第8話
「おいおい! さっきから騒がしいぞ!」慌ただしい足音と男性のとがり声が聞こえてくる。この宿の主人だろう。「他の客に迷惑だ、これ以上騒ぐんなら出て……ってドアまでぶっ壊れてるじゃねえか! なにしてやがる!」
「あー、ごめんなさい。一応止めたんだけど、こいつが聞かなくて」
異形頭の隣にいた女性は謝っていたが、笑いまじりの口調は朗らかでとても悪いことをしたと思っているようには聞こえず、主人の癇に障ったらしい。罵倒をまじえながら直せだとか金を払えと訴えている。
「……マスベル」
彼女はアウグストとロメリアの間で身をかがめていた。誰の目も見ないようにまぶたを閉じているため、これではなにも見えない。ふと見ると座っていた椅子の背もたれに布が引っかかっている。ロメリアと力の訓練をする際に外してここに垂らしたようだ。
迂闊に動くと、こちらに杖を向けている男になにをされるか分からない。幸い男は言い争っている女性と主人に気を向けている。隙を見計らって布をさっと手に取り、マスベルに渡してやると、彼女は小声で礼を言いながら受け取り素早く目を覆った。
――あの二人、なんなんだ?
――かっこうから考えてマスベルを追いかけてた奴らじゃなさそうだし……あいつらが雇った刺客とかなのかな。……待てよ。あいつおかしなこと言わなかったか。
部屋の扉を破りながら「幻獣と魔術師と、あとよく分かんねえ奴」と口にしていたはずだ。
マスベルが幻獣なのは見た目からおおかた予想がつくし、情報提供を受けていたならなおさらだ。だが追手はアウグストとロメリアの素性について詳しく把握していたとは思えない。いったいどうやって察したのだ。
――そもそもなんでこの部屋に僕らがいるって分かった?
宿の主人の様子では、彼らは招かれざる客らしい。アウグストたちがどこに居るか尋ねた様子もない。
「なにをこそこそしてんだ?」
どうっと一陣の風がアウグストの真横を通り過ぎた。なにが起こったのだ。風はそのまま宿の壁を破壊し、壁だったはずの木の破片が無数に宙を舞った。主人が声にならない悲鳴を上げている。
異形の男は相変わらず杖をこちらに向けていた。今の風はあそこから発されたものだろうか。
「逃げようなんて考えんなよ。お前らの死に場所はここだ」
「いいから直せって言ってんだよ!」
男が嗤笑するそばで、宿の主人は胴間声をあげて女性に詰め寄っている。でっぷりと出た腹が怒りのあまり揺れているのが見て取れた。
「直せって言われてもね……今すぐは無理よ。だってお金がないから」
「それなら稼いでこればいいだけの話だろ! ああそうだ、俺の知り合いが娼館をやってる。そこへ行け! 姉ちゃんの体なら一晩でがっぽり……――」
主人の文句はそこで途切れた。
女性が剣を抜き、主人の首筋に突きつけたからだ。
「悪いとは思うけど、あたしたち今それどころじゃないの。死にたくなければさっさと逃げなさい」
「ひっ…………!」
先ほどまでの勢いをすっかり失くし、主人はどたどたと今にも転びそうになりながら走り去っていった。女性はその背中に「お客さんの避難も忘れずにねー」と呼びかけていたが、聞いていたか怪しい。
「じゃ、余計な奴もいなくなったし本題に入りましょうか」
にっこりと極上の笑みを唇に刷いて、女性は部屋に入ってきた。手にした剣はゆるゆると波うっている。アウグストが見たことのない形状をしていた。
「あなたたちのこと、この場で狩らせてもらうわね」
「狩るって言ったってねえ……それはつまり、私たちを殺すってことか」
ロメリアが一歩前に進み出て女に問いかける。目の前に彼女の背中が来たことによって、庇われているのだと知った。
「話が早いじゃねえか、よく分かんねえ奴」
「その『よく分かんねえ奴』ってなんだい? 失礼じゃないか」
