朝の通学路。緩やかな傾斜の並木道の途中で、誠司はひかりが通りがかるのを待っていた。

　誠司はポケットから美術室の鍵を取り出して大きく息を吐いた。

　たかが一本の鍵がこれほど重く感じられるなんて……。

　昨日島田から受け取った美術室の鍵は、ひかりと二人でお弁当を食べるのには大助かりだった。

　しかしよく考えてみると、教室で二人きりでお弁当を食べようなどという大それたことを言いだすのは、誠司にとってあまりにもハードルが高すぎる内容だった。

　左手しか使えない俺のことを考えて、時任さんは朝早くから起きてお弁当を作ってくれている。しかも手間を惜しまず食べやすいように工夫して、おかずを一口大にしてくれているんだ。

　そんな彼女のピュアな親切心に図々しく乗っかっていいのか？

　それによくよく考えてみると、お弁当は別に二人一緒に食べなくてもいいわけだ。

　お弁当を作ってもらって、そのうえ彼女の貴重な昼休みを使わせるって一体どうなんだ？

　そして誠司はもっと根本的なことに気付いた。

　ちょっと待て！　この鍵を使うってことはつまり、密室に彼女を誘い出し、独り占めしてしまいたいって言ってるのと同じじゃないか！

　顔から火が出そうな感覚をに襲われ、誠司はその場で頭を抱えた。

　なんか下心丸出しじゃないか！

　猛烈な葛藤に身を焼かれながら、誠司はどうやって切りだせば、ひかりに余計な警戒心を抱かせずに、自然な感じで誘うことができるのかと悩み悩んでいた。

「おはよう、高木君」

　色々考えているうちに妄想の世界に入り込んでいた誠司は、不意に掛けられたひかりの声に飛び上がった。

「お、おはよう」

　誠司は考えも纏（まと）まらないまま慌てふためく。

「どうしたの？」

　ひかりは様子のおかしい誠司の顔を覗き込んでくる。

　朝一番から心臓に悪い可愛さに、誠司の胸は高鳴ってしまう。

　そしてひかりのその手には、昨日持っていた二人分のお弁当が入った手提げ袋が握られていた。

　誠司の視線を感じて、ひかりはうっすらと頬をピンク色に染めながら恥ずかしそうにはにかむ。

「今日も作っちゃった……」

　誠司はその姿に見とれながらも、例の話を切り出さねばと焦る。

「あのね時任さん……」

「うん？」

　ひかりは何か言いかけた誠司の顔をじっと見る。

　誠司はそんなひかりのまっすぐな視線を避けるように目を伏せて、やっと切りだした。

「こ、これなんだけど……」

　誠司は握りしめていた美術室の鍵を、ひかりに見せた。

「何の鍵？」

　ひかりは不思議そうに、銀色に光る鍵に目を向ける。

「これ、美術室の鍵なんだ」

　ここにきて誠司は、もう思い切ってそのまま打ち明けることしかできなかった。

「島田先生が貸してくれて、それで……その」

　急に喉の渇きを覚えて、誠司はゴクリと生唾を飲み込む。

「お昼休み使えそうなんだ……美術室」

　ここまで聞いて、やっとひかりは誠司が言わんとしていることに気付いたみたいだ。

「そ、そうなんだ……」

　ひかりは恥ずかしそうに手提げ袋に目を落とす。

「あの、もし時任さんが嫌じゃなければその……」

　もう誠司は必死過ぎて自分で何を言っているのかよく分からなくなってしまっていた。

　ひかりは誠司の次の言葉を、そわそわしながら待っている。

「時任さんのお弁当、ここで一緒に食べませんか」

　言ってしまった！　しかもど直球で！

「はい」

　ひかりは頬をほんのり紅く染めて、躊躇（ためら）うこともなくすぐに返事をした。

「い、いいの？」

　黙って小さく頷いたひかりに、誠司は大きく息を吐いて胸を撫（な）で下ろした。

　そしてこの時、ひかりは少し嬉しそうな表情をしていたのだが、過度の緊張から解放されたばかりの誠司には、そんなひかりの微妙な変化を読み取る余裕などなかったのだった。

　お昼休み、美術室の前で待ち合わせた二人は、周りに誰もいないことを確認して鍵を開けた。

　教室に入って戸を閉めると、二人ともフウと安堵の吐息を吐いた。

「なんだか悪いことしてるみたいだね」

　誠司が苦笑すると、ひかりも「本当だね」と笑った。

　教室の中はがらんとしていて、二人は一番奥の窓に近い席の机を向かい合わせになるよう移動させた。

　

