「あんっ……やだっっっ……」

0時を回った時間に隣から漏れ聞こえて来た声に、私は耳をそばだてる。

これは、あえぎ声というやつだろうか。

裏声かなって思うくらい高くて、どこか湿を帯びた声は、途切れ途切れに聞こえてくる。

「ああっっ……んっっ……」

私は生まれてこの方、誰ともお付き合いしたことはなく、体を触れあわせた経験もない。

でも、さすがにセックスがどういうことをするのかくらいの知識はある。

とはいえ、漏れ聞こえた声の生々しさに体が硬直する。

都会ってすごい。

就職を機に私、都築（つづき）紗来（さら）は一人暮らしを始めた。

一人暮らしということは門限もないし、親に一々報告義務もない。

とはいえ、のんびり屋の性格が急にアクティブになれるかと言えばそうではなく、職場と家の往復の日々が続いていた。

そんな私とは裏腹に、隣人はプライベートを満喫しているようだった。

なかなかその声は止まなくて、イヤホンをつけて布団を頭から被る。

何時間ぐらいで終わるものなのかを調べてみて、余計な情報まで目に入ってしまったので途中で調べることを放棄する。

私の年齢であれば、結婚して子供がいる人もいる。ということは、一人暮らしをしている社会人が恋人を招いてコトに及んでいても、誰にも責める権利はない。

でも、やっぱり私には刺激が強すぎる。

その艶めかしい声はその日以降、時々聞こえてるようになり、徐々にパターンも分かってくる。大抵は休みの日の夜遅くで、それを避けるように私はインターネットの動画を流しっぱなしにするようになった。

そういうことに興味がないわけじゃないけど、他人のあえぎ声を聞きながら自分を慰めるなんてことはしたくなかった。

私は地元から通える距離にあった大学を卒業後、IT系の会社に就職した。

IT業界を選んだのは、社交的じゃない性格でも許されそうな気がしたことと、手に職をつけられそうな職種に思えたからだった。

1年目、社会人としても1年目になる年はプログラムを書くのも初めて、長い時間働くのも初めて、一人暮らしも初めて、人の多い街も初めて、と初めてづくしだった。必死で1日1日を過ごしている内に2年目に突入していた感がある。

2年目になると少しずつ仕事にも慣れて、社会人ってこんなものなのだと感覚が掴めてくる。

3年目には仕事も一人暮らしも日常になって、無意識の内に体が動くようになった。

「こんにちは」

土曜日の午後、買い物から帰って来た私は、マンションの廊下で一人の女性とすれ違う。

最奥の私の部屋の一つ手前の部屋から出てきた女性は、見過ごすにしては美人過ぎた。ファッションもメイクも完璧で、大人の洗練された雰囲気がある。なんとなく、名の通ったメーカ系の会社に勤めている人かなと勝手に想像する。

私は自分のファッションセンスには自信がないので、ファストファッション系の店で、その場その場でなんとなく服を選ぶことがほとんどで、年齢はそれ程変わりがなさそうなのに差が激しい。

「こんにちは」

すれ違いざまマナーとして挨拶を交わしてから、廊下を一番端まで歩いて部屋に戻る。

就職と同時に、私は会社が寮扱いにしてくれるこのマンションに引っ越しをしてきた。その時に1ルームマンションということもあってか、周辺の部屋への挨拶も結局やらず終いだった。

私の部屋は5階の角で、隣り合っているのは一部屋だけ。住み始めてから住人が変わっていなければ、先ほどすれ違ったのは以前聞いたあの声の主になる。

あれほどの美人なんだから、恋人はいて当然なのかもしれないけど、今更ながらに以前聞いた声が蘇って来て、肩を竦めながら首を振った。

正直に言って、リア充とは遠い世界に私は生きている。

私は好きなものができても、のめり込むほど夢中にはなれなくて、その内に冷めてしまう質だった。

だからなのか、なんとなく好きかもっと思った人はいても、いつも見ているだけでその内に告白することもなく諦めてしまう。

社会人になれば、恋をして、結婚をして、子供を産んでという決まり切ったルートさえ、私にはまだ実感のない遠いものでしかなかった。

同じマンションに住んでいても人生を謳歌できる存在とできない存在はいるんだな、なんて自虐的なことを思いながら、狭い1ルームの玄関でため息を吐いた。

私は自分の今の生活を辛いと思ったことも淋しいと思ったこともないけど、同じように義務教育を受けて大人になるのに、人って何でこんなに違うんだろう。

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2025/3/16　少し文章を手直ししました。話の内容は変わっていません。