文書37 初月の嘲笑
砂が、楓の目元に向けて投げつけられる。
思わず瞼を閉じると、次の瞬間足が宙を舞い浮遊感が全身を襲った。
鳩尾に打撃が加わり、地面に叩き落される。
受け身も取れず背中を固い木の板に強打した。
「っ!」
楓の喉奥から声にならない苦悶がこみ上げる。
背中に走る痛みに歯を食いしばって耐える。
直感がすぐさまその場から離れろと急かしたててきた。
反射的にみっともなく床の上をころころと転がって少しでも距離を稼ぐ。
間一髪、先程楓が寝転がっていた所に大上段から木刀が振り下ろされた。
「なぜ、目を閉じたのですか?
あなたは、視界がなくとも相手の位置が分かる武術の達人だとでもいうのですか?
あなたの目が少しばかり痛むのと命ならどちらが大切なのですか?
今あなたは床に寝っ転がって、自分は立ってあなたを見下ろしている。
この意味が分からないほどうすらトンカチではないですよね?
自分はいつでもあなたの命を絶てるんです。
理解してますか?」
頭上から楓は冷たい声で何度も詰められる。
ヒルトルートの緑の瞳と目があった。
無感情で、底なしの沼のような目。
それが静かに楓を突き刺していた。
「未熟、青二才、暗愚、馬鹿。まだまだ、まったく駄目です。
いいですか、手段を選ばないでください。
倫理、道徳、規範、常識、全てを捨てなさい。
殺すか、殺されるか。ヤるか、ヤられるか。その二択だけを考えなさい。
………今日はこの辺りで終わりとしましょう。」
ヒルトルートはへにゃっと相好を崩した。
「ええ、今日もよく頑張りましたね。
自分、あなたがこんなに続けられるなんて思いもしませんでした。
今晩はゆっくりとしていいです、夕ご飯は師匠に任せなさい。」
そうしてヒルトルートが倒れこんだままの楓に手を差し出した。
その手を楓は取らず、自力で起き上がる。
ヒルトルートはただ静かに感心したようにニコニコと笑みを浮かべていた。
◆◆◆
楓がヒルトルートに教えを乞うようになって、今日でちょうど一週間が過ぎる。
その間、楓は夜や登下校の最中に村を見回って異能を監視し、平日の朝や週末はヒルトルートと修練に励む忙しい日々を送っていた。
ヒルトルートは苛烈に、精神を苛むほどの鍛錬を楓に課していた。
道場や庭で木刀を握っている間はもちろんのこと、食事中や入浴中、挙句の果てには睡眠中も少しでも隙を見せた途端木刀の鋭い突きが楓を襲うのだ。
楓は一瞬たりとも気を抜くことはできなかった。
誰だって夜中の二時にいきなり木刀を鳩尾に振り下ろされでもしたら臆病なほどまでに周囲を警戒するようになるだろう。
しかし、ヒルトルートは確実になりふり構わない殺人術を楓に伝授してくれていた。
◆◆◆
グレイスが入院中の今、楓だけで高校三年生の分の園芸委員の仕事をこなさなければならない。
早朝の学校でホース片手に水やりをしていく。
十一月に入ったからか、気温はすでに冬めいて寒い。
さらに、今日は曇天で暖かい日の光もない。
学校指定のたいして暖かくないコートを羽織って時折手にはねる水滴の冷たさに震えながら、楓は花壇を回っていく。
最後の花壇に差し掛かった時のことだった。
急に水が出なくなる。
楓はニ、三回散水ノズルのレバーを引いてみたが、水が出てくる気配はなかった。
そうこうしているうち、またいきなり水が噴き出し始める。
くしくもかつてのグレイスと同じように散水ノズルを自分に向けてしまっていた楓は水道水を頭からかぶる羽目になってしまった。
一人、途方に暮れる。
今日は生憎体育がなくて着替えの用意もない。
「ああ、ごめんなさい。僕がホースを踏んでしまっていたようです、疫病神さん。」
背後から嘲るような声がする。
びしょ濡れになった楓は振り向かずともそこに誰がいるのかがはっきりと分かった。
曇天の大空のようにどんよりとした気持ちの楓は文句を言う元気もなかった。
「ああ、でもズル休みの口実が出来てよかったんじゃないですか?
僕としてもあなたが学校に来ないほうが好ましいですし。」
楓は背後で佇む初月に向き直った。
やけくそ気味に楓はひきつった笑顔で挨拶をする。
「おはようございます、室長。」
初月が眉をひそめて、心底気味悪がるように顔を歪めた。
「やめてください、僕に話しかけないで。不運が移ります。」
そのまま、初月は昇降口へと足早く歩いていく。
その後にはずぶ濡れになって髪の毛から水を滴らせる楓だけが取り残された。
◆◆◆
ずぶ濡れのままホースを庭小屋にしまった後、保健室に向かう。
保健室には着替えが常備されていたはずだ、それを借りよう。
廊下は楓の体から滴る水道水で濡れていって、その度に楓は廊下を掃除してから教室にいこうと決意を固くした。
楓が保健室からジャージを借り廊下を掃除し終えたのは、朝礼の始まる数十分前だった。
今日は早めに家を出たのがせめてもの救いだったな。
楓はそう安心する。
教室の扉を開けると、来ていた生徒はいつものおよそ約三分の一ほどに過ぎなかった。
あの日、異変が村の人々を襲うようになってから犠牲者はうなぎ登りに増えていた。
一部の同級生の家族は親戚筋を頼ってこの村を出ていったなんていう話も時折聞く。
楓は歯を食いしばった。
楓は所詮楓一人でしかない。
毎晩村を巡回しても圧倒的に手が足りず、今まで異変の発生を防止できたことは一度もなかった。
「おや、そのジャージ姿はいったいどうしたんですか?」
歌うような声で楓は話しかけられる。
初月だ。
最近初月の嫌がらせは度を越して酷くなっていっていた。
うんざりとする。
初月は楓を苛立たせる方法を完全に習得していた。
いったいどの面下げてそんなことを聞けるのだろうか?
果たして初月は今朝のことも覚えていられないようなハト頭なのだろうか?
楓は真剣に考慮した。
「ああ、今朝水やりをしている最中に、誰かがホースを踏んでくれたおかげでずぶ濡れになったんですよ。」
皮肉を込めて初月を睨む。
初月はそんな楓の様子を見てくすくすと小ばかにするように笑う。
「へぇ、それは災難でしたね?
そんなことをする輩はさぞかし性根が腐りきっているのでしょう。
本当にそんな人がいればの話ですが。」
机に腰かけ、楓の顔を覗き込む。
「どうせまた自作自演なんじゃないですか? この厄病神。
親も愚かですね、子がこの体たらくではお里も知れたというもの。」
楓の頭の中で何かがプツリと切れた。
スゥーッと頭が急激に透き通っていく。
そのまま楓は初月に会心の笑みを浮かべた。
「室長、授業が始まります。
席に着いた方が宜しいのではないでしょうか?」
楓の態度が急変したことに初月がなぜか動揺を示す。
今まで瞳に映っていた楓を嘲る嫌らしい光はいつの間にか全く種類の異なる強烈な感情で占められていた。
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