『孤独で孤独を助ける子』

すけだい

第1話

あらすじ


 細川陽子は高校1年生の時、友達ができなかった。それが嫌だったので、高校2年生になったら友達を作ろうと決心した。そんな矢先、友達がいらないと自己紹介時に言うものがいた。

 彼の名前は大内陽太。大内くんは『自分が孤立して、孤立する人を助ける』という理論の元を行動する。陽子はそれを負け惜しみだと思っていた。

 しかし、大内くんの理論通り、孤立している人間は孤立している大内くんのところに来て助けてもらおうとする。孤立している人にとっては、自分と同様に孤立している人に話かけやすいのだ。陽子もその1人だった。

 そんな陽子を友達として誘うものたちがいた。そのものたちの目的は陽子をいじめることだった。しかし、大内くんが孤立したいという自分の欲望を達成するためにとった行動のおかげで、結果的にいじめから助けてもらった。

 陽子以外にも、恋愛相談に来る人や勉強相談に来る人がいる。その人たちも孤立している人のほうが相談しやすいということで来た。最終的にその人たちの悩みを解決することはできずに、彼らは去っていった。

 相談ではなく孤立勝負をしてくるものもいた。クラスの人気者なのに友達のいないことを相談に来たものもいた。仲良しに見える大内くんたちを仲違いさせようとするものが相談のフリして来たこともある。

 あるとき、大内くんが学校を休んだ。すると、大内くんの代わりに誰かを孤立させようとする動きがあった。人間の醜さと大内くんの重要性がわかった。

 大内くんの過去の話を陽子は聞く。孤立によって孤立の人を助ける、という理論を大内くんが本気でしていると分かる。それとは別に、陽子は大内くんに話しかけにくくなる。

 陽子は大内くんに話しかけられない時期が続く。しかし、思い直して感謝の意を述べる。そして陽子は去り、大内くんは孤立する。







・初めに


 2005年のことである。

 細川陽子は高校一年の時にクラスで浮いていた。それは、コミュニケーション能力がない彼女のせいだった。

 名前に「陽」と入っているが「陰」というイメージだった。真っ黒のロングに日に当たっていないような青白い肌、話しかけられただけでオドオドとするインキャラみたいな性格だった。

 人と交じることがないので、オシャレも髪の手入れも化粧にもしておらず、クラスの人と話すためのイケメン男子や恋ばなやテレビ番組の会話も用意していない。

 出席番号がすぐ後ろの人と険悪な仲になった。面を向かって「お前のこと嫌い」と言われた。はっきりと言われるのはショックだった。2人で班行動する時には別の話し相手をわざわざ用意して連れてくるくらい陽子のことを嫌っていた。

 クラス全体からもシカトされて、嫌なものだった。小学校や中学校の時はクラスで浮いたもの同士で仲良くなったものだ。しかし、陽子が通っていた岸田高校は地元の進学校ということもあってか、優等生が多くてクラスのはみ出しものは彼女以外いなかった。

 陽子は学校がイヤでイヤで仕方なくて、親に学校を辞めたいと言った。しかし、親からは「岸田高校には行きたくても行けない人が多いから行っとき」と拒否された。陽子は学校を辞めることを止めた。

 そんな地獄のクラスがすごく楽しく感じた時があった。それは、3学期のときだった。このイヤでイヤで仕方がないクラスから解放されると考えたら、嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。高校1年生のときに楽しかったことはそれだけだった。

 翌年、彼女は高校2年生になった。



陽子は後がなかった。

どうしようどうしようどうしよう……クラスの中に居場所を作らないといけない。

陽子はそう悩みながら教室にちょこんと座っていた。

既にクラスでは恒例の自己紹介が行われていた。初めて顔を合わせた者、既に知り合いの者、存在はしているが顔を始めて見るもの、様々な人たちの視線が渦巻いていた。その中には陽子のように悩んでいる者もいるだろう。

逆に陽子と違って悩みがない者もいるだろう。友達と同じクラスになった者、誰とでも仲良くなれる者、そういうことに鈍感な者、様々なものがいるだろう。そんな者たちを陽子は羨み、妬み、興味を持った。

陽子も中学まではそういう悩みがなかった。それはおそらく周りに恵まれていたからだろう。周りに興味がなくても許される土壌があったのだろう。

陽子は悲しんだ。中学までいた空間がどんなに恵まれていたのだろう、と。高校からの空間がどんなに恵まれていないのだろう、と。

地元の進学校ということで、優秀な人たちが多いと夢抱いていた。退屈で億劫で野蛮な地元の人たちと違い、新鮮で気さくでやさしい人たちが多いと思っていた。しかし、実のところ、勉強がほかの人たちより少しできるだけで、大したことがなかった。

むしろ、地元の人の方がいい人であったかもしれない。人に興味がない自分を受け入れていたのだから、いい人だ。それに比べて、この学校の人たちは……

 ……いや、地元の人もそこまで良くなかった。思い出したくもないイジメまがいなことも、結構嫌なこともあったものだ。思い出は美化されていただけのようだ。

 そもそも、同じ中学から進学した人ともそこまで仲がいいわけではない。それは、その人たちが悪いわけではなく、自分がその人たち仲良くしようと思わなかったからだ。そうだ、その時から私はダメな人間だったんだ。

 ――陽子は心の中で反芻した。

 そして、意識を目の前のできごとに戻した。新しいクラスで居場所を作ること、それが陽子の目指す道。もう高一の時の嫌な思いはしたくない。

「ここで無理ならもう無理だ」という感じが彼女の胸に渦巻いて起こった。

最初の挨拶が肝心だ、最初の挨拶が肝心だ、最初の挨拶が肝心だ!

「人と話すのが苦手ですが、皆さんと仲良くなりたいので、お話よろしくお願いします」

心の中で何回も練習した。教室に着いてから何回も練習した。周りの人が話しかけられないくらい集中して練習した。

その前の登校中にも練習した。登校前の家でも練習した。昨日の就寝前にも練習した。

そのずーっと何日も前から練習した。心を痛めて泣きながら練習した。高一のときの悔しさや悲しさに襲われながら練習した。

「人と話すのが苦手ですが、皆さんと仲良くなりたいので、お話よろしくお願いします」

 再び心の中で練習した。本当はみんなでワイワイガヤガヤするのは嫌いで話したくないのだが、そうはいかない。家ではそれでもいいが、高校一年のときのように嫌な目に遭うのはもう勘弁だ。

 そう陽子が意識の世界で閉じこもっている中、意識の外では男子が次から次へと自己紹介していく。といっても、ほとんど進んでいない。練習のし過ぎによって心の中の練習速度が異常に早くなってしまったのだ。

 それでも、ゆっくりと確実に物事は進んでいく。心臓をバクバクいわせながら、陽子は順番を待っていた。心配を解消させるために練習を続けながら。

 滞りなく自己紹介は進んでいる。自分のところで変な空気になったらどうしよう。そう心配して心と体を震わせながら陽子が死んだ心地でいると……

「大内陽太です。ぼくはみんなでワイワイガヤガヤするのが嫌いです。友達はいりません。孤立したいです。それでも話したい人は来てください。それ以外は来なくて結構です」

 ……

陽子は振り向いた。

そこには特徴のない男子がいた。髪の毛は長くも短くもなく、背は高くも低くもなく、声は野太くもいか細くもない。風景みたいな人だった。

陽子以外も振り向いた。世界中が振り向いたかと陽子は思った。

教室内はシーンとなった。まるで屍のようだ。外から人の話す声や電車の通る音がセミの鳴き声のように自然と存在感を増してきた。

――ボケが滑っただけかもしれない。よくあることだ。誰か突っ込んで。

教室は相変わらず死んだように静かだった。この教室だけが違う世界に迷い込んだかのようだった。セミが夏でもないのに声を出し、人の声や電車の音になる世界へと。

――誰も突っ込まない。大内くんはそのまま静かに座った。次の人が思い出したように慌てて起立して咳き込みながら自己紹介し始めた。

 しかし、かわいそうなことに誰も彼の自己紹介を聞いていない。そのことは気まずそうに話している彼も気づいている。陽子が思うに、皆は大内くんに対してこう思っている。

――ボケ……だよね?


