第14話

「あ、いや……ちょっと存じ上げていたので、もしかしてと思って」


「そうか……。安西さん、よかったな。少しは心配してくれたみたいだ」


 そんな訳ない。ただ、保身のために、策を講じようとしただけ。そうに決まっている。


「ちょっと待ってください、葛木さん。やっぱり、変ですよね。これ、どういう事ですか。僕をだましていませんか」


「どうもこうもねえだろ。他人を騙して生きているのは、おまえの方じゃないのか」


「いったい何の事ですか。どういう事なんです、これは。まさか、仕組んだのですか。だとしたら、葛木さん、それ以上、僕に近づかないでください」


「こうでもしないと、おまえを呼び出せないと思ってな。彼女が自宅マンションの屋上から飛び降りようとしていると言えば、おまえはすっ飛んで来ると思ったんだ。悪かったな、騙して」


「そんな……」


「あなたでしょ。あなたが、美久さんを殺したのよね。私には分かる。あなたはそういう人よ。怖かったのよね。子供ができて。父親になることが怖くなった。だから……」


「き、君もグルなのか。馬鹿を言うな。何を聞いたか知らないが、君は騙されているんだよ。葛木さん、お義父さん、妻の件の捜査は終わっています。ご存じでしょう。まだ僕を疑っているのですか。これは問題ですよ。警察官として。帰ったら報告させてもらいますから。いくら義理の父親でも、これはやり過ぎだ」


義理の父親だ。それに、帰れると思っているのか。行き先が違うだろ」


「もう、すべて分かっているのよ。葛木さんの職歴は知っているでしょ。全てを調べ尽くしているの。何もかも。でも、安心して。あなたの言う通り、美久さんの件の捜査は終了している。一事不再理でこれ以上の捜査はされないわ。葛木さんは単に真実を知りたいだけなの。もし、ここで正直に話してくれたら、私が全力であなたを守るわ。すぐに別の所轄に異動させるし、葛木さんにも近づかせはしない。だから、正直に話して」


 次から次へと口から嘘が出てくる。こんな私にしたのも、あなた。嫌い。


「どこまで、調べているんですか」


「全部だよ、全部。おまえが泣かせてきた女の数から、おまえのくだらねえ性癖まで。全部だ。久しぶりに仕事した気がするよ」


「近寄るな! 葛木さん、僕を殺す気ですか」


「さあ。だが、おまえも知ってのとおり、俺も信用されて監察に上げてもらうまでは、つまり今のおまえくらいの歳の頃までは、公安にいた。その中でも、組織体系図に載っていない部署だ。おまえもサツカンなら、聞いたことあるだろ。そこで色々と叩き込まれた。問題の処理の仕方をな。だから、調べたら、その事情に沿って処分することが身についている。だから、今回もそうするつもりだ」


「く、くそ。寄るな! 近寄るんじゃない! 彩、なんとかしてくれ。あいつは僕を殺すつもりだ!」


「じゃあ、話して。そうしたら、あなたに協力する。二人なら、彼をここから突き落とせるはず。その代わり、私との事も誰にも言わないで!」


「分かった、言わない! 話すよ! 話す! 美久をったのは僕だ。に、妊娠の報告をした彼女を、喜んで抱きかかえるふりして、そのままベランダから放り投げた。混乱してたんだ。君と出会ったばかりの頃だったし、それまでできないって言っていた子供が急にできたって……。だから、混乱して、えっ?」


「ごめんなさい、私も混乱したの」


「……っく、あ……!」


 力のこもった顔。筋を立てた首。必死にバランスを取ろうとする片脚。何かにつかまろうと伸ばした腕。その角度では無理。そのまま落ちればいい。


「よくも!」


 意外だった。私の左手に届くなんて! 痛い! 腕時計に指を掛けている。赤いバンドのペアウォッチ。私の大好きな薔薇と同じ色のバンドに、嫌いな、大嫌いな男の全体重が掛かる。鉄柵と右手を繋いでいる手錠が手首に食い込む。痛い。肩が外れそう。下で大嫌いな男が青いバンドの腕時計をはめた手を振り回している。痛い。体が左右に引き裂かれる! 節くれた手が左手を掴んだ。飛び込んできた葛木さんの手。必死に私の腕時計を外そうとしている。ベルトを引っ張り、遊革、定革の順にベルト通しから先を抜いていく。ベルトを強く引っ張って、爪の先でを抜いてくれた。こちらに青いバンドの手が伸びてくる。それと同時に赤いバンドの腕時計は私の左手から外れた。左腕が軽くなった。嫌いな男の悲鳴は聞こえなかった。少し後に、変な衝突音だけが微かに聞こえた気がする。


「大丈夫か。肩は外れてないか」


「……大丈夫です。葛木さんこそ、血が……」


「ああ。くそ、爪が割れちまった。痛てえな。だから言っただろう、無茶するなって。ああいう男は、最後は女にすがると相場が決まっているんだ。ふえー。しかし、最初に考えていたように俺だったとしても、あんたが望んだとおり、あんただったとしても、奴と一緒に落ちなくて正解だったな。ここから見るかぎり、あれじゃ、一緒に落ちた人間の遺体はどっちがどっちだか分からなくなっちまう。奴と混ざるのは御免だぜ」


「時計が……」


「ちょうどよかったさ。緊急避難の証拠になる。酒に酔って柵の外に出た俺をあんたが助けようとした。一緒に助けようとした栗原はバランスを崩してあんたにすがり、左手にぶら下がった。後は事実のとおりだ。それで、いける。ああ、手錠は外しておけよ」


 ポケットから鍵を取り出す左手は震えていない。さっきまであんなに圧迫されていたのに、痛みもない。手錠の鍵穴にもすんなりと鍵を差し込めるし、解錠もスムーズにできる。左右の手が自由になった。これでいい。これが普通だ。息も普通にできる。白い雲。小さな街並み。景色も奇麗だ。心地よい日光。爽快。両手を広げてみよう。


 風が体の中に入ってくる。


 湧き出るように自然と出る言葉。


「ありがとうございました」


「……なにが」


 面白かった。すごく。今は、そう言いたい。


 風が気持ちいい。

               (了)


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スピーナ (spina) 書き下ろし版 与十川 大 (←改淀川大新←淀川大) @Hiroshi-Yodokawa

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