5.5-10 たりないもの
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太陽が登って沈むこと、十回くらい。
ふつっと森が終わった。
森が終わった先には広い河が横たわっていて、向こう岸には何にもない、茶色い荒れ野が広がっている。ちょうどいいことに、天気はカラッとした秋晴れだった。弱い風がのんびり吹いていて、少しポカポカするくらい。こんな自分にも、幸運なことってあるんだなあ……としみじみ思った。
シェンは服を全部脱ぎ、靴と双節棍を服で包むと、腰紐で自分の背中にくくりつける。河の流れはわりあい緩そうだ。シェンはまっすぐ河に入っていった。
さすがに冷たいが、森の夜の雨よりマシだ。浅い川で、水がシェンの胸くらいの深さになるところまで歩いたら、距離にして河幅の半分近くを渡れてしまった。少し潜ってやると、すぐ対岸に辿り着いた。じゃぶじゃぶ水から上がり、犬のようにぶるぶるっと体を振るう。体に巻いていた服を解き、枯れ草の上で広げて干す。
日は、まだ天頂近くにある。服が乾くのを待ちがてら、シェンはもう一度河に入っていった。
この河の水はそんなにきれいじゃないけれど、生き物の気配はたくさんする。川べりの小魚や貝を取って食べながら見ていると、たまに上流から何か流れてくる。
半分腐ったモモ、犬のぬいぐるみ、布の切れ端、ふやけてほとんど崩れた堅パン、小さな櫛の破片……
日が暮れるまで拾っていたら、なかなか色々集まった。きっと上流には大きな町があるのだろう。これならしばらくは楽に食いつなげる。
シェンは、この河を少しずつ上りながら生活することに決めた。
ひと月もすると、シェンにはいっぱしの旅人みたいな荷物ができていた。
丈夫な布袋に、くるまって寝られるぐらい大きい布切れ、小さなナイフ、銅の器、縄の切れ端、などなど。河でとれた魚を、捌いて洗って干して持ち歩くこともできる。
ただ問題は、寒くなってきたことだった。稀にある木陰で冷たい北風を耐え忍んでいたが、ある日寝ている間に雪が降って、シェンはついに諦めた。
早く上流の町に着かないと――と、急いで河を上った先にあったのは、天をつくほど高くて、両端が見えないほど長い、黒々とした城壁だった。
城壁のすぐ麓には、青い服を着て槍を持った兵士が等間隔に何人も立っている。騎士なんて、久しぶりに見た。なんて大袈裟な警備なのだろう。
シェンは河岸から離れて、並んでいる兵士の顔を吟味した。できるだけぼんやりした顔の男を選び、舞台で鍛えた「かわいい」笑顔を作って、とことこ小走りで近づく。
「すみませン、兵隊さン」
「ぁい?」
間の抜けた声が返ってくる。
「ここは何ていう町ですカ?」
「ここ? 王都だけど……」
「王都! 王都ですカ、やっと着きましタ!」
「はぁ。よかったですねえ……」
「で、これはどこから中に入ったらいいんでしょうカ?」
「えっと……あっちにもうちょっと行ったら、門があるけど。通行証ないと入れないよ。お嬢ちゃん、通行証ってわかる?」
男はシェンの右方向を指差しながら、眉をひそめて言った。シェンは満面で笑ってみせると、
「もちろん持ってまス、ありがとうございましタ!