ボケではなかった。

それはすぐにわかっていたことだった。しかし、人というものは得体の知れないものにであったら、経験して知っている事象に押し込める傾向にある。陽子もほかの人の例に漏れずそうだった。

自己紹介の席でボケている人を何回も見てきたのだ。たまにだが、よくある光景だった。それに当てはめたのだ。

しかし、その光景に当てはまらないことはある。周りの反応だ。滑ろうが湧こうが、何かしらの反応があるものだ。

そのあるべき反応が全くなかったのだ。直感だが、ボケではないと皆がわかったのだ。となると、得体の知れない存在となる。

大内くんは面白がって話しかけてくる人を追い返している。もしかしたら本人は追い返しているつもりがないのかもしれないが、結果として追い返している。だって、次のようなやり取りだもん。

「大内くん、面白いね」

「何が?」

「あの自己紹介、ボケだよね? いきなりで反応できなかったけど、面白かったよ」

「ボケじゃないし、面白いことじゃないよ。それで?」

「……」

「……」

うわぁ、気まずそう。


1週間経っても友達ができない陽子だった。

まずいまずいまずい、これはまずい!

陽子はそう頭を抱える。澄ました顔で鉄仮面だったが、内心穏やかではなかった。鉄が溶けたようにドロドロとした不安の心情だ。

自己紹介はきちんと出来た……はず。そう何回も思い返して失敗がなかったことを採点のようにチェックしていた。そして、やはり思うのは、減点はなかったはずだということ。

おそらく自己紹介は大きな問題ではなかったのだろう。国の運営が国会の答弁で決まるわけではなく水面下での地道な調整で決まると言われているように、友達作りも自己紹介ではなく地道な普段からの調整で決まるのだろう。

そんな当たり前のことに――小学生でも分かることに――陽子は今頃気づいた。社会勉強というものだろうか? 学校の勉強しかしてこなかった陽子には難しいことだった。

陽子は友達を作ろうと遅らせながらも周りを見た。しかし、遅かった。陽子は周りで友達グループが出来上がっているのを焦る。

実は何回か話しかけようとしたが、できずにここまで時間が経った。話しかけて嫌われたらどうしようとネガティブなことばかりが頭をよぎった。どうしても友達を作ろうという決心は頭の片隅に追いやられていた。

実は何回か話しかけられたが、気のいい返事ができずにここまで時間が経った。話す内容で相手を傷つけてしまったらどうしようとネガティブなことが再び頭をよぎった。高一のときの悲惨さは記憶のそこに沈んでいた。

実は……


「どうしよう」

 そう嘆く陽子であった。

 孤軍奮闘、四面楚歌、一人ぼっち……周りを見ながら思いつく言葉は同じ意味のものばかりだ。陽子は目を覆いたくなった。今の絶望的な現実から目を背けたい。

 周りを見渡して目につくのは仲良く話している友達グループというものばかりだ。あそこも、あそこも、あそこも! 見せつけているのではないかと腹立たしく感じるくらい気楽に笑っておられる。

 それ以外に目につくものは……

 ……目に付くのは、窓ガラスを背景に隣の席で同じく孤立している大内くんだった。

 そう、席が隣だったのだ。席替えによって、ともにクラスの窓側最前列に陣とっていたのだ。戦において先頭は仲間の士気を高めることが仕事だというが、そういうことに不慣れであること間違いない2人が最前線だった。

 ここが戦場でなくてよかった。いや、そういう問題ではない。陽子は我に帰った。

陽子は友達ができないので孤立していたが、同じく1人の陽太を見て安心した。ほかの遠くにいる集団には話しかけにくいから、とりあえず近場で1人のこの人に話しかけよう。そういう後ろ向きな理屈で、話しかけるという前向きなことを挑んだ。

陽子は大内くんに対して、なんとなく話しかけた。

「――大内くん」

 心臓が痛くなった。血圧が上がった証拠だ。ついに話しかけてしまった。

「何だ?」

 特に本を読む振りも何もしないで前を見つめていた大内くんは、こちらを振り向いた。今更だが、どうして憮然とした態度で前を凝視していたのだろう? 頭の中を白く霞ませながらふと疑問に思ったが、今の主題ではない。

「私、話し相手がいなくて寂しいのだけど、話し相手になってくれない?」

 自分なりの話しかけ方。自分としては一番自然な話しかけ方。傍から見たら不自然で笑われたことがある話しかけ方。

「いいよ。何?」

 大内くんは返事した。笑うわけでも非自然というわけでもない彼なりの返事の仕方。憮然とした態度で凝視する対象を前方の何かから陽子に移した返事の仕方。

 陽子はここに来て困った。話しかけることが目的で、話の内容は考えていなかったのだ。こういうところで人と話していないことが足を引っ張るのだ。

 困った困った困った!

 そこで陽子が思いついたことは、初日の自己紹介のことだった。それ以外は何も思いつかない。そもそも大内くんってどんな人?

 しかし、自己紹介のことを聞くのは二の足を踏む。なぜなら、その質問は何回もされているからだ。同じことを何回も聞かれることは陽子自身も嫌だったのである。

 自分がされて嫌なことはしない主義である。だから、その質問はしたくない。しかし、タイムリミットが近づいていた。

「何回も聞かれていると思うけど、最初の自己紹介はどういう意図なの?」

 言ってしまった!

 それは陽子が発言とともに思ったことだった。一応は断りの言葉として『何回も聞かれていると思うけど』と添えることが精一杯だった。嫌われるとビクついた。

 しかし、嫌われても別にいい。やれるだけのことはやった。やって失敗しても悔いはない……いや、やっぱり嫌われたくないです、どうしよう……。陽子は心底心配性だった。

「どういう意図かと言われても、そのままの意味だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 大内くんはつれない返事だった。彼にとって陽子のことは詮無きことのように見えた。その反応で陽子は自分の自意識過剰ぶりを猛省するとともに、せっかく一大決心して話しかけたのにそっけない態度を出た大内くんに対して自分でも理不尽だとわかる憤りを感じた。くってかかることにした。

「周りからボケ扱いされたけど、それについてはどう思うの?」

 少し挑発的すぎたか? そう心臓をドキドキさせた。

 陽子は人との距離の測り方を見失っているので、これが踏み込んだ質問なのかどうかがわからなかった。もしかしたらたいしたことではないのかもしれないし、大変傷つけたことかもしれない。心臓が痛くて吐きそうだ。これだから人と話すのは嫌なんだ。

「そう思いたい人はそう思えばいい。しかし、俺は本気だ」

 本気……か。陽子の心は乾いた笑いが心配を包んで渦巻いていた。錬金術として何かいいものを生み出してくれればいいのだが……

 陽子も本気だった。大内くんが自己紹介で本気で話したように私も今を本気で話しているんだ、と。

「いろいろな考えがあるんだ。私もみんなでワイワイガヤガヤするのは苦手だけど、あんなにはっきり言えないし、あまり深く考えたことないわ」

「そうか、じゃあ、こういう考えもあるんだが、聞くか?」

「う、うん」

 陽子はいっぱいいっぱいのアップアップの限界の中を無意識にガッツポーズした。大内くんが自分に興味を持ってくれたと察したからだ、暗い水中で溺れている中を引っ張り上げて明るい海上に導いてくれる印象を持った。

「自分が孤立することでほかの孤立する人が安心する。自分と同じだと、または自分より下がいると思ってな。そういう必要悪があってもいいではないか」

それは大内自身のことを言っているのだろう。自己肯定の強がりだと思った。しかし、すぐに気づいた。その目はマジだ。

自分が本気で話しているように、その理論は本気なのだろう。私は圧倒されるとともに、安心した。なぜなら、周りから変人として疎まれている自分よりも変な人がいるからだ。それが陽子の心からの声だった。


その後も陽子は友達ができない

しかし大内も友達がいないから安心した。大内の考えもある意味正しいと思った。少なくとも、陽子自身は大内くんに友達がいないことによって自分が友達がいないことから救われているのは事実だった。