「静かだね……」

「うん。静かすぎるぐらい……」

　誠司の言葉に、ひかりも頷く。

　鍵を貸してくれた時に島田が言っていたように、教室棟から少し離れているこの教室は、極端なくらい静かだった。

「窓、開けるね」

　誠司が手近な窓を一つ開けると、傍にある銀杏の枝葉を揺らして、そよ風が舞い込んできた。

　それからお互い向かい合わせになるよう座って、ひかりは二人分のお弁当を机の上に並べた。

「あの、どうぞ」

　どこかぎこちなく、水色のお弁当箱をひかりは誠司に手渡す。

「あ、ありがとう」

　受け取った誠司もどこか表情が硬い。

　お互いに視線を向けることが出来ずに、手元の弁当箱に目を落とす。

　どうやら向かい合って座ったことで、余計に二人とも硬くなってしまったようだ。

「あの、そろそろ食べませんか？」

「そ、そうだね。いただきます」

　ひかりに促されて、ようやく誠司は弁当箱の蓋を開ける。

　そこには、昨日と同じように一口で食べられるように工夫されたおにぎりと、色とりどりのおかずが詰められていた。

　一瞬で胸の中がいっぱいになってしまった誠司は、手に蓋を持ったまま動かなくなった。

「あの、何か変だった？」

　蓋を開けたまま固まっていた誠司に、ひかりは心配そうに問いかける。

　誠司は慌てて首を横に振り、蓋を置いてフォークに持ち替えた。

「その……食べてしまうのが勿体ないなって……でも、頂くね」

「うん……」

　お互いに視線を合わせられず、気の利いた会話もままならない少年と少女。

　そんなもどかしい二人の間に、穏やかな時間が流れていく。

　誠司は気持ちの詰まったお弁当を味わいながら、昨日も感じた不思議な感覚を覚える。

　部活で見慣れた教室なのに……まるで別の場所にいるかのようだ……。

　ほんの少し勇気を出して、誠司は向かいに座るひかりに視線を向ける。

　花壇の時と同じだ……君がいるだけで、見慣れた教室が特別な輝きで満たされている。

　何だか夢を見ているみたいだ……。

「お茶、入れるね」

　不意にカップに手を伸ばしたひかりに、誠司は我に返る。

「あ、ありがとう」

　それから、あまり話も弾まないまま、ひかりより早くお弁当を完食した誠司は、食べ終わってしまったことを勿体ないと惜しみつつ手を合わせた。

「ご馳走様でした。本当に美味しかったです」

　幸福感溢れる誠司の顔に、ひかりは一旦箸を止めて、嬉しそうに微笑んだ。

　

「良かった。また明日も作るね」

　目の毒になりそうな可憐な笑顔と、嬉しい一言をもらい、誠司はまた幸せを噛み締めたのだった。

「あのね、高木君」

　お弁当を食べ終えてしばらくして、ひかりは少しあらたまった感じで誠司に話しかけた。

「うん。どうしたの？」

「島田先生どうして美術室使っていいって言ってくれたの？」

　恥ずかしいところを目撃されてから、こういう風になったいきさつをひかりは興味深げに訊いてきた。

「うん。そのことなんだけど、実は昨日ね……」

　誠司は昨日の放課後の島田とのやり取りをひかりに話した。

「じゃあ、あのベンチって島田先生の縄張りだったんだ！」

　まるで犬か猫のように表現したひかりに、誠司は可笑しさをこらえきれず吹き出す。

「と、時任さん、おれ昼寝用のベンチって言っただけで縄張りとまでは言ってないよ」

　涙目の誠司に、ひかりも顔を赤くして同じようにクスクスと可笑しそうに笑いだす。

「ごめんなさい。なんだか島田先生って私の中ではそんな感じなの」

　それを聞いて誠司はまた吹き出した。

「それを聞かれたら絶対鍵返せって言われるから言っちゃだめだよ。で、でも時任さんの言ってること俺にも良く分かるよ」

　追い打ちをかけられ笑いの止まらなくなった誠司に、ひかりは少し口を尖らせる。

「もう、高木君笑いすぎ」

　少し拗ねたような顔をしてひかりはそっぽを向いた。

　その仕草がまたびっくりするぐらい可愛かった。

「ごめん。怒らないで」

　機嫌を直してもらおうと、ひかりの顔を覗き込もうとする誠司に、ひかりは少し紅くなる。

「とりあえずあの昼寝ベンチに近づかないことを条件に、美術室を使っていいって言ってたから当分大丈夫だよ。ああ見えて先生なかなか頼りになるんだ」

「うん。なんだかありがたいね」

　少し緊張が解れ、楽しそうな笑顔を浮かべるひかりの顔を誠司は眺める。

　そして明日もここで会えるのだと思い、こみ上げてくる感情に胸の中が熱くなるのだった。