっと握ると、朔夜は嘆息する。


「俺が眠っている内に、ずいぶんといい加減な噂が蔓延しているようだなと思っただけだ。いや、お前さんの先祖が原因か、これは」

「なにを、言っているんですか……?」


 みずほの声は震えた。

 彼が静かに怒っているのは、どうもみずほに対してではない。噂の出どころのようだ。

 そういえば伊藤も言っていたような気がする。ひとつの伝承を元に創作される場合もあるから、鵜呑みにはするなと。


「もしお前さんを不安がらせたようなら、それは俺の責任だ。すまん。しかしこれだけは言っておく。俺はお前さんを先祖たちと同一視したことは一度もない。お前さんが今は信じなくてもな」

「じゃあ……じゃあ、あなたは、本当になんなんですか?」


 先祖が嘘をついていると言われても。

 彼の正体は悪鬼、悪路王なのかも、そうじゃないのかも、朔夜は言っていないのだ。

 朔夜はようやく笑った。いささか困ったような顔ではあったが。


「すまんなあ、今はこれ以上は言えなんだ。ただ、俺はお前さんを妻だと思っているし、誰かと比べたこともない。信じてくれとしか、言えなんだ」


 そんな顔をされたら、こちらが悪人のようだった。みずほは一瞬地面に視線を落とすと、息を吐く。


「……わかりました。じゃあ今はこれ以上追及することは致しません」

「すまんなあ」

「ただ、ひとつだけ約束してください」


 みずほは、じっと朔夜を見た。

 彼が自分の先祖に、なにをされた鬼なのかはわからない。ただわかるのは、彼がみずほの先祖を嫌っているということ。彼が恐ろしく強いということだけだ。

 そしてこのところ、この町はひどく不安定で、魑魅魍魎の起こした事件は後を絶たない。


「あなたは私の剣となり、盾となるとおっしゃってましたが」

「ああ、言ったな」

「それは結構です。私、これでも充分強いですから。ですから、剣となり、盾となるのは私ではなく、この町の方々のものというのは、可能ですか?」

「ずいぶんな言いようだなあ。俺に、この町の守護者となれと言っているのか?」

「だってあなた、言ったじゃないですか。私の剣の届かないところしか私は誰かを守れないと。でもあなたは私よりも強いじゃないですか。あなただったら、私よりもよっぽど届く範囲が大きいと思ったんです」


 みずほも警察の解決できない事件の対処に当たっているだけで、全てを解決できているとは限らない。ひと足遅くて助からなかったもののほうがよっぽど多い。

 ただ理想があるだけだ。

 誰もが闇夜を怖がらずに済み時代が来たら、それは素敵なことだと。

 朔夜は目を細めて笑う。


「それがみずほの望みならば」

「……ありがとうございます」


****


 もう少ししたら田村邸に着く。

 すっかりと日も暮れ、そろそろ辺りに瓦斯灯がすとうが点く頃だった。


──ねえねえ


 子供の声が聞こえたことに、みずほは目を丸くする。朔夜は逆に目を細めて、辺りの様子を伺った。


「……今のは?」

「そういえば、未だに警察が捜査中だったか。連続女学生殺人事件は。あれはまだ、進展がなかったんだったな?」

「そう、聞いています」


──ねえねえ

 ──ねえねえ

  ──ねえねえ


 ただ子供が母親の袖を引っ張るような声ばかりが繰り返しこだまする。それはみずほも一応は聞いた覚えがあるが。


「……祢々ねねでしょうか」

「なんだ、それは」

「昔、『ねえねえ』と言いながら飛び回り、人に悪さをして回り、山の麓の住民を困らせた虫の魑魅魍魎と聞いています。ただ具体的にどんな悪さをしたのかは、伝承にも残っていません」


 伝承には続きがあり、困り果てた人々の願いを聞き届けた神刀が、ひとりでに浮き上がり、祢々を退治し、以降その神刀は祢々切丸ねねきりまると呼ばれるようになったというが。

 今自分たちが耳にしている声の主は、いったい何物だろうか。またもみずほは日傘しか武器がないことを歯噛みしながら、日傘を構えた。

 が。声はしばらく続いたものの、ぷん。と瓦斯灯が点いてからは忽然と鳴き声は消えてしまった。みずほは息を吐く。


「なんだったんでしょうか。今のは」

「さあな。だがそろそろ、お前さんも本格的に和製切り裂きジャックと対峙しなくちゃいけないんだろうさ」

「……そうやもしれません」


 気になることは多過ぎる。

 結局は朔夜の正体はわからず終いだったし、この町に魑魅魍魎が増えた理由だってわからないままだ。和製切り裂きジャックの正体は祢々なのかだってわからないが。

 みずほはひとりしかいない以上は、目の前の事件にひとつずつ当たっていくしかないのだ。

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