その後も陽子は大内くんに何回か話しかけた。理由は、話しかけやすいからだ。なぜ話しかけやすいか? 理由としてはボッチ仲間であるからだろう。

それに陽子は刺激が欲しかった。周りのありきたりな会話ではなく、聞いたことのないような話を聞きたかった。そう、大内くんの謎理論のように。


「上から救うヒーローは目指していない。非現実的だし、俺には無理だ」

 なるほど。

「舐められて下にいたら人の醜い本性が見えて便利だ」

 うんうん。

「全ての人と平等に接したい。話す方向では無理だから、話さない方向でいく」

 そうかそうか。

「話せて媚売れる人だけが得するのは嫌だ。話せていない人が嫉妬する」

 ……

「自己犠牲という名の自己満足をしているだけだ。気にするな」

 私は大内くんからいろいろな考えをご教授頂いた。そして思ったことがある。やっぱりこの人の理論は謎である。

 普通の価値観からしたら、こじらせている以外の何者でもない。自信満々に自分の理論を語れたことが嬉しかったのか、大内くんは饒舌だった。この数日間で自己紹介関係以外で話しているところを見たことがない。

 しかし、それは仕方がないことかもしれない。おそらくは、自分の理論に理解を示してくれる人がいないことを経験則から判断し、諦めているのだろう。私は恥ずかしさから人に話せないが、この人の場合は自分と違い、世の中の人を見下げているところがあるのだろう。

 いや、この人の理論で言うと、見上げている、という方が的を得ているのか? あえて全ての人間から見下される立場になる、ということだろう。その謎理論が本当ならばの話ではあるが……

 とりあえず、大内くんと会話することができた。時々よくわからない考えがあるが、話し相手ができたことに前向きになった。学校で話し相手をつくるという目的は達成しつつあるので、最悪の状態は免れることができた。

 陽子はそう心の中で饒舌だった。


「細川さん、ちょっといい?」

 陽子はある3人の女子グループに話しかけられた。朝の登校直後の席に座ったときのことだ。いつものように横に居る大内くんに話しかけることしか考えていなかったから、予想外のことにびっくり仰天してしまった。

「な、何?」

 大内くんと話すときと違い、余裕はなかった。いや、大内くんとも初めて話しかけるときに余裕がなかったので、同じことか。とにかく余裕がなくて挙動不審に震える陽子だ。

「細川さんって、大内くんと付き合っているの?」

「ぶっ……ど、ど、ど、どうして?」

 陽子は思わぬ質問に吹き出した。クラスの人に話しかけられる予想外の展開の中で、自分が大内くんと付き合っているのではないかという予想外の会話の切り口が現れたのだ。予想外過ぎてパニックになる。

「いや、2人で仲良く話しているから」

「そ、そ、そんなことないよ。話し相手がいないから、なんとなくだよ」

「そうなの? じゃあ、私たちと話す?」

 その女子グループは自然と勧誘してきた。勧誘してきた? この私を勧誘? そんなことがあるのか?

 何か裏があるのでは? だって、私だよ? こんなクラスのつまはじきものと仲良くなってもいいことなんてないぞ? でも、勧誘するメリットもないぞ?

 ……ということは、本当に純粋に友達として誘ってくれたの? それとも、孤立しているのを哀れんでくれたの? どちらにせよ、そんな人は高1のときには誰もいなかった。

 陽子は嬉しかった。その女子グループに入ることにした。ようやく平和で楽しい高校生活を送ることができると、晴れやかな心地になった。


辛くて心曇る生活が待っていた。その女子グループが人の陰口で盛り上がっていた。陽子はそういう性根の悪い人たちが苦手だった。

「……がマジうざくて、きしょいんだよ」

「わかる。マジ死ねよなあいつ」

「あはは。脳みそ湧いてんな」

 陽子はこういう悪口が苦手で、引きつった愛想笑いするだけだ。しかし、知らない人や接点の薄い人の話だから聞き流した。ここで話を合わせなかったら、再び1人だけの孤独な生活が待っている。

「そういえば、大内って、ほんま鬱陶しいよな」

「そうそう、いっつも一人でクラスの邪魔でガンだ」

「学校やめるか不登校になればいいんだよ。目に入るだけで鬱陶しい」

今度は大内の陰口で盛り上がっていた。陽子は少し不快だったが、愛想笑いで聞き流した。赤の他人と違い少し知っている人への悪口だから心への負担が大きかったが、もう高1のときのような一人ぼっちは嫌だという一心で我慢した。

「細川さんもそう思うだろ?」

 周りの目がギロッと来た。それは、家畜を品定めするかのような冷めた目だった。とても友達に迎え入れようとしているようには見えなかった。

 陽子は理解した。あぁ、そういうことか。彼女たちは自分と仲良くなろうと近づいてきたわけではなかったのだ。

大内くんと話したということで、陽子はグループに目をつけられたのだ。ただ単に目障りだったのだ。人の幸福を嫌っていただけである。

自分の好きな男性と話す女性を嫌う女性の話は聞いたことがあるが、誰かが大内くんのことが好きなのだろうか? いや、好きな男性でなくても、女性が男性と仲良く話しているだけで嫌うのが女性のジェラシーである。そこに理屈はなく、嫌いなものは嫌いなのである。単純明快。

そして、今、私は追い込まれているのである。ここで大内くんの悪口を言わなかったら、仲間はずれになることは確実だ。それは嫌だから、大内くんには悪いが悪口を言うことにした。大内くんごめんなさい、と祈りながら。

「そうだね。もう少し周りに気を使ったほうかいいよね」

「そういうことじゃないんだよ」

 女子グループの誰かはドスの効いた声だった。陽子の震えながらの一生懸命な声は一瞬された。それは陽子を疑問にさせるものだった。

「?」

「もっとドギツイこと言えよ。おもんないねん」

 状況を理解できていない陽子に追い打ちをかけるように意図を述べる女子グループ。ねっとりと怒鳴るその見下す笑顔は、袋の鼠の心臓を掴んで命を手中に収めているマッドサイエンティストのようだった。悪魔のように薄気味悪くケタケタと笑う女子グループ。

陽子はその女子グループに入って、愛想笑いしていた。しかし、陽子は過去の経験上、陰口が嫌だった。そのことを勘付いた女子グループは陽子が嫌いだった。

だから、女子グループは陽子に対して陰口を強要したのだ。陽子が困っている姿を見てゲスの喜びを得ようと思っているのだ。いじめの風習。

いじめというものは、中途半端にコミュニケーション能力がない人が受ける傾向にある。孤独になりたくないけど人付き合いが苦手な人が、集団に入る利益をちらつかされていいように利用されるのだ。孤独を我慢できない人間はいじめられる。

初めから人付き合いする気がない根本的にコミュニケーション能力がない人にはいじめは意外と無縁である。いじめっ子が喜ぶ反応もしないので愛想ないし、集団に入るというニンジンに釣られることもない。いじめの問題に関わることがない利点があるが、人付き合いがないのはそれはそれで問題ではある。

初めから人付き合いをするつもりがない大内くんと違い、陽子は人付き合いはしたかった。だから、こうやって女子グループからいじめを受けようとしている。陽子は、陰口を叩くという嫌なことと女子グループから孤立されるという嫌なことを両天秤にかけた。

そして決めた。今の陽子にとっては、高一のときと同様の孤独な生活だけはどうにかして食い止めなければならない。そのために、大内くんの悪口を陰で言うのは仕方がない、と自分に言い聞かせていた。

「そうね。大内くんは……」

「『くん』はいらんねん。呼び捨てにせぇ!」

 陽子は恫喝された。周りの女子の顔が見えなく、真っ暗の中を白い歯が宙に浮いてケラケラ笑う光景だけが陽子の視界に広がっていた。陽子は心を暗くしながらじぼり出すように大内くんの悪口を出そうとプルプル震える。

「……大内はいつも1人でいて何を考えているのかわからなくて、本当に……」

 そこまで言うと、陽子は言葉を止めた。周りは不思議そうに睨んだ。

陽子は自分が高1のときに嫌われていたことを思い出した。そのときにされて嫌なことをしたくないと思った。その思いはやはり強かった。

そして、大内くんのおかげで曲がりなりにも自分が助かっていたことも事実だった。そんな大内くんに対して、恩を仇で返す行いは自分で自分が許せなかった。陽子は暗中を走りながらも光る場所を求めて、一念発起する。