「なんでもいいでしょ、呼び方なんて。それともいちいち気にする
「どうせなら可愛く呼ばれたいだろう。ね?」
「!」
ロメリアが可愛らしく同意を求めた瞬間、女性の顔がこわばった。ぶるぶると体が震え、言葉を交わしていた時の姿勢のまま微動だにしなくなる。
「行くよ、二人とも!」
「えっ」
なにをしたんだと問われるより早く、身をひるがえしたロメリアがアウグストの襟を引っつかむ。そのまま大穴を開けた壁に向かって走り出し、マスベルもアウグストの腕をつかんでそれに続いた。
まさか、と思っていたが、そのまさかだった。
ロメリアは壁の穴から外に飛び降りたのだ。
真下に茂みなんて都合のいいものがあるはずがない。ロメリアは土の地面に軽やかに着地し、アウグストは飛び降りる寸前でマスベルに抱き寄せられた――いわゆるお姫さま抱っこをされた――ため怪我をせずにすんだが、裸足だったマスベルは無傷というわけにもいかなかった。びりびりとした衝撃が足元から突き抜けたようで、「むぎゃっ」と喉がつぶれた蛙のごとくうめいていた。
「逃がすか!」
男の声が頭上から降ってくる。ロメリアが素早く振り仰いで彼を見ると、男は穴から飛び降りようとしていたかっこうのまま動かなくなる。
「今のうちだ、ほら早く!」
周囲には宿から逃げた客たちや、騒ぎを聞きつけて集まってきた人々たちがあふれている。アウグストはマスベルに半ば引きずられるようにして、人垣の中を突っ切っていくロメリアを追いかけた。
「あ、あんたさっきなにしたの!」
「忘れたのか、私はマスベルと契約した幻操師なんだよ。坊やには効かなかったからちょっと自信失くしていたけど、あいつらには効いたみたいで安心したよ!」
一瞬だけ振り返ったロメリアの瞳は、本来の瑠璃色ではなく金色の光を帯びていた。どうやらただ色が変わるだけでなく、瞳自体も発光するらしい。あたりが暗いためその変化がよく分かった。
感心している場合ではない。ロメリアの力のおかげで二人組はまだ追いかけてこないが、いつ体のこわばりが解けるか、それはロメリアにも分からないという。出来るだけ遠くに逃げなければ。
「躊躇なく宿をぶっ壊したんだ。街中でもお構いなしにやってくるだろうね。無関係な人たちを巻き込むわけにいかないし、近くに林があったから、ひとまずそこに逃げこもう」
「あいつらはなんなのさ、マスベルを追いかけてた〝家族〟の誰かなわけ?」
「ううん、違うと思う! あんな人たち見かけたことないよ!」
「じゃあやっぱり刺客とかなのかな」
「いや、多分あの子たちは〈機関〉だと思うよ。服にアザミの模様があったし、マスベルを……幻獣を狩るとか言ってただろう。そこから考えると私の予想は間違っていないと思うね」
「〈機関〉って……あれか、〈幻獣覆滅機関〉のこと言ってる?」
「知ってたのかい」
「聞いたことはあったけど実際に見たのはこれが初めてだよ!」
二百年前に作られた幻獣たちは徐々に数を減らしている。半永久的に動き続ける幻獣が死ぬのは〈核〉を破壊あるいは摘出されるからだが、主にそれをして回っているのが、世にはびこる幻獣すべての破壊を目的とする〈機関〉と呼ばれる組織だ。
アウグストも人づてに聞いたことしかないため、詳しい実態は分からない。だが彼らの中には幻獣だけでなく魔術師や幻操師を標的にする者もいて、万が一遭遇したら逃げるか応戦するか、もしくは大人しく殺されるかしかない、と母は語っていた。
「どこからかマスベルの情報を聞きつけてやってきたんだろう。私が人攫いの情報を探っているように、あの子たちも同じようにマスベルの目撃情報を頼りにあそこを探り当てたかな」
「で、でもじゃあ、なんで僕やあんたのことも言い当てたんだ! マスベルはともかく僕らはひと目で魔術師かどうかなんて分からないだろ!」