男の指差した方へ、手を振りながら走っていく。ポカンとしながらつられて手を振る男が、前を向く瞬間チラッと見えた。
あっちにもうちょっと……と言っても、歩いたり走ったりしながら城壁沿いを進んで、巨大な門が見えてくるまで、二刻くらいかかったと思う。
城壁と同じ黒い岩でできた、装飾もへったくれもない無骨な門。殺風景なその構えとは対照的に、門は出入りする人間でえらく賑わっていた。丸太でできた門の扉は開かれていて、見上げたら首が痛くなるほど大きい。
ずっと前孤児院で聞いた――大昔に神様が大洪水を起こした時、世界中の生き物を乗せるために作られた筏。それは、きっとこれくらいあるのかもな、と思った。
門の周囲には、青服の騎士がたくさん詰めている。出入りの手続きをしているらしい騎士もいれば、槍を持って門番をしている騎士もいた。これだけ人目があると、こっそり門を通って中に入るのは危なすぎる。
シェンは早々に諦めて、門から出ていく人の列を眺め始めた。
みすぼらしい格好で、うつむきながら歩いて出ていく人影はきっと巡礼者だ。剣と大きな荷物を携えて出ていく数人のグループや、ロバに乗って一人で出ていく者もいる。まれに、ピッカピカの大きな四頭立て馬車がえらそうに出ていくのも見た。あれはきっと貴族だろう。
そして、シェンが探していたのは――幌付きの荷馬車だった。
出ていく荷馬車は珍しくないが、何台もの隊列を組んでいたり、御者の他にもう一人荷台の後ろを守っている人がいたりと、なかなか隙のありそうなのがない。できるだけ大きな荷馬車を、一人で繰っているのがいいのだが……これだけ馬車の出入りがあれば、好きなだけ選り好みできる。
――また、同じ轍を踏もうとしている。
シェンは馬車をいくつも見送りながら思った。
今めぼしい馬車をちゃんと選んでおけば、前みたいにならずに済むだろうか。
わからない。でも、短い間に遠くまで行く手段はこれしかない。
ぼうっと眺め続けて、日が暮れてきた。
王都の城壁の向こうに、太陽が沈む。門のあたりは城壁の影で、一瞬にして闇に飲まれた。
門の扉まわりに、松明の灯りがともる。そこから、ぽっ……ぽっ……と吐き出されるように、ランプの灯りが出てきては、荒野へ散っていく。
その時、見つけた。暗いランプをぶらぶらぶら下げて、二頭のロバに引かれながら出てきた幌馬車。御者は前に一人。
シェンはできるだけ静かに駆け寄った。ロバたちの足はのろくて、小走りで追いつけた。後ろから荷台の端につかまって、幌の中へ潜り込む。
中には、中身のわからない箱や、柔らかい袋がたくさん入っていた。運のいいことに、人のいる気配はない。シェンは奥の方に手探りで進むと、適当に身を隠した。
馬車隊の荷馬車に紛れ込んだ時のように、このまま遠くまで行けると思っていた。
シェンを乗せた幌馬車が目的地に着いたのは、たったの二日後だった。
王都近くの町。無骨な町だった。
飾りっけのない石造りの建物が並び、その上で何本もの煙突が天を指している。町の中をぶらぶら歩いていると、煙突の下はどれもレンガの大きな炉につながっていることが分かった。
カン、カン、カン……
鉄を打つ音がそこいら中から聞こえてくる。どうやら鍛冶の町らしい。
賑やかなところだ。マントを着た旅人や、大荷物を積んだ馬や馬車がそこいら中にいる。
そして、裕福な町でもあるようだった。道ばたで食い物を漁っているのは犬や猫ばかり。他人の家の軒先で雨風を凌ぎ、舗装道の間に生えた草を食って生きているような――シェンみたいな見すぼらしい人間は、どこにもいない。
町の人間はみんな煤や埃で汚れている。でも、ボロボロで汚らしいのはいなかった。みんな、笑ったり怒ったりしていた。すれ違う顔もすれ違う顔、どの顔もまぶしかった。
馬車を降りた初日、もう日が暮れようとしている。
煙突から出る白い煙が、だんだん赤銅色に染まっていくのを眺めながら歩いていたら、後ろから背中にドンッとぶつかられた。
「あ、すみませんっ」
