瀬々市、宵ノ三番地

茶野森かのこ

0. 宵ノ三番地 瀬々市愛1


「恐ろしい瞳!私に近寄らないで!」


バシッと音を立て叩かれた右手、苦しむ彼女を前に、彼は立ち尽くす事しか出来なかった。




****




ふ、とパイプの煙を吐き出す。

暗闇の中で煙がもくもくと立ちのぼると、その中から一人の少女が姿を現した。見た目は五歳位だろうか、もこもこした素材の茶色いきぐるみのようなつなぎを着ており、すっぽりと頭を包むフードには、くまの耳がついている。フードの隙間からは、ブロンドの髪が見えた。

突如現れた少女は暗闇に座り込み、ぐずぐずと、顔を伏せて泣いているようだった。


「見つけたよ、お嬢さん。どうしたの、こんな所に隠れて」


その声に、ぐすぐすと泣きべそをかいていた少女が顔を上げた。少女の前には、懐中電灯を片手に彼女を見下ろす青年がいる。物が天井まで積み上がった狭く暗い場所だ、彼は窮屈そうにしながらも、少女に合わせてしゃがみ込んだ。


「…あなた、」

宵ノ三番地よいのさんばんち、店長代理の瀬々市ぜぜいちです。君を迎えに来たんだ」


青年は、きっちりと着込んだベストにワイシャツ、仕立ての良いスーツに身を包み、磨き抜かれた革靴を履いていた。そして、それらが良く似合うスラリとした体躯に、藍色の髪は短すぎず長すぎず。爽やかな端正な顔立ちで、くっきりとしたその瞳は、左目が黒で右目が濁った翡翠のオッドアイだった。少女はその瞳を見て驚いた様子だったが、青年の穏やかな表情に気づくと、暫し不思議そうに彼を見つめていた。だが、涙が止まったのは束の間、少女は再び表情を歪めて泣き始めてしまった。


「だって、私もう要らないんでしょ?私は、紗奈さなが大好きなのに」

「そんな、要らないわけないよ」

「信じないもん、そんなの」


頑なな様子の少女に、青年は、少し困った様子で微笑んだ。


「本当だよ、紗奈さんは君の事が大好きなんだから」

「嘘だよ!好きなら側に置いてくれるもん!」

「…そうかもしれないね。でもね、紗奈さんは、君の事が大好きだから、君の事を思って手放すんだよ。紗奈さんは君を見捨てるんじゃない、君を大事に思って可愛がってくれる人が居たから、君をその人に託そうと思ったんだ。ずっと棚で置かれてるより、誰かに遊んで貰った方が幸せなんじゃないかって」

「……」

「君が嫌われたんじゃない、愛されているから、君にとって一番良い選択を考えての結果だったんだよ」


少女は、その言葉に戸惑った様子で、瞳を揺らした。


「新しいご主人は、好きになれない?」


少女は緩く首を横に振った。


「新しい場所は怖い?」


少女は小さく頷いた。


「紗奈さんが信じた人でも?」


その言葉に、少女は顔を上げた。困って口を開きかけたが、また俯いてしまう。青年は、そっと少女の頭を撫でた。


「…ごめんな、こんな事言って。ただ君に、紗奈さんの気持ちをちゃんと伝えておきたかったんだ。色々言ったけど、俺は君の意思を尊重するからね」


その言葉に、少女は顔を上げ、どこか不安そうに瞳を揺らした。


「…紗奈の家には?」

「残念ながら、帰る事は出来ないんだ。君と俺がこうして話せるのは、俺が、君の事を見れる目を持っているから。宵の店の特徴は知ってるだろ?」

「…うん」

「新しい場所がどうしても嫌なら、俺の家に来れば良いよ。紗奈さんには、どうしても君を見つけられなかったって言えば良いから」

「…それは、私が私じゃなくなっちゃうって事でしょ?」


再び涙が込み上げてきたのか、ぐっと表情を歪める少女に、青年はその思いを受け止めるように語りかけた。


「君のままでだよ、君をまっさらにはしない」

「それじゃ、あなたの評判が下がるんじゃないの?そうでなくても、その瞳…」

「無理に君を連れ出すより、全然良いよ」


そう微笑む青年の表情は優しく、頭を撫でるその手は、ただただ温かい。少女はじっと青年を見つめていたが、やがて彼に近づくと、その体にぎゅっと抱きついた。


「…私、頑張ってみる」

「…うん」


ぎゅっと抱きつくその背中を、青年は受け止め撫で擦った。少女は、その声が、体が、震えそうになるのを必死に堪えながら、その思いを伝えてくれた。


「新しい場所は、いつも怖い。新しい持ち主はどんな人なんだろう、大事にしてくれるかな、痛い事しないかな、ぎゅってしてくれるかな、気に入らなかったら捨てられちゃうかなって、いつも怖い」

「うん」

「紗奈は、大事にしてくれたから、ずっと一緒に居たかったから」

「うん」


「でも」と、少女は顔を上げた。


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