第8話 柳沢倫太郎 ~少年時代 -2
その男との出会いは、ある日の図書館からの帰りであった。いつものように大量の本をかかえて書籍の貸し出しカウンターへと向かっていたときである。自分の顔の辺りまで堆く積んで運んでいたため、前が良く見えない。彼が少しふらつきながらゆっくりと歩を進めていると、
「また今日も大量に借りていくんだね……手伝うよ」
といって、本を上から何冊か取り、一緒にカウンターまで運んでくれた。
その日の帰りにカフェに寄り、ジュースを奢ってもらった。
鼻の下、顎からもみあげへと続く少し白いものが混じった髭や、口元、目元に深く刻まれた皺から、六十歳を越えているようにも見えたけれど、身なりを整えると、もしかするともっと若く見えるのかもしれない。いずれにしても、最後までこの男の年齢は謎のままだった。
男は、倫太郎に対して、遠い異国に赴いた経験や世界観が変わってしまうほどの恋愛、都市伝説にまつわる不思議な体験など、語って聞かせてくれた。
それは、今まで周りの大人たちの口からは決して出てこないような、魅力的な世界で倫太郎は時間を忘れて聞きほれていた。
「僕の話も、聞いてくれますか?」
図書館で何度か男と会ったあと、ついに倫太郎はこう切り出して、今自分が何をしようとしているか、それを男に話した。
賭けだった。もし男が倫太郎の思っているような人間ではなく、両親や担任の教師と同様の人種であったとすれば、どう思われるかは分からない。それでも倫太郎は男に話す決心をした。
今の状況を打開するためにはただ図書館の本を読むだけでは足りないと感じ始めていた頃であり、彼にとってはそれこそ神の導きで男が現れたような気がしたのだ。
倫太郎の話をしばらく黙って聞いていた男は、ちらちらと周囲を気にするような仕草をしたあと、顔を寄せてくる。
「一つだけ、思い当たることがある」
「本当ですか! それは――」
と彼は思わず上ずった声を発したけれど、すぐに口に手を当てて制する男の表情に気付き声のトーンを下げた。
「ただちょっと聞いただけの話だから、ほんとか嘘かは分からんがね」
「それでもいいのです。少しでも関わりがありそうなら、聞かせてください。お願いします」
「そうか……」
しばらく言おうか言うまいか迷うように視線をうろつかせたあと、ゆっくりと語り始める。
仕事の関係で中国の上海に滞在していたときに聞いた話だということで、現地のアンダーグラウンドでは「長江」は龍が流した涙だという伝説があるとのことだった。そして、その『龍の涙』を受け止めるのは「長江」の最下流に当たる上海、もしくはその『涙』が流れ込む東シナ海にある『何か』なのだろう、というのが男の推測だった。
話の信憑性があるのかどうかという問題もさることながら、『花弁』については一切情報がない。もし男の聞いた話が本当であったとしても、『龍の涙を受け止める花弁』とはまた全く別のものである可能性もある。むしろ、どう楽観的に捉えてもそちらの可能性の方が大きい。
「可能性を言うなら、このまま高校へ進学して大学へ進学して、大人になってしまったら、僕にはもう何も降りてこなくなる。そしたら、ゼロだ」
高校受験の当日の朝、何食わぬ顔で朝食を済ませ家を出た。見送る両親の思いに反して、彼はその日、受験会場へは向かわず、あの男に会うために飛行場へと向かっていたのである。
「本当にいいのだね?」
約束のゲート前にたどりつくとすでにその男は待っていて、彼にこう言った。
「ええ、もう僕には時間がないのです。急がなければ『龍の涙を受け止める花弁』を探すことが出来なくなります。声が、聞こえなくなりそうなんです。だから、行きたいのです」
「そこが『かの地』なのかどうか、良くても半々といったところだ。それでも行くのだね?」
倫太郎は男を凝視しながら、小さく、それでいてしっかりと頷く。
どう手配したのかは謎だったけれど、上海行きのチケット、倫太郎の偽造パスポートは男がすでに準備しており、彼は男について行くだけであった。
ほんの二時間ほどで上海の地へたどり着いた。手続きを済ませてゲートを出るとすぐ、男が誰かに手を振る。覗き見ると、そこには髪をかっちりと七三に分けててらてらとするポマードで固めた小太りの男がプレートを持って立っていた。そのプレートには『歓迎 倫太郎』と記されていた。
その小太りの中国人と男はしばらく中国語らしき言葉で話しあったあと、握手をかわしていた。初めての海外、それどころか北海道から出ることすら初めてだった倫太郎は、その独特の臭い、人の圧力、言葉に圧倒され、ただ男に導かれるまま車に乗り込み、あれよあれよという間にかび臭い臭気が鼻につく小部屋に押し込められることになった。
ドアを閉められたあと、急に現実に戻った。一枚のボロ布の他には何もない部屋を一度だけぐるりと見回したあと、ドアノブに手をかけ、おそるおそる回してみる。力を加えてもノブは回らず、扉が開く気配はない。何度か試みたけれど、やはり反応はない。
へたり、とその場に座り込んだ倫太郎は、頭の先から血の気が引いていくのを感じていた。しゅわしゅわと視界にノイズが入ってくる。
状況を冷静に理解している部分と、それを認めない一縷の希望がない交ぜになって、けっきょく自分がどう思っているのかは彼自身にも分からない。
しばらくぐるぐると思考のループを続けていると、ドアが開いた。
男が来てくれたのではないか、と彼は弾かれたように立ち上がる。
しかし、入ってきたのは空港で待っていたのとはまた別の、大柄で腹の出た、禿げた中年男性であった。
「オマエ、ワタシノモノ、ワカル?」
はじめ中国語で話しかけられたのかと思いただ立ち尽くしていると、
「オマエ」
「ワタシノモノ」
「ワカル?」
と、今度はゆっくりと一語一語はっきりと口に出したのでようやく意味は分かった。
意味は分かったけれど、どういうことなのか、状況がつかめない――
――否。本当は分かっていた。
自分は男に騙されたのだ。
男は普段から、さらって行っても問題になりにくい子供を探していたに違いない。そして倫太郎から話を打ち明けられたときに、チャンスが来たと思ったのだろう。
目隠しをされ、口にはハンカチのようなものを突っ込まれた。後ろ手に固いヒモのようなもので縛られた。さらに両足をそろえた状態で足首をくくりつけられたようである。
身動きも出来ず、声を発することも出来ない。ただ音だけで判断したところ、車に乗せられたようであった。体感的には二時間ほど経ったころだろうか。停車した感触が伝わってきて、そのすぐあとにすっと冷たい空気が流れ込んできた。
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