「本当に?」

周りははやし立ててくる。真っ暗な顔の女子たちは早く言質を取りたい様子だ。悪口を言う陽子をダシにしていじめをエスカレートさせていく青写真を描いていたのだ。

「本当に変わった人だけど、悪い人ではないと思う」

そのグループで陽太の擁護をした。言ってやったという達成感と言ってしまったという反省感がともに波のように迫ってきた。陽子は恐る恐る周りを見渡した。

グループの人たちは嫌そうな顔をまき散らしながら去っていった。怒ることもなく、干潮のように去っていった。日中の学校なのに自分以外に人が誰もいないような恐ろしい程の静寂に襲われた。


陽子はその女子グループから疎まれた。目をつけられた。嫌われた。

要するに、いじめられるのである。

翌日に陽子が学校に着くと、黒板に『細川love大内』と大々的に書かれていた。他にも陽子と大内の愛の相合傘が書かれていたり、2人が付き合っている合成写真が貼られていたりした。漫画でしか見たことのないいじめの仕方を見て、陽子は一瞬声が出ず直立不動となった。

こんなことがあるものなんだぁ――陽子の最初の感想はそれだった。いじめられていることだとか傷ついただとかの前に、目の前に起きていることを理解することに精一杯だった。黒板の文字と貼られた写真とその前に群がる雑踏を目に焼き付けるのみだった。

クラスの人たちはそれを消そうとするものもなく、ただただ騒いでいるばかりだ。ここで変に介入したら自分たちがいじめの対象になると恐れているもの、そういういじめなどに興味がないもの、他人を不幸に対してほくそ笑んでいるもの、千差万別の反応だった。

そこに大内くんも登校してきた。大内くんは周りの出来事に興味を示さない人間だが、さすがの騒ぎに皆の視線の先を眺めた。黒板に自分のことが書かれていることをどう思っているのだろう?

すると陽子は急にとんでもないことに巻き込んでしまったと、申し訳ない気持ちが沸々と沸き起こってきた。どうしようどうしようどうしよう、自分だけならまだしも大内くんにまで迷惑をかけてしまう! 陽子は顔面蒼白だった。

一方で大内くんは黒板を軽く眺めるが、すぐに興味なさげにそっぽを向いて自分の席についた。その様子を見たクラスの人物が――普段は大内くんに話しかけることのないクラスの人物が――さすがに今回のことをどう思うかと聞いていた。クラスの人物の視線が大内くんに集まっていた。

陽子の予想では、さすがの大内くんでもショックであり迷惑であり嫌なことだろう、ということになった。本当の申し訳ないと両手を合わせて謝る仕草を向けていた。そんな陽子の心情も行動も知らずに、大内くんは静かに黒板を指した。

大内くん曰く。

「三人称単数の場合はsが要る。正確にはlovesだ」

 ということだった。

……いや、そういう問題じゃないだろ。


 その後も陽子はいじめられる。どういういじめだって? 次のようなことだ。

肩パンされる・トイレの個室で上から水をかけられる・モノを隠される・写真を無断でネットに挙げられる……枚挙に暇がない状況だった。

陽子は憔悴しきっていた。高一の時の無視とは違う苦しさが彼女を襲っていた。無視されても無視されなくても、地獄には違いなかった。

しかし、陽子は学校に通った。親からは学校に行くように言われたので、律儀に通った。そこは進学校に通う優等生の性分だ。

そして、心に1つの信条を持ちながら奮い立たせていた。大内くんみたいに孤立するよりはマシだと思うことによって、自分の尻にムチを打っていた。そういうふうに周りに弱物を置いて見下さないとやっていけないのだ。


しかし、さすがに限界が来た。陽子は女子グループのいじめに対して初めこそは喚いたり嘆いたりと反応していたが、途中からはそんな元気がなくなった。もはや引きちぎられた雀のように反応しない。

そして、反応されなくてつまらないからいじめられなくなった。陽子はいじめグループから解放されたのだ。鳥かごから空に飛び立った鳥と言えば聞こえはいいが、可愛くないペットが捨てられただけでもある。

それ以降、陽子は無視される。いじめグループの近くを通ろうが通るまいが、無視される。結局は高1のときに逆戻りだ。

陽子はため息をついた。孤独という絶望の淵に落とされたことといじめ渦巻く人間関係から解放されたことが起因だ。マイナスの感情とプラスの感情とが混ざる。

陽子は無視されることが嫌だった。しかし、大内も無視されているから我慢できた。結果的にはとはいえ、陽子はここでも大内くんで精神的に助けられていた。


 ただ、暗雲立ち込めることがあった。早朝に廊下を歩いていると、トイレから陰で次の声が聞こえた、あの女子グループだ。

「細川は傑作だったなー、誰が仲良くなるかよ、ばっかじゃねぇか?」

「それよりも、大内の奴うっざいよなー。そろそろ締めるか」

「そうだな。いてもうたろか」


大内にいじめの対象が移りそうだった。これはまずいと陽子は息を潜めた。ここで自分が聞いたことがバレたら、自分と大内くんに何が起きるかわからない。

そろりそろりと身を屈めてつま先立ちに廊下を滑っていく。廊下を行き交う人たちはその陽子の姿に興味を示すことなく、日常生活を送っている。陽子の世界とほかの人の世界には大きな隔たりがあった。


すぐに陽子は大内くんを助けようとした。元はといえば自分のせいだ。大内くんが大怪我などを負わないようにしなくては……

陽子は教室に入った。

大内くんは大怪我していた。

――どういうこと?

どうして怪我しているの? どうして服がぼろぼろで頭や腕に包帯を巻いているの? あなたに何が起きたの?

大内は勝手に大怪我等を色々と大変なことになっていた。例の女子グループが動くより前に勝手に怪我をしていた。怪我以外にもいろいろ起きていた。

――どういうこと?

大内くんに起きていたことは次のとおりだ。

陽子以上の大怪我を負う・陽子以上にびしょ濡れでさらに臭い・陽子以上に物がないというか勉強道具とかを何も持っていない・陽子以上にもっと変な写真がもっと大量にネットに流出しているというか自分でばら撒いていない?

――どういうこと?


周りも驚く。普段は集まらない人たちもさすがに集まった。まぁ、最近も人が集まることがあったから新鮮には感じなかった。

「大内、どうしたんだ?」

「この人たちにやられました」

大内くんはいつの間にか戻ってきていた陽子のいじめグループにやられたと言った。おそらく嘘を言った。なぜそう思ったかというと、いじめグループがいじめる発言をしたのはつい数秒前だからだ。

「私たちは何もしていない」

「そうだ。誰がお前なんかいじめるか!」

「……お前なんか?」

 大内くんはその言葉に引っかかった様子だ。待っていましたと言わんばかりに、獲物を捕らえたクモのようなしたり顔。その顔を見ていじめグループはハッとした。

 普通なら、いじめなんか知らないと知らぬふりするのが定石である。しかし、彼女たちは人をいじめていることを周知の事実として過去に何回か注意受けていたので、それができない。シラを切り通すことは難しいが、どうする?