「私たちの部屋に来る前に、もしかすると先に坊やの部屋に入っていたのかもね。で、坊やのカバンにはゼクスト家の紋章があるし、それを見た可能性はある」
「あ、なるほど……って、あー!」
突然の襲撃に動転してすっかり頭から抜け落ちていたが、三人とも荷物をそっくりそのまま宿に放置しているではないか。外に出ることもないだろうと思って外套も脱いでしまったし、せっかく採取した薬草を詰めこんだカバンもベッドの上に置きっぱなしだ。
「取りに戻るとか……無理だよなあ、知ってた!」
「あの様子じゃこっちの話なんて聞くつもり無さそうだし、戻るのは自殺行為でしかない」
「ねえねえ、あたしだったらあの人たち、なんとか出来ると思うよ」
「……それは、そうだろうけど」
ロメリアの力が効いたということは、当然マスベルの力もあの二人に使えるだろう。
だが。
「マスベルは力を使っちゃだめだ。絶対に。なにがあっても」
アウグストはロメリアの手を握りしめた。
「僕を殺したかもって思ったとき、お前何回も謝ってただろ。ごめんなさいって。だから、だめだ。人を殺した罪悪感に苦しめられるマスベルを見たくない」
「……アーグスト……でも大丈夫だよ。うん、あたし頑張るし」
「なにが大丈夫だよ。今にも泣きそうなくせに」
「待てコラァ!」
背後から蛮声が迫ってくる。魔眼の効果が解けて〈機関〉の二人が追いかけてきたようだ。宿からはなれたとはいえ、アウグストたちがいるのはまだ周囲に民家もあるような場所だ。だがロメリアの予想通り彼らはお構いなしらしい。嵐の際に感じるような突風が三人のそばを通り抜けていった。風は家畜小屋の屋根を吹き飛ばし、ついでに巻き上げられた哀れな豚たちも宙を舞ってから地面に叩きつけられている。
「精度がいまいちなのか、それとも威嚇目的であえて私たちからわざを逸らしてるのか分からないな」
「どっちにしても脅威だよ! あんなの食らったら今の豚たちよりひどい目にあうに決まってる!」
「それは確実そうだねえ」
走りすぎてすでにアウグストは息が上がっているのだが、幻獣であるマスベルと、その血を取りこんでいるロメリアはまだ余裕がありそうだ。遅れて足手まといになるわけにはいかない。アウグストは地面をける足に力をこめた。
目指していた林は目前だ。けれど気は抜けない。薄暗くて茂っているため身を隠しやすそうではあるが、相手の姿も見つけにくくなりそうだ。
風は次々にくり出されるが、どれもアウグストたちを逸れて別の場所に被害をもたらしている。
「なにやってんのよ!」と呆れた様子で女性が叫ぶのが聞こえた。「むやみやたらに術を出すなんてエランらしくないじゃない!」
「違ぇよ! 俺はさっきからちゃんとあいつらを狙ってる。なのに全部はずれんだよ!」
「なに?」
男の言葉にまず足を止めたのはロメリアだ。林はすぐそこなのに、どうして急に。
彼女が止まるのならそれに従うマスベルも当然立ち止まるし、彼女に引っ張られていたアウグストも同様だ。はあはあと荒い息をつきながら振り返ると、〈機関〉の二人組は顔が視認できる程度の距離にまで近づいていた。
「観念したか。ちょこまかと逃げやがって」
ただでさえ屈強なのに、男の背はアウグストよりはるかに高い。威圧感が尋常ではなかった。女性の方は男と違った意味で目をひくかっこうだ。なにせ胸の半分以上が露出したきわどい衣装である。どことなく妖艶なのに、手にした剣はこの上なく物騒だ。
男はすん、と鼻を鳴らしている。においを嗅いでいるようだ。やがて「やっぱりな」と杖で勇ましく地面を叩いた。
「そこの角女が幻獣で、チビが魔術師か。ババアはさっきので分かったぞ。お前は幻操師だな。どいつもこいつも『悪意の香り』がしてやがる」
「『悪意の香り』……?」
