第4話 夏の午後

 八月の午後。

 真っ青な空に、真っ白な背の高い雲が伸びる。

 八月の終盤になって、いつの間にか蝉の声は以前ほど五月蠅うるさくはなくなった。それでもこの閑静な住宅街は、いまだ夏の匂いで満たされていた。

 エアコンの効いた部屋の中、もうしばらく前から誠司は落ち着かない様子で窓の外を覗いていた。

 丁度ここからなら誰かが訪ねてきたときによく見える。

 こういう感じで窓際に貼り付くのが、最近の誠司の日課になっていた。

 やがて小さなブレーキの音がして、自転車が高木家の前で止まる。

 白い帽子が垣根越しに見えると、誠司は慌てて部屋を飛び出した。

 そして、もどかしい草履をひっかけて表に出た少年は、そこで白昼夢のような光景を目にする。

 そこには眩しい日差しの中、つば広の白い帽子を被った少女が、丁度自転車のスタンドを立てていた。

 ひかりは誠司を見て微笑む。


「ちょっと早く着いちゃった」


 火照ってほんのりと赤くなったひかりの頬を一筋の汗が伝う。

 誠司はそのひかりの一瞬の輝きに、ただ見とれてしまう。


「どうしたの?」


 誠司はその美しさに、一瞬言葉が出ない。


「いや、その……暑かったよね。早く入って」


 毎日のようにここへ来て、宿題を手伝ってくれるひかりに、誠司はまだ慣れていなかった。


「いつもありがとう。すぐ冷たいもの淹れるから」


 ひかりを部屋に通そうとすると、「その前にいい?」とひかりは誠司の母の写真に手を合わせた。


「ありがとう。部屋、エアコンついてるから」


 誠司はそう言って飲み物を準備しに行った。



 誠司とひかりは小さな座卓に向かい合って座り、お互いに同じ教科の宿題をする。

 ひかりは時々誠司の傍に来て、グラフなど両方の手を使わないと難しいものを手伝う。


「そこ、私にやらせて」


 ひかりは長い髪を押さえて、誠司のノートに手を伸ばす。


「ごめん。お願いします」


 ひかりは誠司のノートにすらすらと綺麗な線を引く。

 誠司はその伏し目がちなひかりの顔をじっと見る。

 ずっと憧れて、遠くから眺めていた少女がこんなに近くにいる。

 現実に今起こっていることとは信じがたい程、描いていた想像に限りなく近い状況だった。

 誠司の胸は高鳴りっぱなしだった。


「これでよし」


 ひかりが顔を上げて誠司にノートを返す。

 誠司は慌てて目を逸らす。


「ありがとう。助かります」


 今凝視していたのを気付かれなかったかと、誠司は焦る。

 そんなに話が弾むでもなく、二人は会話もそこそこに同じペースでノートをとっていく。

 右手が使えない誠司は、左手でシャープペンを持って器用に字を書いていた。

 とても綺麗だとは言い難い文字だったが、通い詰めてくれているひかりについて行こうと練習したのだった。

 慣れない左手では書き疲れるため、手を軽く振ってほぐす様な動作を誠司は時々する。

 ひかりはその度に自分の書く手を止めて一息つく。


「もうすぐ夏休み終わっちゃうね」


 窓の外に目をやって、ひかりは少し寂しそうな顔をした。

 そんな何気ない仕草も、誠司にとっては切り取って脳裏に焼き付けたい一瞬だった。


「うん。時任さんには世話かけっぱなしでごめんね。夏休み本当はいっぱいやりたいことあったよね」


 ひかりはハッとして、そんな遠慮がちな少年に目を向ける。

 少女が口にしたほんの些細な一言だった。

 意図すらしていなかった所で、少年にいらぬ気遣いをさせてしまったことに少女は動揺を見せた。


「そんなことないよ。私ここで高木君と一緒にいられてすごく楽しかった。ほんとだよ」


 とっさに返した一言は躊躇ためらいよりも少し先に口をついてしまったのだろう。

 ひかりの頬が少し遅れて紅く染まっていく。

 窓の外、庭の方からしんしんと蝉の鳴き声が聴こえてくる。

 正座をして向かい合う二人は、お互いに視線を合わせられない。


「ほんとだよ……」


 うつむいたまま、ひかりはとても小さな声で、もう一度そう言ったのだった。



 夏の午後。

 窓から差し込む日差しが、ほんの少しだけこの質素な部屋を彩る。

 誠司にとっては、それ以上にひかりがそこにいるだけで、味気ない自分の部屋が何か特別な輝きで満たされている様に感じられるのだった。

