第10話

 だから、手錠で私を繋いだのか。私の自死を防ぐために。だとすると、やはりこの男は……。鍵を出さないと!


「待て、待て。慌てて取り出そうとすると、落としちまうぞ。左利きじゃないだろ、あんた」


「やはり、あなた……」


「だから、しないって。やめたと言っただろ。そのまま鍵はポケットに仕舞っておけ。それを無くすと、俺の名前が要注視リストに載っちまう。監察のリストに元監察の刑事デカの名前が載ったら、マジで洒落にならん。幹部候補なら、あんたもよく分かるだろ」


 確かに。そんな痴態が記録に残れば、監察部、人事部、警務部のトップが集まって会議となるだろう。泥をかぶるのは誰かと。確実に庁内の人間関係にひびが生じるし、下の大勢が振り回されることになる。どの派閥に付いて生き残るかで。想像しただけで吐き気がする状況だ。でも、それよりも、気がかりなのは……。


「あなた、監察にいたの?」


「ああ。結構、長かった。だから、庁内に友人は少ない。こんな状況でも、呼べるのは、所轄に下って教育係を仰せつかった青二才のガキくらいだ。それにしても、あいつ、遅えなあ」


 警察官の不正を取り締まる部署であり、警察の中の警察とも呼ばれる「監察」。当然、庁内では好かれてはいない。ただ、上から信頼された実績ある警官が選抜されるとも聞いている。そんな部署に所属していたなんて、意外だ。


「監察部にはいつまで」


「四年前までだ。いろいろ考えてな。人事の奴に頼んで、外してもらった。ま、いろいろ話してという事だが」


 おそらく、監察部時代に知り得た何らかの情報ネタを使って、人事部の人間を動かしたのだろう。汚い男だ。


「自宅に近い署がよかったんだがな、ま、そこまで贅沢は言えねえよな。なんとか、今の署に配属してもらった。人事の奴ら、二つ返事だったよ」


「狙い通りに事を進めたのですね。では、ここを選んだのも」


「そうだ。昔のコネを使って、少し調べた。まあ、あんたの名前が出てきた時は正直驚いたが、いや、逆に気の毒に思ったよ。で、悪いが、いろいろと調べさせてもらった」


 虫唾が走る。こんな事、許されない。


「今は花が恋人か。男に捨てられた女に有りがちな話だな。あのベランダの赤い薔薇、あんたによく似合ってるよ」


 ベランダの事まで知っている。書類上の人事情報だけではなく、生活実態まで実調査されていた?


「そういぶかし気な顔をするな。美人が台無しだぞ。監察の人間が公安畑から抜かれてくる事くらい、知っているだろう。調べる時は徹底的に。基本だよ、基本」


「どこまで調べたの」


「全部だ。そう言えば十分だろ。ま、しいて言えば、あんたが育てている薔薇の種類まで調べた。そういったところだ。それにしても、あの薔薇、あんたのイメージにぴったりだな。美しくも妖艶で、可憐でも気高い。で、しっかりととげがある。正に、あんたそのものだ」


「だから私に話を持ち掛けたの?」


「当然だろ。あんたが、もし、ダリアの花なら、持ち掛けなかったさ」


 くやしい。こいつにも好きなようにもてあそばれている。くやしい。


「あんた、こういう言葉を知っているか。Saepeサエペ creatクレアト mollesモッレース asperaアスペラ spinaスピーナ rosasロサース. 『しばしば、とがったとげがやわらかい薔薇を生む』。スピーナ、棘さ。俺は、あんたにそれを感じる。だからあんたのことを誘ったし、期待した。ま、たぶん、そんなところだな」


「何を言っているの」


 こんな時に知識をひけらかしてくる。ラテン語? たしか、詩人の言葉だ。オイディウスとかいった。この程度の話でマウントを取っているつもりだろうか。くだらない。


「だが、意外だった。こっちが言ったとおりの役割を果たしてくれればいいだけなのに、あんたはこの柵を越えてきたばかりか、俺の仕事まで奪おうと言う。俺にめろと言うのではなく、それを自分がすると。どこで習った。やっぱ、あれか、キャリアは、そういった特別な交渉術か何かを教わるのか?」


 馬鹿にされている。手錠をしたから私の目的が達成できないと思っているのだろう。警戒も無くどうでもいい話をして。私の真剣な申し出も、本気と受け止めてはいない。腹が立つ。


「で、考えたんだが、こういうのはどうだ。二人で同時に。これなら、文句はないだろう」


 冗談じゃない。これは私の問題だ。私だけの。


「なぜ、あなたと……」


「ちょっと待ってくれ。着信だ」


 またスマホ。どうして、このタイミングで。


「葛木だ。今どこだ。――ちっ。分かった。ドアは開いている。刺激しないように、慎重に近づいて来い。着いたら指示する」


 随分と険しい顔に変わった。ここからか。絶対に、負けたくない。


「もう、下に着いているそうだ。やっぱり裏道を知ってたか。今、エレベーターで上がってくる。これで、二対一だな」


「あなたの事は信用できません。私一人でやります」


「手錠は着けとけって。後で外せばいいだろうが!」


 大声で威圧された。職業柄、そういった荒さには慣れているが、それでも、一瞬でも、この場面で首をすくめてしまう自分が嫌になる。まだ青い。


「葛木さん、あなたは警察に必要な人材です。私とは違って替えは利かない。だから、無茶はしないで下さい!」


「時間が無いから、言っておく。しっかり聞け!」


「今更、何を……」


「美久は自殺したんじゃない。あれは他殺だ」


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