ひかりの恋
ひなたひより
序章 はじまり
夕日の射し込む市バスの待合には、今日も当たり前のように列ができていた。
日中の暑さが少し緩む時間帯。けだるげな風が汗ばんだ人たちの間を通り抜ける。
疲れた表情でバスを待つ人たち。乗り合いの列が長くなる夕方のこの時間はいつも少し道が混んでいて、たいてい時刻表どおりにバスが到着することは無かった。
やがて、ようやく低い排気音と共にバスが停留所へと入ってくる。
熱気を孕んだ車体が停車すると、軋んだ音を立てて扉が開き、冷たい空気と独特の匂いを外に吐き出した。
額に汗を浮かべた人の列が動き、車体を揺らしながら一人また一人と乗り込む。
列の中ほどにいた少し疲れた様子の母親は、小学生の娘の手を引いて乗車すると、入り口に近い二人掛けの椅子の奥側に腰を降ろした。
「マーちゃんこっちよ」
「やだ、後ろがいい」
女の子は小学校三年生くらいだろうか。
母親の隣に座ろうとせず、女の子は真っ直ぐに一番後ろの席へと向かう。
勢いよく小豆色の座席に腰掛けると、ギシリとスプリングが軋み、西日に照らされた空間に小さく埃が舞った。
母親はそんな娘の様子を振り返り、しょうがない子ねと苦笑いを浮かべる。
「おとなしくしててね」
周囲の目を気にしながら、母親はそっと声をかける。
最後尾の座席の真ん中。バスの中を見渡せれるこの場所が、いつもこの女の子の特等席だった。
月に一度、歯列矯正に通う帰り道、始発の停留所からここまでは、あまり乗車する人が少ないようで、お気に入りの席に容易に座ることができた。
そしてもう一つ、女の子にはこの席にこだわる特別な理由があった。
女の子は左側に座る人影に目を向ける。
そこには刺繡の入った制服に身を包んだ黒髪の少女が座っていた。
「こんにちは」
声を掛けてきたのは、いわゆる少女漫画から飛び出してきたような風貌の高校生であろうおねえさん。
きっとこのバスの路線にある学校に通っているのだろう。以前もその席に座っていて、その時ほんの少しだけれど、他愛のないお喋りをしたことがあった。
女の子はバスに乗る度に、この美しい少女にまた会えるのではないかと期待していたのだ。
「こ、こんにちは」
女の子は少しドキドキしながら返事を返す。
艶のある長い髪、すっきりとした細面の顔立ち、涼しげな眼。
にこりと笑顔を浮かべる大人っぽくも、まだ大人になりきっていない歳上の少女に、女の子は憧れの眼差しを向ける。
「また会ったね」
少女がほんの少し髪をかき上げる。するとフワリと甘酸っぱい匂いがしてきた。
「お母さんと一緒じゃなくていいの?」
白い歯を見せ、笑みを浮かべて少女が訊いた。
「いいのいいの」
女の子が笑うと歯の矯正金具がキラリと光った。
「私もしてたのよ。歯の矯正」
「そうなんだー」
女の子は上機嫌だ。足をぶらぶらさせて体を揺らす。
「へへへ」
初めて話をする訳でなくとも、まだそこまで親しくもないおねえさんに、女の子は少しもじもじしてしまう。
やがて、最後の乗客が座席に腰を降ろし、バスの扉が閉まった。
運転手のアナウンスの後、低いエンジン音と共にゆっくりと車体が動き出す。
だが、数メートルも進まずにブレーキがかかり、車体を軋ませて再びバスは止まった。
そして、少しして扉が開かれて、一人の乗客が乗り込んで来た。バスでは時々見かける光景だった。
後部座席中央の女の子の席からは、後から乗り込んできた二十代くらいの男の姿がよく見えた。
男は少し背の高い痩せ型で、この暑さの中、薄い緑色のジャケットを羽織っていた。
細く切れ上がった男の眼が座席中央の女の子に向けられた時、一瞬男の唇の端が吊り上がったように見えた。
バスの扉が閉まったと同時だった。男は左手でジャケットをめくった。
隠していた右手に握られていたのは鈍く光る出刃包丁だった。
「きゃーっ!」
包丁に気付いた乗客が悲鳴を上げた。男はそれに構わず真っ直ぐに女の子に向かって突進した。
両手に握り直された刃物が女の子に届くまで、それほど時間がかからないのは誰の眼にも明らかだった。
「シュ ―――!」
男の唇から高く鋭い空気の漏れるような音が聞こえてきた。
時間にすれば数秒の間だったが、女の子の眼にはこの空間だけ時間がゆっくりと流れているように映った。
ふわりと何かが自分を包む。甘い蜜柑の様な匂い。
おねえちゃんだ。おねえちゃんが私を庇って抱き締めてくれているんだ。
とてもいい匂いのする黒髪の向こうには、殺気を孕んで突進してくる知らない男の人。
そして、もう誰のものかも分からない悲鳴。
夕日に照らし出されるいつもと違うバスの中。
そして……。
二つ前の席から人影が飛び出し、女の子を庇う少女と突進してくる男との間に割って入った。
その後は一瞬だった。
刃物を持った男の両足が宙に浮いたと思うと、次の瞬間大きな音を立てて後頭部から床に打ち付けられていた。
そして同時に、男が握っていた包丁は、その手を離れて回転しながら飛んでいっていた。
夕日の射しこむ車内に、ひと時の静けさが戻る。
「大丈夫……なの?」
女の子を庇い、覆いかぶさっていた少女がそう口にした。それが女の子に向けられたものか少女自身に言ったものかは分からない。
きつく抱きしめていた腕をほどいて黒髪の少女はゆっくりと振り返る。
少女の視線の先には逆光の夕日を遮り佇む背中があった。
そしてその人影は小刻みに震えているように見えた。
制服を着ている。高校生くらいの少年だ。
大きく息を吐き少年は振り返る。
その横顔にはまだ緊張が張り付いてはいたが、ほっとしたような様子が口元に浮かんでいた。
「大丈夫?」
小さいがしっかりした声でそう言うと、そのまま少年は膝をついて床に崩れ落ちた。
うつ伏せに倒れた少年からおびただしいほどの黒い液体が床に広がりだす。
そして女の子は叫び声に混ざるどこか遠いサイレンの音を現実感を伴わないまま聴いていた。
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