第31話 それぞれの苦悩
ひかりは美術室を出て自分の教室へと向かっていた。
途中で足を止め、誰もいない階段の踊り場の壁に背を預ける。
必死にこらえていた感情が行き場を求めてあふれ出し、とめどない涙がひかりの頬を伝う。
そのまましゃがみこんだひかりは、もう立ち上がれなくなってしまっていた。
授業が始まっても教室に戻ってこないひかりのことが心配で、楓は適当な理由を付けて教室を抜け出した。
そして急いで美術室へと向かった。
「いない。部屋も鍵がかかってる」
それからさんざん探して、ようやく普段は殆ど人が通らない階段の踊り場でうずくまるひかりを見つけた。
尋常ではない様子のひかりに、楓はすぐさま駆け寄った。
「ひかり!」
今まで一度もひかりのこんな姿を見たことが無かった。
楓はひかりの顔を覗き込もうとしゃがみこむ。
「どうしたの? 何があったの?」
楓が問いかけてもひかりは顔を上げようとしなかった。ただ肩を震わせながらしゃくり上げるだけだった。
「何があったの? 話して」
何度も何度もひかりの肩を揺さぶると、こらえきれなかった様子で、ひかりは楓にしがみついてきた。
涙が楓の制服を濡らす。
「高木君と何かあったのね」
楓の問いかけに、ひかりは頷いただけで何も話さなかった。
それから十分ほど経っただろうか。
薄暗い階段の踊り場で、楓はひかりの涙をその胸で受け止めながら、しゃくり上げるその背中をずっとさすってやっていた。
そして楓は、ひとしきり泣いたひかりの手を優しく握った。
「少しは落ち着いた?」
ようやくひかりは顔を上げて小さく頷いた。
楓は手を伸ばして、ひかりが持っていた水筒のお茶をカップに注いでやる。
白い湯気を立てるカップをひかりに持たせて飲ませると、少し身持ちの整理ができたのか、やっと口を開いた。
「ごめんね。心配させて」
「馬鹿。私のことはいいの。さ、話して。何があったの?」
ひかりはポケットから出したハンカチで目の周りを拭ってから「何でもない」と応えた。
「なんでもなくないでしょ。可愛い顔をこんなにして、話してみて、楽になるよ」
楓はひかりの頭をまた胸に抱きよせた。
「お弁当……」
ぽつりとやっとひかりが口を開いた。
「おべんとう?」
楓が訊き返す。
「もう作れないんだ。お昼ご飯も、もう一緒に食べれない……」
「どうして、どうして急に? 理由は?」
楓の問いに、少しまた時間を置いて、ひかりは理由を話した。
「高木君の手、だいぶ良くなったって。それでこれからは自分で作るんだって言ってた……ずっと私に甘えっぱなしだったからって……」
ひかりは小さく握った手で胸を押さえる。
「高木君が自分で作ったとしても、またあの美術室で一緒に食べたらいいじゃん」
ひかりはまた言葉に詰まりながら静かに返す。
「そろそろクラスの友達と食べようと思ってるって言われちゃった」
「なによそれ!」
楓は拳を握りしめて憤慨した。
「許せない!」
「私、高木君のこと応援するって決めたんだ」
またひかりの眼から涙がこぼれ落ちた。
ひかりは痛みをこらえるかのように背中を丸めて声を震わせる。
「もう一緒にいられなくっても、私これからもずっと応援したいの……だから高木君のことそっとしておいてあげて」
ひかりの声は痛々しすぎて、楓はそれ以上何も言えなくなった。
「それと私が泣いてたってこと、高木君には絶対に言わないで」
そしてひかりはまた両手で顔を覆い泣き出したのだった。
ひかりに誠司を直接問いつめたりしないよう約束させられた楓は、どうしても何かひかりの力になりたくて、放課後の校庭にいた勇磨を捉まえて何か知らないかと詰め寄った。
「どう考えてもひどいでしょ。でもひかりに高木君には直接訊かないよう口留めされてるから、あんたなら何か知ってるんじゃないかと思って」
それを聞いて珍しく勇磨は真剣な表情を見せた。
訊かれたことに勇磨は応えず、そのままその場で立ち尽くす。
「どうなのよ」
何か事情を知っていそうな勇磨をさらに楓は問い詰める。
しかし勇磨は、そんな楓の問いかけに応えようとはしなかった。
「お前には話せない」
ただ一言を残して勇磨はその場を去ろうとした。その顔には楓と同じようにやるせなさが滲んでいた。
「なによ。やっぱりあんた何か知ってるんでしょ」
楓は勇磨の腕を必死に掴んで引き留める。
その力強さに楓の真剣さは伝わっているはずだった。しかし勇磨は足を止めようとはしなかった。
「何度も言わせるな。お前には話せないんだ」
それぞれの親友に対する強い思いが、不器用なこの二人をこんな形でぶつからせてしまっていた。
それでも楓は、腕を振り解こうとする勇磨を絶対に放さなかった。
「私はひかりが心配なの。今まであんなひかり見たことない。私だって何か力になりたいの」
楓の目に涙が浮かぶ。
声を震わせながら引き止めた楓に、とうとう勇磨は足を止めた。
そして振り返って大きく息を吐いた。
「俺だってそうだよ」
勇磨は苦しげな表情で初めて本音を口にした。
楓の真剣さが勇磨の中の何かを動かし始めた。
「一緒に来い」
勇磨は楓の腕を掴むと校舎へと踵を返した。
「どこに行くの?」
「いいからついてこい。多分俺たちじゃダメだ」
勇磨は楓の手を引いて走り出した。
そして二人は廊下に靴音を響かせながら、ただ少しでも友人の力になりたいと願い、そして祈るのだった。
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