再び、2022年のエルゴ・ニュース社

「お、もうこんな時間だったか。君、今日は定時で上がりなさい」

「ええ~? 折角いい感じになってきたんですから、少し残らせてくださいよ~副編集長~」

 入社初日だというのに、新入社員の彼女はやる気満々だった。最近の若者は、たとえ自分の不手際で仕事が終わっていなくても定時で帰る――そんな話を聞いたことがあったが、どうやら個人差があるらしい。

 尤も、彼女は大手出版社からの転職組だ。前職では、残業徹夜当たり前の職場環境だったのかもしれない。

「明日からは嫌だと言ってもバリバリ働いてもらうからさ。今日のところは」

「ええ~? それはそれでパワハラなんじゃないですか? まあ、お仕事楽しいからやりますけど」

 今日一日、ほぼつきっきりで指導してきたからか、新人の口調はだいぶフランクなものになりつつあった。親子ほど年の離れた相手に砕けた会話をされるのも悪くない――ただし、相手は女子に限るが。副編集長は内心で、そんな益体もないことを思った。

「ま、実を言えばね。今日は私も定時上がりなんだよ。だから、君に残業されると困るという訳だ、ふっふっふっ」

「あ、それって公私混同じゃないんですか~? まあ、いいですけど。……もしかして、奥様とデートですか?」

「あはは、残念ながら私は独身なんでね」

 出来るだけ明るく言ったつもりだったが、副編集長は新人の顔が一瞬だけ「うわぁ、この歳で独身とかないわ~」といった感じに歪みそうになったのを見逃さなかった。仕事は出来そうだが、ポーカーフェイスはまだまだ使いこなせないらしい。

 本人は取材などもやりたがっているようだが、この調子ではとても人前には出せない。じっくりと時間をかけて指導し、成長してもらうしかない。

「……あ、じゃあ彼女さんとかですか?」

「あはは、残念ながらそれも不正解。今晩はね、とても大切な友人の娘さんの快気祝いなんだ」

「快気祝い……入院でもしてたんですか?」

「うん、長いこと療養生活をね。大学生だったんだけど、そのせいで卒業までに何年もかかってしまって……と、おしゃべりしてる間に、もう定時だよ。ささ、帰り支度帰り支度」

 「この機会に上司の弱みの一つでも握っておこう」とでも考えたのか、新人はもう少し話したがったが、副編集長は心を鬼にして会話を打ち切った。

 ――新人を見送ってからオフィスの外へ出る。エルゴ・ニュース社の入居ビルは、以前と変わっていない。相変わらずガチガチのセキュリティで、初めて来社した人間には大層驚かれる。が、世間では編集長の危惧していたガソリン放火事件などが頻発しているので、決して無駄とは思われていない。

 「物騒な世の中になったな」と思う反面、「自分が若かった頃もあまり変わらなかったか」とも思う。世界は全く平和にはなっていなかった。

 新型ウイルスにより世界中で夥しい数の人々が苦しみ、死んでいった。

 大国が国際秩序を破り、侵略戦争を始めた。

 きっとこれからも、辛い出来事や嫌な出来事は起こるだろう。

 特殊詐欺の被害やカルト教団による霊感商法、マルチ商法の被害も減ってはいない。しかし、世間の関心は明らかに低くなっている。警察も後手後手だ。

 「氷の華」の首魁たるあの男は、未だに捕まっていない。もしかすると、世間を騒がしている事件の幾つかは、彼が起こしたものかもしれない。

 当時は不可解だったあの男の行動の理由も、今なら分かる。あの時には既に、「氷の華」は組織としての寿命を迎えようとしていたのだ。

 「氷の華」の「トカゲのしっぽ切り」に特化した組織構造は、確かに秀逸だった。だが、組織が大きくなり関わる人間が増えれば増えるほど――あるいは、起こした事件の数が多くなるほど、どうしてもある程度の情報は漏れていくものだ。

 事実、あの時より更に数年前には「氷の華」という組織名が警察やマスコミの知るところとなっていた。「田崎太郎」という名前こそ知られていなかったが、中心人物となる何者かがいることも。