相手がそう言って、シェンを走って追い抜く。
「あの……」
シェンの口を言葉がついて出ていた。
「あの、ここはなんて町ですカ?」
「え?」
こちらを振り返ったのは、丸々太った男の子だった。アルバート人らしい白い肌と焦茶の髪。麻の分厚いツナギに革のエプロンをした姿は、シェンと同じくらいの背丈なのに、いっぱしの職人風だ。
「この町」
シェンは繰り返す。
「なんて名前の町ですカ?」
「あ、ああ。アーラッドだけど……」
男の子は答えながら、足を止めてシェンを上から下まで見た。
「……君、どこから来たの?」
シェンはふいっと横を向いて、
「アーラッド。
聞こえないふりをした。
ちょっと微笑んでみせると、戸惑った顔をしたままの彼を置き去りに、暗い道の端を目指して走っていった。
家々の煙突に満月がかかり始める時分、シェンはようやく町の端らしきところにたどり着いた。
町の端「らしき」――というのも、この町には獣よけの塀や柵がなくて、どこまでが町なのかいまいち分からない。しかし、暗い方へ暗い方へと歩いていったら、建物がひとつもないところまでやってきた。
そこは、町を囲む森の切れ間だった。薄く雪の積もった平坦な地面が、シェンの行く先の暗闇へと細く伸びている。
シェンは、そこへふらりと踏み入れた。月明かりが雪に反射して、足元が明るい。こんな辺境でも人通りは多いのか、凹凸のないきれいな道。
少し歩くと、道はトンネルに突き当たった。シェンは足を止めた。
入口は立派な丸太で四角く囲われていて、中は真っ暗だ。ひょう、ほひょう……と笛のような音がトンネルの奥から聞こえてくる。
すんすん鼻を動かしたら、少しだけ灰のような匂いがした。人の気配がする。しかし、真っ暗で中に誰がいるか分からないのに、気味悪くは感じなかった。シェンは、その中へ入っていった。
次の日になって知ったが、そこは鉄鉱山だったらしい。
最初の晩、いくつにも枝分かれする真っ暗な坑道で、できるだけ人のいた気配がしない細い道を選んで寝床を探した。明かりも何もないけれど、誰も来ないし雨風の心配もない。シェンはそれから、そこで生活し始めた。
朝になると坑夫が山に出入りし始めるので、真っ暗なねぐらで眠りについた。とにかく腹が減って我慢できなくなるまで眠って、眠って眠って眠った。
数日寝て過ごして、空腹に耐えられなくなると、夜になるのを見計らって町に出た。井戸を探して水を飲み、犬猫と一緒にゴミを漁る。たまに体を動かすのも兼ねて、人の家に忍び込んで食べ物を調達しては、腹を満たした。
もうずっと、この生活でもいいかもしれない。
諦め気味にそう思い始めた頃には、アーラッドの雪はずいぶん深くなって、町の景色は毎日すっかり白に染まっていた。
そんなある日――シェンは食べ物を嗅ぎ回って円形闘技場の前までやってきていた。
〝二月祝勝武闘祭〟
でかでかと、闘技場の入り口に垂れ幕がかかっている。
祭りは好きだ。大きな祭りほど、祭りのあとには色々なものが落ちている。食べ物や衣服はもちろん、金と縁遠いシェンですら、両手からあふれるほど金貨や銀貨が手に入れられる。
シェンは、鉱山の坑夫が口ずさんでいた歌を心の中で歌いながら、急いで井戸に向かった。服を全部脱いできれいに洗い、くすねた石鹸を薄めて髪と体を洗った。死ぬほど寒かったので、荷物に入っていたボロ切れを着て、裸でねぐらへ帰って、丸まって寝た。
二日後の朝。目が覚めたシェンは、昨日洗った服をきちんと着て、きちんと髪を結って町へ向かった。
誰かに、祭りのことを聞こうと思ったのだ。工場町を行ったり来たりする人たちの中から、出来るだけボケっとしていそうな、年端のいかない少年を選んで声をかける。
「
両手を揃えて、顔を下から見上げると、声をかけられた少年はきょとんとしてこちらを見た。
「え……え、何?」
「〝二月祝勝武闘祭〟ってのは、どんなお祭りなんですカ? よそから来たもので、よく知らないんですけド……」
「ああ、そういうことか」
