第7話 多すぎる昼食

 三人は風呂敷の中のパンパンに詰まったお重を並べて言葉を失っていた。

 そして、誠司が遠慮がちに口を開いた。


「たくさん作ってくれたんだね」

「お母さん。張り切り過ぎたのね……」


 勇磨は険しい表情でしばらく弁当の中身を俯瞰した後、畏怖と尊敬の入り混じった目を誠司とひかりに向けた。


「これ、おまえら二人で食おうとしてたのか?」


 普通に考えて三人でも食べきれる量ではない。大体いつも腹を空かせている勇磨も、そのボリュームを前に、やや戦意を喪失しているように見えた。


「ひょっとして時任、おまえ見かけによらず無茶苦茶食うやつなのか?」

「私、そんなに食べないよ」


 恐らく勇磨はひかりのことを、フードファイターか何かだと想像したのだろう。確かに細身の女の子でも滅茶苦茶食べる人だって世の中にはいる。

 少し申し訳無さげなひかりを気にかけるように、すかさず誠司はフォローを入れる。


「いやあ、でも美味しそう。時任さんのお母さんってきっと料理上手なんだろうね」

「そうかも。お母さんもう何年も気の合う友達と料理教室に通ってるの。きっと家で作るだけではもの足らず、腕を振るう機会に飢えたんだと思う」

「そうなんだ。じゃあ、ありがたく頂きます」


 手を合わせると、三人は揃って箸をつけた。

 そして食べ始めてすぐ、行儀も何も関係なく口にものを入れた状態で、勇磨が感嘆の声を上げた。


「美味い。すげー美味い」


 勇磨は目を丸くして、まるで競争しているかのように勢いよく、ガツガツとかき込み始めた。


「おまえのかーちゃん料理上手すぎだろ。ひょっとしたら食い切れるかも」

「確かに。どれを食べても美味い。ちょっと普通じゃない美味さだ」


 その驚くべき美味さに食欲が加速してしまったのだろう。誠司も勇磨ほどではないが、そこそこ速いペースで箸を動かし始めた。

 そしてひかりは二人が夢中になっているのを目にして、今日家を出るときに母が言っていたことを思い出していた。


「胃袋を掴んだ者が男心を掴むのよ」


 お母さんが掴んでどうするのよ。ホホホと笑う母が脳裏に浮かんできた。

 テーブルを挟んで美味しそうに口を動かす誠司の姿に、なにかちょっと悔しいひかりだった。


 

 それから約一時間後。


「食った。食いきった。奇跡的だ」


 苦し気に膨れた腹をさすりながら、勇磨は偉業を成し遂げた人のようにすがすがしい顔をしていた。

 絶対無理だと食べる前に降参していた三人は、パンパンに詰まったお重を見事攻略してみせたのだった。


「本当に完食した。すごいな俺たち」


 空になったお重を前に、誠司は感無量といった様子で、コップの麦茶に口を付けた。


「時任さんも、お茶淹れるね」


 少し減っていたコップに手を伸ばそうとした誠司をひかりは止めた。


「ありがとう。でもお腹がいっぱいで……あとでいただきます」

「うん。じゃあ後でね」


 普通に座っているのがなんだか苦しい。二人の勢いに乗せされるような形でガッツリ食べてしまったひかりは、今更もう遅いけれど後悔していた。


 本当に太っちゃいそう……。


 誠司はそのまま勇磨のコップに手を伸ばす。


「駄目だ。俺も後でいい。もう水も入らん」


 勇磨はもう腹に入れるものを見たくもなさそうだった。


「なあ誠ちゃん、ちょっと誠ちゃんの部屋で横にならせてくれよ。もう椅子に座ってるのが苦しくって」

「そうだな。じゃあちょっと移動して休憩しようか」


 一仕事終えた三人は、誠司の部屋に移動して、各々腹のつかえない楽な姿勢をとった。

 誠司とひかりが遠慮気味に足を伸ばすと、勇磨は全く二人を気にすることなく、ゴロンと仰向けになって寝る体勢を作った。


「ちょっと昼寝させてくれ。そんで、あとで適当に起こしてくれ」

「ああ、分かった」


 すぐに軽くいびきをかき始めた勇磨を横目に、誠司とひかりは何となくいたたまれない雰囲気になってしう。

 

