第44話 記憶

 ミックたちの目の前に姿を現したのは……巨大な蟹だ。荷馬車二台分はありそうだ。ギチギチと口を動かす度に泡が漏れ出る。泥の匂いが漂う。


ドシンという大きな音は、蟹がハサミで木を殴り倒していた音だった。進行方向にある邪魔な木を倒しながら走ってきたのだ。


「ちっ……ガラだ」


ラズの言葉ではっとし、ミックは蟹の足元を確認した。確かに影がない。ラズはよろよろと立ち上がった。背中から血が滴る。


「ダメだ、ラズ、逃げよう!今のラズは無理しちゃいけない」


剣を構えたが、ラズの足元は覚束ない。力が入らないのだ。ミックの弓矢は、弦が切れてしまい使えないし、予備の弦を張る暇はなさそうだ。応戦するよりは逃げたほうがいい。南中ももうすぐだ。


「スピアの反応からして……こいつは恐らく……スピードも……相当のものだ……。貴様は先に……行け……」


ラズは息も切れ切れで、喋るのもしんどそうだ。意識があるのがおかしいほどの傷、立っているのも奇跡だ。置いて先に一人で逃げられるわけがない。担ごうとするミックの手をラズは払いのけた。


「っ……とにかくダメだ!一緒に逃げよう!」


ミックの必死な訴えを無視してラズが蟹に斬りかかった。スピードはいつもの半分もない。蟹はラズの剣撃を物ともせず、巨大なハサミでラズを殴り飛ばした。


ラズの体は吹っ飛び、数メートル離れた木の幹にぶつかり、ずるずると地面へと落ちていった。木の幹にはラズがぶつかったところから落下したところまで、真っ直ぐ血の跡がついた。木の幹に背をもたれかけ座るような格好になっているが、頭はだらりと下がり動かない。剣は手から離れ、ミックの近くの地面に突き刺さった。


蟹はふっ飛ばしたラズに近づいていく。心臓を食べる気だ。ミックは矢を思い切り投げたが、当然のことながら硬い殻に弾かれてしまった。


「逃げてぇ!」


ラズはもう意識がない。ミックの叫び声は届かない。ミックは自分のすぐ近くに刺さっているラズの剣を握り引き抜いた。これしかない。しかし、手が震える。


何震えてるんだ!


必死に自らを鼓舞するも体は言うことを聞かない。


ラズを助けないと!!


仲間を助ける手段があるのに使えないなんて、そんな馬鹿げた話はない。


「貴様が剣を使えたら……ジークは喜ぶだろうな」


ラズの言葉が頭の中に響く。


助けるんだ、戦え!!!


ミックはぎゅっと柄を握り、ラズにハサミを近づける蟹に夢中で斬りかかった。甲冑を着た相手には、普通に斬りつけても効かない。父の言葉を思い出した。


『いいか?継ぎ目を狙うんだ』


父に教わった通りに蟹の殻の継ぎ目を狙って攻撃を繰り出した。


ラズに近付いていた左側のハサミと足を全て切り落とした。蟹の体が傾いた。驚きからか苦しみからか、蟹はキシャーと奇声を発した。バランスを崩しつつも、ミックの方へ向きを変えた。都合がいい。背中側では刃が入らない。細かい溝がある腹側からなら、正確な位置はわからないがどうにか心臓を斬ることができる。


左側のハサミと脚が復活する前にけりをつけようとミックは構えたが、蟹の方が速かった。残った右側のハサミで殴りかかってきた。先程のラズへの攻撃を見ていたので警戒はしていたが、スピードが上がっていた。さっきは全力ではなかったようだ。


咄嗟に剣を使ってガードをしたが、ミックは勢いよく吹っ飛ばされた。ザザーと地面に体を擦りながらも勢いがなかなか削がれず、結局木の幹にぶつかって止まった。受け身を取ったが、背中をひどく打ち一時息が止まった。


「がはっ……!」


気が遠くなりそうだ。どこを動かしても痛い。視界がぼやける。しかしここで反撃しなくては、二人共心臓を食べられてしまう。


こんなところでやられてたまるか。左側のハサミと脚が少しずつ再生されてきている。


次で決める。体の痛みなど、今はどうでもいい。


「はあああああああ!!!」


ミックは全速力で蟹に近付き、再度殴りつけてきた右のハサミを跳躍して避け、剣撃を放った。


「舞鶴!」


『技名はな、叫ぶと技の威力が上がるんだ。この技出すぞって自分の心と体が覚悟を決めるんだよ』


父の教え通り思い切り叫び、渾身の力で斬りつけた。刃は蟹の腹の溝や口を切り裂いた。蟹はハサミでミックを退けようとしたが、回転の勢いでハサミは弾き飛ばされた。


ミックが地面に着地すると、巨大な蟹は仰向けにひっくり返った。しばらく脚やハサミをごそごそと動かしていたが、そのうちハサミの先から黒い塵となり風に飛ばされていった。徐々に体の中心に崩壊が進んでいき、最後には大きな甲羅も残さず消えてしまった。


蟹を挟んで反対側にいたラズが見えた。先程と姿勢は変わらずぐったりとしている。まだ、意識はないのだろうか。急いでウィンストールに向かわなくては……ラズに近寄ろうとしたが、一歩踏み出した足に力が入らず、ミックはそのまま片膝をついてしまった。


ラズの剣を杖のようにして立ち上がろうとするが、体が鉛のように重く、全身が激しく痛み上手くいかない。


「あれ……?」


ミックは似たようなことが前にもあったような気がした。ズキン、と頭が痛んだ。怪我のせいではない。内側から金槌で殴られたかのように痛む。


「父さん……」


そうだ、父親だ。今思い出した。あの事件の日ミックと向かい合って木の幹に背を預けて座るような姿勢で父親は事切れていた。……向かい合う?


「え……待って……」


ガラからミックを守って亡くなったのなら、なぜミックは父親の背中側にいないのだ。向かい合って剣を構えていたなんて、まるで…頭が痛む。これ以上考えるな、と体が叫んでいる。


心臓がドクン、と大きく脈打つ。


「いやだ……」


ミックの意思とは裏腹に、当時の感覚が蘇る。


頭の痛みが酷い。割れそうだ。


狂ったように鼓動が激しい。


呼吸も上手くできない。いくら吸っても息が苦しいままだ。


ミックは迫り来る記憶を遮断しようと強く目を瞑った。しかし無意味だった。涙が溢れ出る。酷く寒く体の震えが止まらない。あのときの光景が押し寄せる。


「やめて……っ!」


全て思い出した。


あの日、父親を殺したのは、どこからか侵入したガラではない。


殺したのは、父親が当時唯一剣を振るうことができなかった剣の使い手。


そう、その相手は実の娘……


「……私だ」


ミックは涙を流したまま気を失った。

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