少年は、少し自慢げに胸を張った。
「武闘祭はな、町の強い人がみんなで武器持ってきて勝負すんの。で、誰が町で一番強いか決めるんだ。要は半分武器自慢みたいなもんだけど……」
「
「勝ったら? そりゃ、すげー賞金があるんだよ。数年は遊んで暮らせるぜ」
「それはそれは……で、試合は我でも見られるんですカ?」
「そりゃそうさ、誰だって見に来るよ。二月二十四日に闘技場に行ったら、朝から一日中やってるから……ま、めちゃくちゃ強いやつがいて、試合が全部一瞬で終わっちまうとかじゃなけりゃね」
「
「さ、さすがにそこまでは見たことないけど……でもほら、早く行かないと席埋まっちまうし。あ、あと、見に行くなら誰かに賭けろよ」
「賭け? 試合の勝敗に賭ければいいんですカ?」
「そうそう、そこいらの店でやってるから。百ベリンでも賭けてたら、上手くいきゃ結構儲かるぜ……」
「ふうん……で、あなたから見て勝ち馬はいるんでス?」
「言わねーよ。自分で決めなきゃ面白くねーだろ。あー……でも、町の外から来たやつはやめといた方がいい。勝ってるの見たことない」
「
「うん、一応……腕に自信があるなら誰でも」
「そう……」
シェンは呟いて、黙り込んだ。眉間に皺を寄せて、鼻先の虚空を見つめている。
「……あの、もういい?」
しばらくして、困った顔で少年が言った。
「俺、そろそろ行かないと……」
「すみませン」
シェンはハッとして顔を上げると、たった今までの難しい表情を瞬時に引っ込めて、にっこりと笑った。
「色々ありがとうございまス。勉強になりましタ」
少年の目を捉えたあと、深々とお辞儀をする。
「いや、全然。また何があったら言ってくれよ」
少年はそう返すとすっと視線を逸らして、来た道を戻っていった。
**********
シェンはその日のうちに、闘技場の武闘祭参加受付まで来ていた。
腕に自信があるわけではないけれど、見世物なら多少自信があった。武闘祭は見世物とは違うのかもしれないが、観客の囃し立てる前で戦うのならシェンにとっては同じだった。
円形闘技場の入り口の脇で、木の箱にぼうっと座っている大男が受付の役人だった。目印も看板もそれっぽいテーブルなんかも置いていないので、うっかり一度素通りしてしまった。
手続きはすこぶる簡単で、名前と歳と出身地を言うだけだった。
「町の外から参加する奴は前金を払え」と言われたので、「ない」と答えたら、しかめっ面をしながら台帳に登録してくれた。それでいいのか……と一瞬疑問が頭をよぎったが、黙っておいた。
「当日逃げたら落とし前つけてもらうからな」と釘を刺したきり、受付の大男は台帳を置いてその場で昼寝を始めてしまった。
闘技場から、ねぐらの穴への帰り道――シェンは手持ち無沙汰に考える。
勝った賞金は、百万ベリンらしい。負けたらどうなるのだろう、怪我か、最悪試合中に殺されるのか?
生き残りたい気持ちともう諦めたい気持ちは、いつもコインの裏表だ。生きるか死ぬかの勝負に身を投じて、その結果負けた自分を呪いながら死ぬのはさぞ潔いだろう。
そのうえもし万が一勝って、百万ベリンが手に入るとしたら……当面の〝生き残れる可能性〟を、自分で掴むことができるのだ。こんなに分かりやすいこともない。
今まで、目の前に食うものと寝るところがありさえすればそれでよかった。だから、金がほしいと思ったことがほとんどない。ランタナヤの一座にいた時だって、自分のショーで払われたチップが自分の懐に入ることなんか、考えたこともなかった。そういうものだと思っていた。
けれど、この町の住人が数年は遊んで暮らせる金が、自分にも手の届くところにある……と聞いたら、なんとなく手を出したくなってきたのだ。この町の人が数年遊んで暮らせるなら、シェンならきっと一生使いきれないだろう。
そんな金が入ったら……どこか大きな町を探して……その近くに森でもあったらいいな、そこにほら穴とか木のうろとか見つけて住んで……ちゃんとした布で着る物を作って……ふかふかの毛布を買って、冬は温かくしようか。