「あの、時任さんも楽な姿勢で寛いでね」


 誠司は部屋の隅に置いてあった大きめのクッションを手に取って、ひかりに手渡した。


「これ、使って」

「あ、ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……」


 手渡されたクッションにもたれかかると、なんだか体が包まれたような良い感じになった。

 柔らかな伸縮する布地の中に細かいビーズが入っている。そんな気持ちいい感触だった。

 そしてひかりは突然気付いた。


 これっていつも高木君が使ってるんだよね……。


 まだ新しいクッションからは、ほのかに男の子の匂い。

 さっきまで感じていた心地良さは完全に頭から消え去り、ひかりは余計なことを思い浮かべてしまう。


 間接的だけど、高木君がいつも体を預けているものに、私はいま……。


 頬のあたりが熱くなってくるのを感じつつ、ひかりはさらに重大なことに気付いた。


 ちょっと待って。つまりこのクッションをまた高木君が使うってことよね……。

 自転車で来たからけっこう汗かいたし、臭いとか付いたりしてないかな……。


 ひかりがあれこれ考えているうちに、少し離れたところで横になっていた誠司の方から寝息が聴こえてきた。


 あ、寝ちゃったんだ。


 たくさん食べると脳に行くはずの血液が胃の方に行ってしまい、眠くなるというのは聞いたことがある。

 しばらくその寝息を聴いているうちに、ひかりの中に、少年の寝顔をちょっとだけ見てみたいという好奇心のようなものが浮かんできた。


 眠ってるときの高木君って、どんな感じなのかな……。


 ひかりはほんの少しクッションから身を起こして首を伸ばす。

 しかし、やや向こうを向いている少年の顔は見えなかった。

 狭い部屋なので、二人の間隔はそこまで離れているわけではない。

 お互いに手を伸ばせば、丁度指が触れ合うくらいの距離だろう。

 ちょっとした好奇心だし、こだわることも無い。分かっているのに何故かひかりはさらに身を起こして少年の方に首を伸ばてしまう。


「うーん……」


 お腹が膨れているからか、少し苦し気な声を出して、少年はひかりに背を向ける形で寝返りを打った。

 予期せぬ動きに慌てたひかりは、反射的にクッションに倒れ込んだ。


 私、何やってるんだろう……。

 

 勝手に少年の寝顔を覗こうとしたことを反省しつつ、そのままひかりも、いつの間にか眠ってしまった。



 どれぐらい時間が経ったのか、ひかりはハッとして目覚めた。


 やっちゃったー。男の子の部屋で、しかも高木君の部屋で寝落ちするなんて……。


 いつの間にか寝返っていたみたいだ。ひかりはドキドキしながらゆっくりと周りを見渡した。


 新君はまだ寝てる。高木君は……。

 起きてる! 私、寝顔見られてたの?


 ひかりは真っ赤になって跳び起きた。

 目覚めたひかりに、誠司はなんだかちょっと頬を紅くしながら声を掛けてきた。


「ごめん。声を掛けようと思ったんだけど、なんだか気持ち良さそうに眠ってたから起こせなくって」


 今すぐ部屋を飛び出して逃げ出したい。

 恥ずかしさに身を焼かれながら、ひかりは本気でそう思った。

 そのタイミングで、勇磨もウーンと声を上げてから、まだ眠たげにうっすらと目を開けた。


「あれ、二人とも起きてんのか」


 勇磨は大きな欠伸あくびをして頭をかいた。


「なんかスゲー寝ちまった。誠ちゃん、おれ喉乾いた」


 多分いつもこんな感じなのだろう。誠司はひかりと勇磨に麦茶を淹れてやる。

 勇磨はコップの麦茶を一気に飲み干した。


「ふー。ちょっとは腹もましになったな」


 勇磨はまだ眠たそうに腹をポンポンと二回たたいた。

 まだ寝顔の件を引きずっているひかりは、恥ずかしそうにチビチビお茶を飲む。


「じゃあ腹も落ち着いたし、ミーティングしようぜ」

「何のミーティングだよ」


 誠司は何を言い出すのかと、冷めた目で勇磨に聞き返した。


「決まってるだろ。二学期からの誠ちゃんのサポートのことだよ。学校始まったらやることいっぱいあるだろ。先に決めとこうぜ」

「そうね。決めとこうよ」


 二学期はもう目の前だ。ひかりはまだ恥ずかしさを引きずってはいたが、勇磨の提案に乗ることにした。

 