グループの予想では、「いじめているのは大内ではなく細川だ」とボロを出させるために大内くんがそう述べたのだ。その口には乗らないぞと彼女らは口をつむんだ。しかし、そのうちの1人は乾いた笑顔で口を開けた

「すみません。こいつが大内をいじめました」

 3人のうちの1人が仲間に犠牲を押し付けた。犠牲を押し付けられたものは言わずもがな、残った1人も驚きで開いた口がふさがらない。まさか急に仲間を売る行動が起こるなんて頭の片隅にもなかったようだ。

「え? 私?」

「こいつに口止めされていたんです。すみません」

「いや、やってない」

仲間割れ。トカゲの尻尾切りのように責任を押し付けられたものは顔面蒼白で、周りの視線を一挙に受け入れることを我慢できていなかった。もう1人も急な状況の変化に対応できずにオロオロするのみだった。

その様子を見て、責任を押し付けた女子は2人を両手で抱き込んで耳元で囁いた。

グループの予想では「仲間割れが目的だ」と判断し、そのことを囁いたのだ。そしてさらに一言付け加える。

「大丈夫、あとで助けるから」

 それを聞き、残り2人は安心して悪い笑顔になった。そして、わざと仲間割れしたふりをするという作戦に乗ることにした。責任を押し付けられた1人は抱き抱えられた腕を演技として嫌そうに降るほどき、自己犠牲の精神で覚悟を目の奥に据えていた。

「そうです。私が大内をいじめた……」

「うそです。俺、自分でやりました」

 大内くんはあっけらかんという。いじめグループは思う、してやられた、と。こっちが目的か……いや、どうあがいても詰んでいたのか、と観念した。

 しかし、いじめグループにはわからないことがあった。どうして大内くんがこういう行動に出たのかということだった。その動機を考えた。

グループの予想では「どういうこと?」とわからない。そもそも、大内くんが何を考えているのか日常からわからない。予想を立てることも諦めて、最後の抵抗のように聞く。

「細川を助けたかった? 私たちを仲違いさせて一矢報いたかった? 目的は何?」

 強大なカエルを見つけた虚弱な蛇のように睨みつける女子グループを、大内くんは実験体のように見下ろす。実際は同じくらいの視線の高さだが、そう錯覚するような立場の違いに見えた。大内くんは大きくため息をついた。

「俺は孤立したかっただけだ」

 そう言うと、大内くんは興味なさそうに踵を返した。陽子は大内くんらしいと納得した。しかし、周りは納得いかない様子で、ざわつき呼び止める。

「はっ? どういうこと?」

「見てたら、この人が孤立していたから、それを真似したら孤立できるかなぁ、って」

大内くんは陽子を指した。陽子は思う、名前くらいは覚えて欲しかった、と。そして周りは思う、何を言っているんだ、と。

「孤立したい人なんかいるわけがないだろ?」

「お願いだ。孤立させてくれ。誰よりも孤立したいんだ」

「こいつやばいぞ。無視しろ」

 事件は一件落着した。いじめグループは先生から注意され周りから目をつけられて、行動しにくくなった。もとからよく思っていない人たちがたくさんいたから、公に罰せられた彼女たちには明らか強く当たることが許される状況になった。

 はっきり言うが、大内くんの今回の行動で役に立ったのは、過剰に騒ぎを起こしたことにより隠蔽が不可能になった点だけだ。大内くんのせいであぶり出されたいじめグループの業は、言い逃れや隠蔽は簡単に出来ることだったし、過去に何回もそうされてきた。ただタイミングが良かったというか偶然というか、奇跡的に大内くんの騒ぎのおかげでいじめグループへの制裁が働いただけで、何も起きない可能性もじゅうぶんにあった。

 そして、いじめる人はもちろんやばいが、立場が変わった瞬間にその人たちに強く当たる人たちもやばいものである。その様子を直に見て人間は腐っていると思う陽子である。しかし、陽子がもっと上のやばいこととして思ったことが、大内が一番孤立したかっただけということだ。

 孤立したいって……私を助けるためではなく自分より孤立している私への対抗心だったなんて……ただの孤立したいだけのやばい人だなんて。陽子は理解が追いつかないので頭を空っぽにした。

 しかし、大内くんに結果的に助けてもらう。大内くんがやばすぎるから、ちょっかいを出さないということになったようだ。そして、大内くんと関係があると思われた陽子に対してもちょっかいが出されることはなくなった。


 陽子は大内くんに感謝することにした。感謝の気持ちはあったが、釈然とはしなかった。大内くんからしたら陽子を助けようとしたわけではなく、孤立したいという自分の利益のためにした行動によって結果的に助けられただけなのだ。

 しかし、助けられたことには違いがないので感謝する。

「ありがとう。結果的に助けてもらった」

 陽子の感謝の意を聞いて、大内くんは作り笑顔をすることもなくいつも通りぶっきらぼうな真顔で返事した。

「孤立したかっただけだ」

 それは相手を突き放すような言い方だった。孤立したいからそういう言い方をわざとしているのか、そういう人付き合いが苦手な人間なのか? 普通の人なら敬遠するところだが、陽子は慣れていた。

「でも、人助けするための孤立でしょ?」

 陽子は大内くんの理論を知っていたので、それだと思った。傍から見たらわけのわからない理論だが、陽子はその理論の正しさを実際に体験していたことを思い返していた。自分が上手くいかないときに孤立している大内くんの存在で結果的にとはいえ何回助けられたことか……

「そうだ。だから、お前と話していたら孤立できないし、人助けもできない」

「その変な考え、少しは理解できた」

「どうも」

 それで今日の会話が終了。友達としては少ない会話だが、この2人としてはいつもどおりの、下手すれば長めの会話だった。そもそも大内くん曰く友達ではないらしい。

 陽子は大内くんのおかげで助かった。イジメから助かったんだけれども……

「ヤバイ2人が話しているぞ」

「悪いやつではないし、付き合っているわけではないらしいが、近づきたくないな」

「2人とも、孤立したいんだって」

なぜか陽子は大内くんと変人コンビ扱いされる。大内くん共々、話かけてはいけない存在として扱われた。陽子は大内くん以外に話し相手がいない状況に陥っていた。

――こんなはずではなかったのに!

陽子は大内くんの隣の席で頭を抱えてうなだれていた。


陽子は孤立したくないのに孤立する。

大内は孤立したくて孤立する。


「へぇ、あの2人、仲がいいんだ」

ある女子が遠くから眺めていた。



「ねぇ、話しかけてもいい?」

「どうぞ」

「わたしたち、このままじゃあダメな気がする」

 陽子と大内くんは教室の端っこでポツリと座っていた。窓からはいい感じの日光と風が入ってきており、平和以外の何物でもなかった。教室内は快活に笑いながら暴れる男子たちにお淑やかかつ楽しそうに談話する女子たちで賑わっていた。

「どうして? むしろ順調だろ?」

「いや、ダメだよ。みんな私たちに話しかけられなくなっているよ」

 賑やかな教室内の雰囲気からハサミで切り取られたように静かな空間にいる2人だった。そのことに何一つ不満を持っていない様子の大内くんが陽子の気持ちを全く理解していないことに、陽子は二重の不満を持っていた。クラスで孤立している不満と大内くんが自分の考えを理解していない不満とで頭がおかしくなりそうな陽子は、怒りを通り過ぎて呆れてしまい、肩を大きく動かすほどの溜息を吐いた。

「それが順調だろ? 孤立できているんだし。それが嫌なら自分から話しかけたらいい」

「それができたら苦労しない。あーあ、このクラスでも友達ができずに、これからも誰からも話しかけられることなく……」

「ねぇ、恋愛相談してもいいかな?」

「……え?」

 陽子は後ろからの声に返事した。クラスメイトの女子が話しかけてきた。振り返るとセミロングの女子がかしこまったように立っていた。

 陽子にはその女子が普通より大きく見えた。というのも、座っている陽子から見て立っている女子が実際にそう見えたわけではなく、人と接するとこをしてこなかった陽子にとっては話しかけてくる人は皆が大きく見えるのだ。別にその女子は威圧しているわけでも何でもなく、陽子が勝手に縮こまっているだけだ。

 そして、恋愛相談という言葉が陽子の頭を岩のように叩きつける。陽子は恋愛をしたことがなかったのだ。だから、その言葉は得体の知らない凶器でしかなかった。

 恋愛経験のある人たちが恋愛経験のない人たちに突きつける凶器。それによるダメージは重い鈍器で殴られたイメージであり鋭利な刃物で切られたイメージであり強烈な毒薬を飲まされたイメージ、人それぞれだ。陽子にとっては重い鈍器だった。

 しかし、これは陽子が恋愛にこじらせているだけだ。普通の価値観では恋愛相談は恋愛経験のない者でもキャッキャウフフするものである。恋愛経験・恋愛相談・恋愛、それは昔からよくある問題だ。