食べ物は自分で獲るけれど、足りなくなったら町に買いに行こう……もし怪我か病気でもすれば、薬売りに大枚叩いてみるのもいい。
使わない金は見つからないように、住処の近くに埋めておこう。そこから少しずつ、掘り起こして使えばいいから……
そうやっていれば、きっとそのうち大人になれる。一人ぼっちでも、時々町に顔を出してさえいれば、いつか誰かが大人扱いしてくれるようになる――かもしれない。
せいぜい明日の飯のことしか考えたことのなかった自分が、ずっと先のことをこんなにはっきり考えたのは初めてなんじゃないだろうか。
それに気づいた瞬間、暗い森を抜けてパッと視界が開けた時のような、冬の夜が明けた時のような――おそろしく清々しい気持ちになった。
金に狂う人間の気持ちが、少し理解できたような気がする。明日の飯が食えるかどうか考えなくてもいいというのは、中毒になるほど気が楽なのだろう。そして自分もまた、手に入れてもいない百万ベリンに夢を見ているのだ。
大人になるまでの生活を、この町の人間から勝ち取る――他人の敗北と引き換えに自分が生き残る。その瞬間の重苦しい快楽は、もうシェンの体の芯に染みつき始めていた。
**********
髪と服をきれいにし、できるだけ毎日食事を摂って体を肥やし、双節棍も申し訳程度に手入れして、迎えた祭りの日の朝。
輝くような快晴だった。見世物の舞台の日はいつも快晴で、腹が立ったものだ。
しかし、今日は違った。勝負日和だとすら思う。ただの見世物じゃない。人生を勝ち取るチャンスなのだ――今度こそ、本当に一人で生き抜くための。
一昨日くすねてから大事に取っておいた干し肉を齧り、町に出る。闘技場の周りは見たこともないほどの人で混み合っていた。
集まりつつある参加者に混じって闘技場の入り口を目指していると、シェンの目立つ青い衣装に、すれ違う人がみんな振り返ったり、指さしたりする。ロジーに叩き込まれた「かわいい顔」をしてやると、誰も彼も嬉しそうに声をかけてきた。
ほんのしばらくそれを繰り返すうちに、「武闘祭参加者のかわいらしい外国人」は、闘技場周辺で評判になった。
武闘祭のルールを話半分に聞き、初試合に出る頃には、観客の大半はシェンを応援していた。人気者になれば、報酬が増えるわけじゃない。チップが手に入るわけでもない。でも観客を楽しませるためには、観客に可愛がってもらわなきゃダメだ。
見世物小屋根性の染み付いた自分に、シェンは小さくため息をついた。
武闘祭の相手はチョロかった。
相手を殺してはいけないルールがあるせいで、本気もクソもなく殺しにくる獣相手に比べたら、半分遊びみたいなものだ。どいつもこいつも、獣どころかロジーより動きが遅い。あまりに早く決着がつくので、相手が誰だったかも記憶に残らなかった。
数戦重ねるころには、シェンが試合場に出てくるたびに、口笛と歓声の嵐が吹き荒れるようになった。シェンはにっこり微笑みながら、全員その席から銀貨でも投げてくれりゃいいのに……と思っていた。
しかし、そんなみみっちいチップがなくても、優勝が目の前に迫ってきていた。
百万ベリン――どうせ夢だろうとは思っている。自分ごときにそんなウマい話があるわけない。
檻の中で数年そこいら獣と遊んだからって何だというんだ。
でも――でも、準決勝を勝ち抜いた時。
ついに百万ベリンが……明日の飯の心配をしないで、本当に一人で暮らす残りの子供時代が、現実のことに見えてきてしまった。
決勝戦直前。
シェンは役人以外に誰もいなくなった控室で、ぼうっと突っ立って闘技場への出口を見つめていた。
死ぬか生きるかの賭けをしなくても手に入る、大人になるまでの一人暮らし。そんなものがあるのなら、あんな一座さっさと捨ててこればよかった。
今までのことが全部バカみたいに思えてくる。今更降って湧いた希望の光に、かえって腹が立って、腹が立って腹が立ってシェンは唇を噛み締めた。