聞いたことのない言葉だ。アウグストが首を傾げる前でロメリアが口を開く。
「初対面の相手に対してババア呼ばわりとは、どういう教育を受けてきたんだろうね」
「あぁ? そんなのてめえに関係ねえだろ」
「言葉遣いには気をつけな。また固められたくはないだろう?」
「悪いけど二度と同じ手は食らわないわ。あんたの目さえ見なければいいみたいだし」
どうだろうね、とはぐらかすこともなく、ロメリアは腕を組んで笑っている。
「で、立ち止まったってことは大人しく狩られる覚悟が出来たんだろうな」
「残念だけどそれはまだでね。ただ殺されたくもないし、覚悟が出来るまでの間に少しお話しするっていうのはどうだい?」
「はあ?」
女性が訝し気に眉をはね上げる。アウグストが彼女と同じ立場でも恐らく似たような反応を示していた気がした。ロメリアの余裕がどこから来るのかまったく分からない。
「あんたたちはマスベルを追って来たんだろう? 幻獣がいるってたれこみでもあったのかい」
「どうしてあんたに言わなきゃいけないわけ? 関係ないでしょ」
――正解なんだな。
違うのなら違うと言えばいいのに、わざわざ反抗したということはロメリアの言葉はおおむね合っていたのだろう。だが女性は自分の台詞がなにを意味したのか理解できていないのか、ふふん、と誇らしげに胸を張っている。
「問題はたれこんだのが誰かってことだけど、それはまあ良しとしよう。じゃあ次の話だ。そっちの犬頭」
「あ?」
「素直な返事でよろしい。ちょっとお願いなんだけど」
言いながら、ロメリアはアウグストの腕を引っ張る。
「え?」なぜか彼女は盾にするようにアウグストを己の前に立たせた。「え、ちょっと、なに?」
「試しにさっきの風、この子にぶつけてみてもらえないかな?」
「は?」とアウグストと男のとぼけた声が重なった。
提案したロメリアはにこにこと真意を計り知れない笑みを浮かべている。
「ほら、さっきまでことごとく外していただろう? こうして止まっていたらいくらでも当たるはずだ。違うかい?」
「ちょ……あんたさっきからなに言ってんだ! 僕がどんな目に遭うか……! っていうか僕の意思は! 無視かよ!」
「――面白ぇじゃねえか。なあ?」
挑発されたと感じたのだろう。男の耳がぴくぴくといら立たし気に何度も揺れている。
「お望みどおりお見舞いしてやるよ!」
男は杖を高く掲げて、勢い任せに振り下ろす。次の瞬間、轟音とともに風の渦が現れた。空まで伸びたそれは雲を巻き込み、雷までまとっている。男がさらに杖を振るうと、竜巻と化した風はアウグストめがけて一直線に迫ってきた。
あんなものを食らえばアウグストどころかロメリアたちまで舞い上げられるに決まっている。先ほどの豚と同じ、あるいはそれよりもひどい末路を辿る予感しかしなかった。逃げようにもロメリアの手が両肩に置かれ、退避など出来そうにない。
「っ…………!」
アウグストはとっさに両腕を顔の前に掲げ、やってくる衝撃に耐えようとした。
しかしどれだけ待っても体が浮かび上がることはない。恐る恐る顔を上げると、目の前にあったはずの竜巻はどこかに消えている。かと思うと後方からばきばきと耳障りな音がした。はっとして振り返ると、竜巻は林の木々をなぎ倒しながら進んでいる。しばらくすると幻のようにふっと消え、あとには確かに風の渦があったのだという悲惨な状況だけが残された。
――竜巻が僕らをそれていった、のか?
アウグストと同様にマスベルはきょとんとしている。男たちの方を見ると、彼は愕然と口を開けて固まり、女性も剣を取り落として呆然としていた。その中でロメリアただ一人だけが心得顔を浮かべていた。
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