恋愛相談とは、恋の悩みを解決するためのイベントであり、青春イベントであり、たまによくあることである。

が……

「どうして私たちに?」

「え? ダメなの?」

 陽子は自分たちに恋愛相談を持ちかけた理由がわからなかった。恋愛相談に来た女子は否定されたと勘違いした。互いに頭の上にハテナマークを覗かせていた。

「いや、ダメではないけど、普通こういうのは仲いい友達とか、頼りになる大人とかに相談するんじゃあないの?」

 陽子は不思議に思ったことをありのまま述べた。他にも恋愛経験のなさそうな自分たちに話しかけたことも疑問に思ったが、口に出すのを忘れていた。それに対して女子は恥ずかしそうに体をモジモジさせてていた。

「友達には逆に相談しにくいの、こういうことって。それに大人じゃなくても頼りになるじゃない。だって……」

「だって……?」

「2人は付き合っているんでしょ?」

陽子は額を机の面に打ち付けた。勢いよく打ち付けた。額から煙が出そうだった。

女子はそんな陽子を奇妙奇天烈な生き物を見るように眺めていた。実際、いきなり額を机に勢いよくぶつける人は珍妙だ。それに、彼女にとって普通のことを言っただけなので、どうしてそんな反応をしたのか理解に苦しんでいた。

大内くんはそんな2人に対して関係ないと言わんばかりに素知らぬ顔。関係ないことはないのに、いや関係ないと言ったら関係ないが、でも、うーん。陽子はそう頭を悩ます。

「ど、ど、どうして私たちが付き合っていることになるの?」

「だっていつも2人でいるやん」

「それはたまたまだよ。ねっ?」

「それで、恋愛相談とは?」

 聞いちゃいない……

 いや、大内くんの言うように恋愛相談をするのが筋ではあるが……私のように話を脱線させるほうが良くないのだが……うーん。陽子は再び頭を悩ます。

なんか、大内くんと一緒にいるようになってから頭痛薬が欲しくなってきた。頬杖をつきながらそう思う陽子であった。

「――まぁ、2人が付き合っているかはどっちでもいいわ。本当は2人が他人に吹聴しなさそうだから来たのよ」

 女子は軽く咳払いしながら言う。自分の発言で相手を困らせてしまったことと自分の勘違いの帳消しをしようとしたのだ。とにもかくにも話を進めたいという合図だ。

「どうして私たちがそうだと?」

「吹聴する相手しないでしょ? 孤立しているんだから」

「……はは」

 彼女の辛辣な言葉に対して苦笑いする陽子とその横で満足げな笑顔の大内だった。孤立という言葉に対してイメージの持ち方が正反対の2人である。反対でないといったら、ともに孤立しているという点だ。

 陽子は孤立に苦労している。しかし、孤立していない人もその人なりの苦労があることは先日知った。そして、この相談者にも孤立していないなりの苦労があるのだと思い、哀れみとともに見下しの対象としての安心も覚えた。

 自分は悪い人間だな。大内くんが孤立しているときに見下して安心した感情に近いものが湧き上がったことにより、陽子はそう自己嫌悪した。


その相談相手は三好三子と名乗った。三が多いなと思った。

「それで、恋の悩みってことは、好きな人がいるの?」

「いえ、恋したことがないのです」

 三好さんの恥ずかしげな返答に対して陽子が首をかしげた。予想していた返答と違うからだ。恋したことないのに恋愛相談とはこれいかに?

じゃあ何しにきたの?と素っ気無く発言するのを寸前で陽子は喉の奥に飲み込んだ。そんな発言、相手が傷つくに決まっている。自分が言われたら嫌である。

陽子は無い恋愛経験から空を掴むように質問を探した。恋したことがないのに恋愛相談とフェルマーの最終定理のような難問をどう解けばいいのだろうかと思考を巡らせる。しかし、フェルマーの最終定理のように解けると前向きになる。

陽子はステレオタイプ的な結論に到達した。そうだ、これだ、間違いない! 陽子は自信を持って口を開けた。

「じゃあ、恋したいの?」

「いや、興味ない」

 間違いだった。

 陽子はさらに首をかしげた。恋をしたことがないから恋したい、それは陽子自身でも安直すぎると思ったくらいの結論だった。しかし、世の中は思った以上に単純であり、人の悩みのほとんどは人間関係か金銭関係であり、占い師はそのことを言えば依頼人を騙すことができるのである。

 その延長線上で恋愛相談も実際の恋愛か恋愛できないことかが悩みのほとんどはずである。しかし、そのどちらでもないとなると、占い師の立場ならお手上げだ。陽子は占い師ごっこのような予想を諦めて素っ気無く質問する。

「じゃあ何しにきたの?」

「恋をしないし興味のない自分が変で嫌」

一般的に人は恋をするものであり、恋をして成長するというが……

「そういう子も最近は多いらしいよ」

 陽子は質問に答える。その言葉には説得力があった。事実、陽子も恋愛に興味がなく、周りの恋バナに違和感を覚えていたのだ。

「多いといっても、やっぱり少数派でしょ? 何か嫌」

「そう言われても、ねぇ? 大内くん」

 そうだ、大内くんなら賛同してくれるはずだ。勝手な想像だが、大内くんには彼女はいないし恋愛にも全く興味ないはずだ。俺も恋愛には興味ないと発言するはずだ。陽子は大内くんに対してそう期待しながら横目でチラっと見る。

「少数派……いい響きだ」

 どこに心を響かせているんだ、こいつは……


陽子の予想通り恋愛に興味がないと述べている大内曰く、以下のとおりだ。

「恋したら。孤立じゃなくなる」

「恋というものは、モラトリアム期の暇人が作ったもの」

「恋をしないことが人間本来の姿」

 以上。

 ……

「……いや、そうかもしれないけど、そんなこと言われても何の解決にもならないだろ」

 陽子は呆れていた。期待通りと期待以上の要素が入り混じった大内くんの発言にどう対応したらいいのか思いあぐねていた。心にバシっと響く言葉もあったが、個人的には納得できるありがたい言葉だったが、三好さんの恋愛相談という今の状況を度外視しているこの態度には呆れて開いた口が塞がらない面持ちだった。

 三好さんを振り返ると、笑顔が固まっていた。おそらく愛想笑いをしたはいいものも、大内くんの謎理論に対してどうしたらいいのかわからなくて困っているのだろうし問題の解決もできないだろう。一応はフォローしなくては、と陽子は言葉を紡ぐ。

「いや、あの、ごめんね、大内くんはこんな変な……」

「なんだか、心が救われた気がする」

「えー……」

 解決していた。

陽子は嘘みたいな状況に失笑した。三好さんは少し朗らかだった。

三好さんは大内くんの謎理論によって問題解決していた。それで解決したのならそれでいいけど……

 いや、よくない。言葉遊びで解決したように錯覚しただけで、根本的には何も解決していない。詐欺師か悪徳占い師みたいなことをしている。わけのわからない理屈をこねて現実から目をそらすのは勉強ができる人がよくする悪い癖だ。

正さないと。さもないと、私たちのようなダメ人間になってしまう。陽子は決起する。

 その横では大内くんが相談を終わらせようと結びの言葉を述べ始めた。

「……じゃあ、これで恋の相談は終わりということで……」

「ちょっと待って……

「でも、それはそれ、これはこれよ。悩みを解決して」

 三好さんは大内くんの発言やそれを遮ろうとした陽子の発言を両方ともバッサリと遮断機のように遮った。陽子は後方から思わぬ援軍が来たかのようにおののき、大内くんは表情を崩さないが口をつぐんだ。一気に主導権を三宅さんに持って行かれた。

 さっきまでは救われたと大内くんに言いくるまれそうだったのに、急に自己主張してきた。この三好という子、いい性格している……。陽子は三好さん人の恐ろしさを感じ、それとは別に大内くんが一泡吹かされたであろう状況をいい気味だと冷笑し、そんなあくどいことを考えてしまった自分に再び自己嫌悪した。