「なんと遠くエン国出身の十四歳! 愛らしい姿で軽快に相手を翻弄してまいりました!」
きた。
シェンは血の味がする唇の両端を、両手の人差し指でニイッと押し上げる。
「東洋から来たる武闘の妖精! シェン・フー!」
迷いなく、舞台の光の中へ駆け出す。
そして対戦相手の姿を目で捉えた瞬間――シェンの背筋に走ったのは、檻の中で飢え狂った獣と向き合った時の、あの緊張だった。
だらしなく着崩したシャツ。
傷痕だか泥だかわからないくらい汚れた手足。
燃えるように赤い髪。
相手を食い殺せる瞬間を秒読み数えているような、虐げられた獣の目。
さっきまで感じていた怒りが、一瞬で消し飛んだ。これをねじ伏せないと百万ベリンが手に入らないのならば、檻の中の数年間は無駄じゃなかったに違いない。
そう思った時、悪戯っぽくて素晴らしく愛想のいい笑顔が、自分の顔に浮かぶのがわかった。
「我姓福,我叫福珅、福家の珅と申しまス」
〝パルマ〟だった時の口上が、即席でアレンジされて口からするする出てくる。相手はそれを聞いて、興味なさそうに軽く首を傾げた。
「さて、ほぼ武闘祭史上初、アーラッド外部の参加者同士での頂上決戦! 一体どうなることでしょうか、存分に最後までお楽しみくださいっ!」
耳障りな司会の声が響き、ラッパの音が天をつく。
絶対に勝ってやる。シェンにとって、命そのもののかかっていない、初めての真剣勝負だ。
「両者位置につけ……試合開始!」
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相手の少年は、どの獣より強かった。
「降参でス。貴方には勝てませン」
そう口に出した時、ドオっと湧いた歓声と一緒に、音を立ててシェンの中のなにかが崩れていった。
檻の中の数年間に育てた勘が、「こいつには勝てない」と言う。言葉の通じる相手だっただけツイているのだろう。
ぜえぜえと耳障りな自分の息を聞き、蹴り飛ばされた腹をかばいながら、輝く舞台を後にする。笑顔なんか作る余裕もない。
でも、考えてみれば試合中の数分間で、今まで長いことした覚えのないあらゆる表情をした気がする。そう思ったとたん、頬の筋肉まで疲れて痛むような錯覚がした。
踏み出すたび、腹の奥がきりきり痛い。少し歩くと、控室の入り口にたどり着いた。日陰に入って、辺りがふっと暗くなる。
シェンは足を止めて、ふぅ……と息を吐くと、ゆっくり後ろを振り返った。
闘技場は、まだ歓声に沸いている。あの獣の姿は、もうなかった。白く光る舞台で、まっさらな砂が風にはらはらと舞っている。
舞台に出ていく前と寸分違わない光景。見ていると――そこには何が足りないのだろう、腹の底から、傷の痛みがどうでも良くなるぐらい激しくて獰猛な――
これは、何なんだ?
他人の破滅を見て感じる、あの反吐が出るような快感とは完全に、まるっきり対極の気持ち。
でかくて気色悪くてどうしようもない、その何かを飲み下す時、食いしばった歯がギリ……と音を立てた。
「ほら、終わったんだから出てくださいよ」
控室の出口で、かったるそうな役人の声がする。
シェンはふと気がついた。何かに似ている。これは何か――いつだったか――
砂の舞う闘技場を一瞥する。試合の最中の光景が、ふと頭をよぎった。
赤い獣の息遣い。蹴りを避けられた瞬間の、空を切る虚しい感触。あれが入っていれば勝てたのに。相手の剣を奪って握った、ぎこちない手触り。剣なんか握ったこともなかった。それがいけなかったのか?
シェンは小さく首を振って、薄暗い控室の中に向き直る。役人は閉会式が見たいのか、イライラとこちらを睨んでいた。
「早く出てくれよ。俺はもう行くからな」
「对……もう出まス」
そう答えた瞬間に、なんでかピンときた。
悔しい。
悔しい気持ち、だ。
珅は――
**5.5章 終
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