「俺はノートを取るよ。クラスは違うけどやってること一緒だろ。そんで誠ちゃんにコピー渡してテスト対策ばっちりって感じだな」

「勇磨大丈夫か? お前がノートとってるの、あんまり見たことないけど」


 自信満々に、いかにも計画性のなさそうな男が計画を立てているのを聞いて、誠司は不安そうな顔をした。

 そんな友人の心中などまるでお構いなしといった感じで、勇磨は陽気に解説を付け足す。


「だからいいんだよ。俺は誠ちゃんの為だったら頑張れるんだ。まあ自分のノートも完成して一石二鳥って感じだな。とにかく俺が責任をもってやっとくから心配すんな」


 ものすごく不安そうな顔をしつつ、渋々ながら「じゃあ頼むわ」と誠司はノートのことを勇磨に一任した。


「じゃあ、私は何をしたらいいかな?」


 先に勇磨に大役を奪われてしまったひかりは、ここで思い悩む。

 きっと色々あるのだろうが今は思い付かなかった。


「いや、時任さんにはもう色々してもらって甘え過ぎというか……」

「そんな、まだ全然足りないよ。私いまちょっと思いつかないけど、気が付いたこと頑張ってやるから」


 これといった提案を出来ないひかりに、勇磨は膨らんだ腹をさすりながら余裕の笑みを浮かべた。


「まあ一番大事なノートは一番の親友の俺が適任だから、君はあと気が付いたこと頑張りなさい」


 まだ何もしていないのにも拘わらず、勇磨はどう見ても偉そうだった。

 どうあってもひかりに先輩風を吹かせたいらしい。


「よし決まりだ」


 ひかりに勝ったと満足げな勇磨に、誠司はまた渋い顔をした。

 それから、特にもうここでの用事がなくなった勇磨は、膨れた腹で苦し気に腰を上げた。


「あ、そうだ。ところでちょっと腑に落ちないところがあるんだけど、訊いていいか?」


 立ち上がってすぐに、勇磨は何かを思い出したように誠司を振り返った。

 話がついてもまだ何かあるらしい勇磨に、誠司はため息を一つつく。


「ああ、なんだ?」

「あのさ、なんで今まで俺は時任と一度も鉢合わせにならなかったんだ? 見舞いにも行ったし、ここにもしょっちゅう遊びに来てたし、今日は約束しないで来たけど……」

「ああ、それはな……」


 誠司は真面目な顔で勇磨に向かい合う。


「偶然だよ。それしかない」


 誠司はスパッと言い切った。


「そうか。偶然って重なるものなんだな」


 勇磨はなるほどなと納得したようだった。


「じゃ、おれ帰るわ」


 勇磨は一度ウーンと伸びをして、部屋を出て行こうとした。


「あ、そうだ時任、おまえのかーちゃんに美味かったって言っといてくれ」

「うん。分かった」


 結局飯を食いに来ただけの友人を、誠司とひかりは玄関まで見送る。


「またな勇磨」

「じゃあね、新君。また学校でね」


 腹が膨れて満足なのか、勇磨は上機嫌に手を振る。


「ああ、二人ともまた学校でな。それじゃあ邪魔者は退散するよ」


 そう言い残して、少しだけ涼しくなった午後の道を勇磨は帰っていった。


「帰っちゃったね」

「うん。そうだね」


 騒がしい友人がいなくなり、再び静かになったことで、二人は帰り際に勇磨が言い残した言葉を変に意識してしまうのだった。



 誠司とひかりは台所で、ひかりのお母さんが持たせてくれたお重を綺麗に洗っていた。

 二人きりを意識してしまい、お互いに少し口数が少ない。

 洗剤で泡立たせたスポンジを手に、誠司は隣にいるひかりに時折視線を向ける。


「なんかごめんね。バタバタしちゃって。あいつ空気読めないんだ」

「でも新君って、すごく高木君のこと大事に思ってるみたいだね」

「うん。あいつ変わってるんだ」


 二人はお互いの顔を見て笑い合う。しかしその近さにハッとして、また手元に視線を戻した。

 ひかりはやや頬の火照りを感じながら、さっき少し気になったことを聞いてみた。


「さっき新君の質問に答えてたのって……あれ偶然じゃないんでしょ」

「そうだよ」


 勇磨の質問をはぐらかした誠司だったが、ひかりには正直だった。


「黙っててごめんね。あいつ変にヤキモチ焼くから胡麻化したんだ。実は時任さんと勇磨が鉢合わせにならないように、日にちと時間をずらして予定を入れてたんだ。でも心配だよ、あいつ悪気はないんだけど、ついぽろっと大事なことをしゃべっちゃうから」

「でも悪気はないから怒りづらいね」


 ひかりはうふふと笑った。

 誠司もつられて白い歯を見せる。


「ほんと仲いいんだね二人とも。いつからなの?」

「中学の時から。ちょっといろいろあってね」


 何かを思い出しているような横顔に、ひかりはそのエピソードについて知りたくなった。


「聞かせてもらってもいい?」

「うん」


 そして誠司は勇磨との出会いの話を語り始めた。

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