三. 行方知れずの少女(三)

 気に障ることを言ってしまったと思ったのか、すみません、と少し委縮した様子でレイヴェルが呟く。

 トワが進行方向に立つの存在に気付いたのは、その瞬間。心理的にも物理的にも最悪のタイミングだった。レイヴェルにはまだおぼろげにすら見えないだろうが、ストレナの夜闇に慣れたトワが発見するには充分な距離だった。

 いや、むしろ気付くのが遅すぎた。

 トワは繋いでいた手を払うように離す。動きが鈍る事を避けるためのその判断は、夜衛士ナイトとしては至極正しいものだが如何せん説明が足りていない。「えっ」と困惑の声を漏らしたレイヴェルの方へ振り向くこともせず、トワは淡々と指示を告げた。

「来た道をまっすぐ戻れ。振り返っても私のことが見えない場所まで離れたら、そこでじっとしていろ。すぐに終わらせる」

「あの、どうしたのです? 何が、」

 トワが答えた、そのとき。


────────。


 レイヴェルの動揺を嘲笑うかのように災害じみた轟音が響いた。近くにあった民家が倒壊したのだ。ただ崩れたのではない。明確な意思を持って破壊された。咄嗟に甲高い悲鳴を上げて耳を抑えた彼女を、「早く!」と声を張り上げてトワは急かす。

 レイヴェルは何を考える猶予も与えられないまま、弾き出されるように後ろを向いて走り出した。だから、彼女はその輪郭を幽かに見える程度にしか視認していない。

 それでも、だ。レイヴェルはその一瞬で本能的に理解した。

 あれは正真正銘のバケモノだと。


 そもそもの話、一つの街が丸ごと棄て置かれるには当然、それに足るだけの理由がある。ストレナはある日を境にして深い深い夜に覆われた。本来、人の動きが最も活発な昼の時間の喪失。確かに異常事態と言って差し支えないだろう。

 しかし、だ。

 

 否、とは言い難い。それは時と場合によって修復不可能な致命傷となり得る。

 けれど、それだけであったならこの街は、きっと今とは少しばかり違う様相を見せていたに違いない。


────キャコォォォオ。


 噛み合わない歯車のような、錆びついたチェーンが擦れるような。薄気味悪い音で構成された叫び声が辺りに木霊した。

 民家の屋根を越すほどの巨体。地響きと紛う足音。瓦礫の寄せ集めを質量をもった霧で強引に繋ぎ止めたような歪な組成の体躯は、けれどよく見ると顔、腕、足といったパーツに分かれていて、人の形を模しているのがわかる。

 ストレナに生きる人々から霧影オーズと呼称されるその怪物は、何も映っていない赤色の目で足元を動く彼女らを見下ろしていた。

 夜衛士ナイトが職業として成り立つ最大の理由がこれだ。ただ追い剥ぎや暴漢が怖いだけなら外の用心棒を雇えばいい。人間同士の暴力の押し付け合いであれば幾らでも方法はある。だが彼ら霧影オーズの相手だけはどうにもならない。自分一人逃げおおせるというのならともかく、この理外の暴威から誰かを守るというのは、には多少ならず手に余る。

 トワは仁王立ちになって霧影オーズと正面から向かい合った。

 背中に手を回し、雑に括り付けられた得物の柄を掴む。背丈ほどもある刃の長い薙刀は、トワの唯一の仕事道具だと言ってもいい。冷たくて、硬い。けれどよく手に馴染んだ感覚は、時として他の何物よりも確かな安らぎを与えてくれる。そして、同時に「ああ、やはり自分はどこかおかしいのだ」と、何度も辿った思考をもう一度なぞるようにトワは思うのだ。

 先に戦闘行動を起こしたのは霧影オーズだった。とは言っても、それはただ接近して片腕を突き出す、という愚直なものだ。その巨体ゆえに威力は凄まじいが、慣れていれば避けるのは造作もない。

