第30話
南の出窓に差し込む日差しはカウンターの端っこから店の後ろにかけてレンガ色に染めた。私は息が苦しくなるほど嗚咽がしばらく続き、北条君は背中を優しく恐々と擦ってくれた。ゲンさんが差し出してくれた水を飲んでは、落ち着きを取り戻そうと必死に堪えるが、何度も溢れかえってしまい強く咳き込むと同時に涙が止め処なく流れてくる。
どうしてこんなに泣いているんだっけ?考えると涙が出て、ぼんやりした思考回路を、涙を止めることに集中させると佐藤さんの言葉を思い出す。
こうなると悪循環が出来上がってしまい、私はただ涙を止めたり流したりするためのロボットの様に変貌する。
三杯、いや四杯の水を飲みすとゲンさんはまたピッチャーから水を注いでカウンターに置いた。水を飲むよりも涙で出ていく水分量の方が多い気がしてすぐさまコップを持ち胃に流し込んだ。脳に回る酸素の量を調節するつもりで大きく息を吸って、ゆっくり、ゆっくり吐く。この間嗚咽が出ないように細心の注意を払って息をする。そうすると漸く充電が切れた電子機器のようにすっと体の力が抜けた。
ゲンさんはそんな私を見計らったように立ち上がり、カウンターへと戻る。お鍋に水をいれコンロにかける。青い炎が揺れる音が換気扇の音に交じっていく。湯が踊り、湯気が立ち込め、様々な音が喫茶店に響いた。
(少しずつ音が増えるクラシック音楽あったよね、なんて曲だっけ)
目の周りや鼻がひりひりと痛む。呼吸が治まると共に戻ってくる意識は徐々に現実に引き戻されていく。人の目も気にせず涙と一緒に出た鼻水の残りを啜ると、羞恥も共に帰って来た。
「ごめんなさい、みっともない姿見せて」
「謝ることなんてないよ」
優しい言葉をかけられただけでも、また涙が出そうになった。涙腺はすっかり馬鹿になってしまっている。ゲンさんはマグカップを目の前に置いた。ミルクティーだろうか。マグカップを口元に近づけると、薄い皮膚の傷がジンジンと痛んだ。口を付けると詰まった鼻でもわかるくらい甘さとスパイシーな香りが鼻腔をくすぐった。両手でマグカップを包むとじんわりと体温が戻ってくる。
「一通り泣いてから言うのも忍びないんだけど」
露子さんの声に振り返ると、腕も足も組んで、存在しない背もたれにもたれ掛かるように浮いている。
「あなたが泣くようなことなんて起きてないのよ」
「どうして?事故って言ってたけど私のせいでしょう」
「そもそもそれが間違ってるの」
露子さんは大きく息を吐いた。佐藤さんが言うには道を飛び出した私を助ける為に露子さんが身を挺して庇ったと言う。それが確かなら露子さんの死を招いた原因が私だということになる。幼かったからとはいえ仕方がないでは済まされない。そう思うとまた止まっていた涙が出た。
「あれはあなたのせいじゃないわ」
露子さんは誰とも目をあわすことなく、どこを見ているわけでもない。きっとあの時の情景を思い返しているのだろう。締まりの悪い蛇口のように言葉を区切りながら話した。
「あの日は大雨だったけどもらった傘をどうしても使いたかったの。和傘は親に見つかると捨てられるか壊されてしまから押し入れの奥の方に隠していたわ。親が寝ている隙に取り出して家を出た。時刻は七時半だったと思う。人通りもあって、見慣れない和傘は大層人の目を惹いた。いつもなら恐ろしい視線も顔はすっぽり隠れるし、雨の音で人の声もそれほど耳を触らなかった。プレゼントを貰うなんて、それこそ親からだって殆どされたことがなかったから浮かれていたの。丁度いつも団地の公園にカッパを着たあなたがいて、私に大きく手を振ってきたから私も返した。あなたが信号のない横断歩道を渡って来た時、停車位置があるにも拘わらず大型のトラックがスピードを落とさず向かってきた。私は危ないと声を張り上げることができなかった、でも体は勝手に動いていたの。こういう時って本当にスローモーションみたいになるのよ?意識していたわけじゃないけどきっと覚悟していたのね。無我夢中に走ってあなたを突き飛ばした。鈍い音がしたわ。痛みとか、そういうのはよく覚えてないけど、薄れていく意識の中で考えていたの。「私の傘、どこ?」って。それが生きている間の最期の記憶よ」
「でも私がトラックに気付いていれば、やっぱり露子さんは死んでいなかったんじゃないの?」
「あなたが気付いていたかいなかったかはわからないけど、視界も悪いような大雨の中であなたが声をかけたのは、和傘が目立ったからだと思うの。そうすればその傘を持っていた私や、傘を贈った渡邊君のせいってことも考えられない?」
自分を責めることで誰かが傷つくなんて思ってもいない私は言葉が詰まった。常に私は一人称で動く。自分が楽をするためとか、自分が面倒くさくないようにとか。そして傷つくのも自分だけでいい。だから誰かが困る前に私が謝ればことを大きくしなくていいと思ってる節はあった。だから今も無意識に自分が全て悪いと決めつけてしまっていたのだろう。視野が狭いと思い知らされた。
「大雨がふらなければ、運転手がもっと注意を払っていれば、少しでも私が出かける時間がずれていれば、あなたが寝坊していれば、運転手が違う道を通っていれば…事故が起きないたられば…なんてキリがないわ。それでも起こってしまった。でもそれはあなたのせいじゃない。少なくとも私はそう思ってる」
私のせいじゃない、いつもならそれも私を慰める上っ面の言葉じゃないかと疑ってかかるところだ。泣きじゃくって胸にあったモヤモヤは涙や鼻水と共に出ていった。露子さんの言葉は彼女の光る体のように優しく灯し胸の隙間を埋めた。
「それにね、あなたが記憶をなくしたきっかけはこのことじゃないわ」
露子さんの笑顔は消える。目が据わっていた。
「どうしてわかるの?」
「それは…」
「教えて、私が何を忘れているのか」
「もし本当にあなたがそれを知りたいなら、お母さんに訊きなさい。でも言っておくわ。お母さん、私もだけど、とにかく私たちが恐れているのはその記憶を取り戻すことよ。それでも構わないのね」
怖い。でも涙は出なかった。
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