 遠からず、「氷の華」に司直の手が伸びるであろうことを、あの男は予見していたのだ。

 だから、壊した。組織全体が失われる前に、無事な部分以外をパージして身軽になり、再び地下深くへと潜る為に。「氷の華」の崩壊は、計画されたものだったのだ。

 回収された「氷の華」の資産は、想定していた額よりも、随分と少ないものだった。あの男が、何らかの形で持ち去り新たな組織の礎としていることは、まず間違いないだろう。

 誰かがあの男を止めなければ、同じようなことがまた続くのだ。

 故に、副編集長は――木下は、あの男を追う為に今でも地道な取材を続けていた。編集長の堤下とその仲間達がそうしていたように。

 思えば、四年前の木下は当事者のつもりでいるだけの傍観者だった。

 一連の事件には、あの男の思惑で巻き込まれただけだった。

 取材内容は借りものだった。

 あの男と堂々と対峙したのは、木下ではなく「彼女」だった。

 結局、木下自身で事件に積極的に関わろうとしたことはなかったのだ。精々がイタズラレベルの「作戦」を実行しただけで、それだって悲惨な結果をもたらしただけに終わった。

 だが、今は違う。今の木下は常に当事者であろうとしている。全てを薄い氷のヴェールの向こう側で起こっていることのように感じていた、あの日までの自分と決別する為に。

 副編集長という責任のある立場になったものの、木下が外へ取材に出かける時間は昔よりも遥かに増えていた。

 今週も、マルチ商法や霊感商法の被害者団体への取材が入っている。支援団体の会合にも足繁く通い、大手メディアが黙殺する彼らの切なる声も度々に渡って取り上げるようにしている。

 ――そのせいで、一部団体からは目を付けられているようだが、望むところだった。

 もちろん、そういった地道な活動の中では「特ダネ」と呼べるような情報がホイホイ舞い込んでくるようなことはない。似たような、しかし異なる様々な人生にまつわるエピソードを収集する日々だ。

 だが、編集長に言わせれば「取材」等というものは、本来そのように地味で地道なものなのだという。取材で得た殆どの情報は、記事にもならない。

 けれども、そういった情報を積み重ねることこそが大事なのだという。いざ特ダネを得た時の「土台」となるのだと。

 事実は一つしかない。だが、人間の認識というものは事実のほんの一部しか捉えられない。同じ事実を目にしても、主観によって認識にズレが出てしまうことは、多々ある。

 客観的に物事を見ているつもりでも、結局はその人自身の主観に引きずられがちなのだ。昨今の新型ウイルス騒動でも、今まで識者と呼ばれていた人々の一部が、データや科学に反した主張をしている姿を見かけることがある。たとえ優れた人物であっても、持論を信じるあまり都合の良いデータにしか目が向かず、結果として明後日の方向へ突き進んでしまうことがあるのだ。

 つまりは確証バイアスなのだが、多くの人は自分がそれに囚われているとは思わない。かつての木下もそうだった。

 四年前の、警官隊の突入を思い出す。

 あの時は、ただ単に「彼女」が手引きしたものだと思い込んでいたが、実際には違った。警察は地道な捜査を続け様々な裏付けを得て、いつでも打って出られる準備を進めていたからこそ、警官隊を動員出来たのだ。「彼女」の行動は、ただのきっかけに過ぎなかった。

 自ら命を断った「彼ら」についてもそうだ。

 四年前の木下は、他人から与えられた「答え」に納得し、受け入れていた。だが、彼らが命を断った本当の理由は、本人達にしか分からない。

 それでも、彼らの痕跡を数多く収集し分析することで、その心理に迫ることは出来る。状況証拠を集めることも出来る。

 今の木下ならば、また違った理由を見付け出すことも出来るかもしれない。それで彼らが生き返る訳ではないが、彼らのような犠牲者を減らすことは出来るかもしれないのだ。

 無駄なことなど一つもない。木下の地道な取材も、いつかは「あの男」へと繋がるはず。そう信じているからこそ、続けられるのだ。

(いつか……いつの日か、尻尾を掴んでやるからな。首を洗って待っていろ!)

 木下は、星の見えない都会の夜空を見上げながら決意を新たにすると、雑踏の中を静かに歩き出した。

 頼りになる友人と、傷を抱えながらも立ち上がったその娘との憩いの一時に向かう為に。


(了)


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