解決策を大内が提案する。その時の大内くんの様子は、明らか仕方がないなと体全体で述べているようだった。顔の表情には出さないが体の表情がそうだった。

「孤立したら、暇になって恋できる」

 大内くんはそう言うけど……

「大内くんは恋したことあるの?」

「ない」

 反証が具現化されて鎮座する。そもそも、大内くんが恋したことがないのは既に聞いて知っていた。ただ単に大内くんの作戦に説得力がないことを顕在化したかっただけである。

 これで、三好さんもこの大内くんの作戦に納得しないだろう。

「……大内くんはともかくとして、たしかに効果あるかも」

「そうなの?」

 三好の納得に陽子は納得できなかった。大内くんはともかく、という発言は同意できるが、恋するためには孤立せよという発言は同意できなかった。深く考えているように拳を顎に立てている三好さんに、そこのところの理由を伺いたい陽子だった。

「孤立した時に話してくれた人や助けてくれた人に恋するものらしいよ。少なくとも悪い気はしない。そう聞いたことはあるわ」

 という理由らしい。

「そうなんだ。三好さんがいいのならいいし、別案を思いつかない私が言うのも何だけど、それで本当に解決できるの?」

「孤立して助けてもらっても恋しないのなら、諦めろ」

 大内くんはキッパリと言う。諦めろというほどの作戦でもない気はしたが、そこは言葉のあやということで聞き流した。


 三好さんは実行する。

 三好さんはクラスで1人ぼっちに座っている。岩のように静かにじっと鎮座する。もとの生活風景がどんなものか知らないから、もとからそうなのかもしれないし、変化したのかもしれない。

そして、孤立して誰も助けてくれない。もとから誰かとよく話す人なら、心配して話しかけるものだと思うが、もしかして三好さんも友達がいなかったのか? それとも人間というものは軽薄なもので、孤立した時に限って誰も話しかけないのか?

そう悲観している陽子は大内くんに提言する。

「本当にあれでいいの?」

「いいじゃないか。1人で楽しそう」

 それはあなたの主観でしょ? 暗い顔を俯けて震えている様子が目に入らないの? 1人でいることに対して楽しそうに見上げてどっしりと腰を据えているのはあなただけだよ? わかっているの?

 そう言いたい陽子は刺を含ませた口調でなる。

「いや、震えているけど。時々こちらを見て、助けを求めているように見えるけど。なんだか悪い事をした気がするんだけど」

「気のせいだろ。1人でいることの楽しさに気づいたんだろ」

 気のせいではないだろ! 何を涼しいカオでのんきなことを言っているの? 馬鹿なの、あなたは? 

1人でいることに多少の免疫がある私でも1人で常にいることは耐えられなかった。1人でいることを好む人はいるが、1人を耐えられる人はいないんだよ? あなただって口では孤立がいいというが本心では孤立を恐れている所があるんでしょ?

 陽子はつっけんどんになっていた。

「そんなの大内くんだけだよ。普通は嫌だよ。私も嫌だし」


「孤立って、思ったよりきついわね」

 三好さんは開口一番そう言った。放課後に睡魔が襲っているのか、目は虚ろで疲れきっていた。いや、慣れない孤立で憔悴しきっていたのだ。

「ごめんね。なんか」

 陽子は本心から謝った。自分のせいではないのに粛々と謝った。頭を垂らしながら、元凶である大内くんが不動であることに苛立った。

 あなたも謝りなさいよ。私が代わりに謝っているのよ。この役立たず。

「大内くんと細川さんが孤立しているから気が楽だったけど」

 役に立っていた。それ、大内くんの狙い通り。そういえば、大内くんの謎理論は当たっている場合があった。

そう考えると、もしかして今回も狙い通りにいったのかもしれない。

「でも、話しかけてもらっていたじゃない。どうだった?」

「なんか、すごく嫌だった。裏がありそうで」

 狙い通りにいかなかった。症状が悪化していた。大内くん責任取れよ。

 防衛反応のように腕を抱えながらおずおずと視線を下ろす三好さんに本当に申し訳なく思う陽子であった。


 三好さんが話を続ける。

孤立しているときに話しかけてくれた人に恋しないし、グループ活動で困っていた時に助けてくれた人に恋しないし、校舎に入ってきた巨大なライオンに襲われかけた時に助けられても恋しなかったらしい。

それって……

「そもそも人の心がないんじゃないの?」

 陽子は冷めた目で三好さんを観察した。ライオンに襲われるという命の恩人に何も思わないって、人としてどうだろう? そもそも、それってどういう状況?

「そんなことない。だって……」

「そうだ、そんなことはない」

大内くんが会話に入ってきた。ファローでもするのか? 大丈夫か? あなたにできるのか、フォロー?

陽子は期待しないが一応聞くことにした。

「大内くん?」

「人の心は腐った物だから、助けてくれた人に感謝とかしないあくどい性格が本来の人の心だ。だから、お前は純粋な人間だ。よかったな」

 やはりこいつはこういうやつだった。

 陽子は無神経な大内くんに頭を抱えながら三好さんの顔を見れなかった。普通に考えたら失礼すぎて怒り心頭である。般若の形相を想像しながらそっと三好さんを盗み見する。

「たしかにわかるわ」

「わかるの?」

 三好さんが予想に反してニコニコしていることに拍子が抜けた。三好さんが予想に反して共感していることに拍子が抜けた。三好さんが予想に反して……とにかく陽子は拍子が抜けた。

 そんな陽子の気も知らないで、三好さんは何が分かるのかを笑顔で述べる。

「だって、孤立した時に悪い考えが浮かんだわ」

「なにを?」

「話しかけてきた人より、孤立していた人を意識したわ」

孤立した時に、同じく孤立した陽子や大内が気になったようだ。もしかしたら、孤立して大内くんに恋したのか? もしそうなら、とんだマッチポンプだ。

それにしても、本当に大内くんに恋したのか? それとも……

陽子はなぜか心が重くなった。陽子はなぜか三好さんの笑顔が怖かった。陽子はなぜか大内くんが遠くの闇に離れたように感じた。

陽子はハッと我に帰った。いつもの代わり映えのない大内くんが近くで居座り、三好さんは優しそうに柔らかい笑顔をのぞかせる。陽子は心臓を握りつぶされたのように息絶えながらそういうふうに光景を俯瞰した。

しかし、実際は先ほどの続きでしかなかった。三好さんが大内くんのことが好きになったかもしれないという状況。三好さんは笑顔を大内くんの眼前に突きつける。

「よくもこんなひどい目に合わせたわね」

陽子は笑いながら怒っていた。恋していないし、むしろ孤立させられたことで嫌いになったようだ。こういう怒り方は怖いものである。

そこは人の心があるのか……

 そりゃそうか。陽子はそう思った。恐怖に怯えながらも、安心した。

 何に安心したのだろうか? 三好さんが大内くんと違って普通の感性を持っていることか? そんな馬鹿な。

 では、三好さんが大内くんに恋しなかったことをか? どうしてそのことを安心するんだ? ……いやいや、そんなことないない。杞憂だ。

 陽子は雑念を振りほどこうと頭を振るった。本人は強く大きく振ったつもりだが、周りの人達は全く気にしない程度のものだった。

 三好さんは自分の笑顔の怒りを続けた。

「あなたたちに相談したのが悪かったわ」

 ……え? 私も?