 トワは悠々と躱そうとして……やめた。

 咄嗟のことで足が縺れたのだろう、レイヴェルがすぐ後ろで躓き転げているのが見えたからだ。

 トワは無理な体勢から強引に重心を引き戻し、薙刀を地面に突き立てるようにしてその拳を受け止めた。

「何やってる!」

 怒声が飛ぶ。レイヴェルは「すみません!」と泣きそうな声で叫んでなんとか立ち上がり、走り出した。

 あの巨体の攻撃を真正面から受け止めるのは決して望ましい行為とはいえない。が、トワは押し込まれはしたものの踏みとどまり、その体格からは想像もつかない力で薙刀を振り上げて腕をはね返した。無論、霧影オーズの体勢を大きく崩すには至らない。腕と自分との間に僅かなスペースを生む程度だ。

 それで充分だった。トワは出来上がった隙間に走り込んで距離を詰める。

 その動作で照準は完全にトワへと向いた。

 大前提として、敵対した霧影オーズが必ずしもトワを狙ってくれるとは限らない。目の前の敵から片付けにくる確率と逃げる者から仕留めようとする確率は、体感値的に五分と五分だ。その矛先を自分に向けさせた時点で第一段階は成功したといえる。

 であれば、あとはたおすだけだ。

 接近に反応して繰り出される両腕を足の隙間に滑り込んで避け、背後へ回ると同時に刃を閃かせる。

(……浅い)

 右足を狙った一撃は威力が足りず切断するまでには至らなかった。が、問題は無い。霧影オーズが何をするよりも速く振り向きざまの二撃目が狂いなく同じ箇所を切り裂いた。紛れもない有効打だ。が、この怪物に痛覚などあろう筈もなく、これしきで怯む訳もない。崩れた体勢を庇う素振りもなく拳が飛んでくる。

 当然、見えている。

 こちらへ倒れ込みながらの攻撃を跳び越えて躱すと、その背中を足場にして更に高く跳び上がる。派手な音とその体躯の破片を撒き散らしてうつ伏せに倒れ込むのが真下に見えた。

 彼らの形態には幾つかのパターンがあるが、いま目の前にいるような人型の霧影オーズの場合は、驚くべきことに人体の機能を概ね模倣している。とはいえど完全に切り離さない限り四肢は動き続けるし、頭を切り落とせばそれで終わりという単純なものでもないが。ともかく重要なのは最大の急所が明確だということだ。

 空中にあってもトワの姿勢は一切揺らぐことなく、刃の先は狙うべき一点を油断なく見据えたまま。巨体を揺り動かして起き上がろうとしている無様な姿が見えるが、もう遅い。落下の威力を乗せた一突きは倒れ伏した怪物の左胸にあたる部分を過たず貫いた。


────ギギャオオォォ。


 途端、叫び声にも似た不愉快な音を轟かせたかと思えば、霧影オーズの身体は崩壊を始めた。飛び退くと同時に薙刀を引き抜くと、左胸に埋まっていた赤色の水晶体が刃に刺さったまま引き摺り出され、瞬く間に霧散した。これが霧影オーズの核、人間でいう心臓にあたる部分だ。

 トワはほぅっと一つ息を吐く。

 そして薙刀を鞘に収めると、残骸の山を背に今夜の依頼者たる少女に向き直った。レイヴェルは離れたところで目を瞑り、耳を塞いで縮こまっていた。可哀想に、怯え、震えている。依頼を請けた時点で最低限の説明は為されているはずだが、まあ無理もない。本来あれは大人の男でさえ泣いて神に救いを乞う代物だ。実物を目にして受ける精神への負担は如何程か。

「終わったぞ。もう目を開けていい」

 そっと近寄って声を掛けると、彼女は一瞬ビクッと身体を強張らせて、それから恐る恐るといった様子で顔を上げた。

「悪かったな。今のは未然に防げた。あんなに接近されるまで気付けなかったのは私の失態だ」

「……いいえ」

 レイヴェルはまだ声に恐怖の色を残しながらも気丈に立ち上がった。

「凄いのですね、トワさんは」

「別に、褒められたことじゃないさ。道を変えようか。流石にこの残骸の上は歩きづらいだろう」

「ええ、そうしていただけると」

 レイヴェルは頷く。

 トワは彼女の膝にできた真新しい擦り傷を一瞥し、そして目を逸らした。

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