 思い返せば三年生になって、ひかりと別々のクラスになった時にその逆のことを体験した。

 新学期の初日。足を踏み入れた三年生の教室には、二年生の時のような鮮やかさは無かった。

 この教室少し暗いな。その時はそう思っただけだったのだが、今はその原因をはっきりと知ってしまった。


 君がいるだけで、こんなにも世界が鮮やかに見えてしまうなんて……。


 こんなに飾りっ気も何もない、少し色あせた壁紙の部屋さえも、目の前の少女の存在のせいで明るく彩られている。

 

 もし君と、ずっと一緒にいられたなら……。


 誠司は浮かんでしまった考えを振り払う様に小さく頭を振った。

 自分を心配してくれて、ここに通ってくれている目の前の少女の優しさに対してふさわしくない。そう思い、自分の身勝手さに恥ずかしさを覚えた。

 それでも誠司は、その輝きに吸い寄せられるかのように、どうしてもこの少女に惹かれてしまうのだった。



 ノートに走らせていたシャープペンの手を止めて、ひかりはフウと小さく息を吐いた。


「終わったね」


 午後三時を過ぎた頃、課題をすべて終えたひかりは、腕を上げて大きく伸びをした。

 ひかりに少し遅れてノートを書き終えた誠司も、大きくフウと息をついた。


「ほんとに終わった。ありがとう時任さん」


 まだ夏休みを数日残して、ようやく二人は宿題を全て仕上げたのだった。

 テーブルの上を片付けて、もうすることの無くなった二人は少し黙り込んでしまう。


「あの……」


 しばらくして、誠司が躊躇いがちに沈黙を破る。


「はい……」


 何だか少し緊張気味な少年の様子に、ひかりも少し緊張してしまう。


「あの、おれ……時任さんに聞いて欲しいことがあるんだ……」


 真剣な表情の少年に、ひかりは急に胸がどきどきしてきて、言葉が出なくなった。

 次の言葉を、もどかしい気持ちでひかりは待つ。しかし、そこから少年はなかなか切りだすことができない。

 それからしばらくして、やっと躊躇いに決着がついたのか、誠司は必至な面持ちでひかりにこう伝えたのだった。


「……おれ、時任さんにお礼がしたいんだ……」


 少し思ってたことと誠司が言ったことが違っていたので、ひかりの緊張はいくらかましになった。


 パンパン。


 両手で自分の頬を叩くひかりに、誠司は「どうしたの?」と声をかけた。


「いえ、何でもないの」


 頬を赤くしているのが、今叩いたものなのか、そうでないのか分からなくなっていた。


「今日、宿題が終わったら言おうと思ってたんだ……あの、時任さん、前に駅前にできたふわふわパンケーキ店の話をしてたよね」

「うん。部活の子が美味しいって言ってて」


 ひかりの前で言葉を続ける誠司は、いかにも必死そうだった。


「その……もし良かったら今から一緒に行かない? ご馳走させてください」


 やっと用件を伝え終えた誠司の顔は、熱でもあるのかというくらい真っ赤になっていた。勇気を振り絞ってやっと今言えた感じがありありと窺えた。


「そんな、気を遣わないで。それに……それにほら、あそこ高いって言ってたし」


 少年の突然の申し出に、ひかりはあたふたしながら言葉を探す。


「それにお礼なんて、私こそいっぱいお礼したいのに」

「あの、そう言わずにさ。時任さんにはずっと世話になりっぱなしだから……」

「そんな、まだ全然足りないよ……」


 もうどう応えていいのか分からなくなって、ひかりの口からはそんな返答しか出てこない。

 困ったことに、必死過ぎる少年とあたふたし過ぎている少女は、完全に膠着状態に陥ってしまった。

 そんな中、どうにかしなければと頑張ったのは少年の方だった。


「お願いします。俺と一緒に来てください」


 座卓に両手と額をこすり付けて、もう一度勇気を振り絞った少年の必死さは少女にも伝わった。


「わ、私でよければ……はい。お願いします……」


 ひかりは誠司をまともに見ることも出来ずに、小さな声でそう応えた。


「ありがとう」


 痛々しい程の緊張から解放された少年は、やっと胸を撫で下ろした。

 ほんの少しだけ暑さが緩んだ夏の午後だった。

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