 とんだとばっちりである。

 そんな思考が陽子の雑念を振りほどいた。


三好さんは足早に陽子たちから離れる。足取り荒く、後ろ姿で怒っているのがわかった。その怒りの背中はその人を倍の大きさに見せた。

陽子は滑るように椅子から立ち上がり三好さんのあとを追う。このまま仲違いでいるのは良くないと思ったので、冷静に話し合おうと思ったのである。せっかく話をしたのだから、仲良くなりたいと足を速める。

しかし、追いつかない程度にスピードを緩める、なぜなら、話しかける言葉がないからだ。それは、陽子の罪悪感から生まれるもの……

というわけではなかった。ただ単に人と話すのが苦手なので話しかけることに躊躇していただけだった。仮に追いついたとして、コミュニケーション能力の観点から話しかけることができるのかが不明なことを自己問答した。

廊下を目まぐるしく行き交う人たちを横目に、陽子は頭の中の思考を目まぐるしく行き交わした。話しかけるか話かけざすかを反芻した。思考実験だけで答えが出ないまま足早に歩くのみだった。

すると、陽子は急に足を止めた。なぜなら、三好さんの足が止まったからだ。まだ話しかけるかどうかの答えが出ていない陽子には近づくことは本能が拒否をする。

そして、困った事が起きる。

 孤立していた三好に話しかけた男子が再び三好に言い寄っていたのだ。周りに人がいないところで口説く。まぁ、普通は人前ではしないか。

 そこはクラスから離れた普段あまり使われない教室の前だった。音楽室だとか視聴覚室の類だったが、表札がないのでなんの教室かはわからない。ただ、埃っぽさを感じるくらい埃以外に人も物も何もない閑散としたところだった。

 そんなカップルの逢引に適した空間の一歩手前の壁の影から陽子は覗き込む。男女の盛りを興奮しながら盗み見するスケベのように盗み見する。しかし、陽子が見たいのは三好さんと彼女を侍らせようとする男ではなく、仲直りする自分と三好さんの姿のみだった……大内くんの存在から目をそらしながら陽子は目の前のことをまぶたに焼き付ける。

「付き合ってくれよ」

「興味ないって言ったわよね」

「わざわざ話しかけてやったのに、そんなこと言うなよ」

「離してよ」

 男子は三好さんの腕を掴んで離さない。三好さんはそれを振りほどこうと躍起になっている。ベタすぎる展開に、周りにドッキリカメラがないかを陽子が確認するくらいだった。

 そういえば、いじめの時もベタすぎる内容だったし、この年頃の子はそういうステレオタイプなものに影響を受けているのだろうか? それとも、意外と物事の種類は少なくてベタなことしか起きないものだろうか? 最近起きたベタでないことと言ったら、孤立することによって孤立している人を助けるという信念を持つ大内くんくらいだった。

 陽子はそういう現実逃避をしていた。色々と考えたり難癖をつけたりして行動に移さないのが陽子だった。そういう消極的な行動の繰り返しが孤立の状況を生んでいることを理解しながらも、体が動かない陽子だった。


 陽子の背後から大内が颯爽と現れた。石のように固まっている陽子の後ろから蝶のように軽やかに現れる。フットワークが軽い。

大内くんはそこに向かった。三好さんと付きまとう男子が争っているところに向かう。何も恐れる障害物がないように向かう。

三好さんを助けようとしているのだろう。よくそんな積極性があるなと感嘆する。大内くんがそこにたどり着くまで、あと3・2・1……

横を素通り。

助けなかった。なぜ? 大内くんの性格ならそんな気もしたけど!

でも、人助けを信念にしているんでしょ? 孤立することでほかの孤立している人を助けたいくらい、人助けしたいんでしょ? それなのに、明らか困っている三好さんを助けないのはどういうこと?

そう陽子は頭を抱えた。無常にも大内くんはそのまま廊下の向こうの角を左に曲がって姿を消した。少し気まずそうにその様子を静観していた三好さんたちは、止まった時間が動き出したように攻防を再開した。


その様子を見て陽子は再び思考の暗闇の中で助けに行くかどうかの攻防を再開した。石のように動かない体と別に思考は蝶のように頭の中を四方八方に飛び回る。その思考の蝶が石となった陽子の体を引っ張るイメージが頭のなかで光り輝く。

 仕方ない。陽子は覚悟する。

「や、やめなさいよ。嫌がっているでしょ」

「お前は黙っていろ」

 そう助けに行けたらよかったのだが、そんな根性は陽子にはなかった。覚悟だけで行動に移せなかった。陽子には大内のように行動をする力はなかった。

 行動に移せないのに口だけは達者な人間になろうとしている。そんな人間はダメだと理解しながらも自分がそのダメ人間になろうとしている自分に自己嫌悪している。陽子はそう反芻しながらも未だに動けない。


 陽子は男子と目があった。うだうだと考え事をしているうちに、陰から見ているところがバレたのだ。

 しかし、陽子は相手にされなかった。

 その男子の視線は陽子の周りに散漫とした。 争う声を聞き、周りに人が集まってきたのだ。その野次馬を見ていたのだ。

しかし、周りも見て見ぬふり。やじを全く飛ばさないので、ただの馬だ。陽子と同じように、助けに行くという行動を起こさないダメ人間たちだった。

陽子はそのダメ人間たちの一部となり見ているだけだった。男子は隠れてアプローチするのを諦めて、おおっぴらに三好さんにアプローチする。結局物事は何一つ好転していないし、行動も起きない。


 と、大内くんはまた三好さんたちの横を素通り。

陽子のそばにくる。陽子は思わず声をかける。自分のことを棚に上げて次の発言をする。

「大内くん、三好さんを助けなくていいの?」

「どうして助けないといけない? 俺は孤立すること以外は興味ない」

 大内の言い分では、孤立するために人がいないところに行ったら、たまたま三好が口説かれているところに遭遇しただけのようだ。そして、人がいるからその場から離れたのだ。帰りに同じ道を通ったのは、ほかの道が人で混んでいたからだ。

「でも、それは人助けのための孤立でしょ?」

「あの争いは孤立と関係ない。ワイワイガヤガヤとした人間関係での問題は専門外だ」

 大内くんは当然だという顔だった。理屈にはあっているが、頭でっかちの人特有の屁理屈にも聞こえてイラっとした。だから、陽子は意地悪として屁理屈を返そうとした。

「ここで助けなかったら、ほかの人と同じだよ、大内くん。孤立できなくなるね。まぁ、私は大内くんが孤立できなくても関係ないけど……」

「それはいやだな。孤立したい。助けたい」

 いや、そういうつもりで言ったわけではないんだけど……どこに執着しているの? 扱いにくいような扱いやすいような、よくわからない人だ。そう陽子は乾いた笑顔をこぼす。


 そこから問題が解決するまでは簡単だった。大内くんが問題の男子相手に無言のガン見をして追いやった。相手は得体の知れない怖さで顔を引きつっていた逃げた。

 そのまま大内くんは去った。問題が解決したから、これ以上の人との接触を避けたかったのだろう。周りの野次馬の知らぬ間にいなくなり、三好さん1人がポツンと迷子のように静寂の中を立っていた。

 陽子は行動に移せなかった自分の後悔を埋め合わせするために、三好さんに話しかける行動に出ようとした。自分を慰めるために相手を慰めようとした。人は可愛い自分のためにしか行動できないと自己嫌悪しながら、陽子は話しかける。

「三好さん、大丈夫?」

「さっきの大内くん……」

 三好さんは惚けたように大内くんの跡を目で追っていた。ウルウルときらめく目を見て、陽子はステレオタイプにこう思った。

もしかして三好さん、助けてもらって恋した?

「……めっちゃ気持ち悪かった。もうあなたたちには近づかないわ」

 三好は去っていった。陽子は1人残された。本当の孤立だ。

 三好さんは結局は恋しなかった。問題解決できなかったことに、己の無力感を覚えた。しかし、どこか安心したところもあった。

 どうして安心? 人が幸福にならなかったから? それとも……

 陽子は頭の中にある仮説を立てた。しかし、それは違うと棄却した。そんな馬鹿げたことを考える自分を嘲笑した。


 大内くんは孤立に前進した。

 陽子は孤立に後退した。


 三好さんは恋愛に興味ない自分が嫌だという問題を解決できなかった。大内くんが提案した孤立したら恋愛できるという解決策は失敗した。三好さんは助けてくれた大内くんに恋しない。

 結局、今回は何も物事が進展しない、建設的でない出来事だった。本当に何も起きない出来事だった……

ちなみに三好さんは三つ子なので、計3人分を孤立化したことになる。


「あいつが大内か」

 ある男子が大内くんを狙っていた。



「ようこー、起きてるー!?」

「――うーん」

「はよ起きないと遅刻やでー!」

「……うーん」

「あんた、学校行くのがまだ嫌なのー?」

「うーん。行きたくない」

 陽子は髪の毛を風神雷神のようにボサボサに逆立てながら目を開ける力もなく寝ぼけていた。ふくよかな母親が起こしに来てようやく目が覚めるぐうたらな朝である。朝の支度時間は10分で済ましており、朝食や髪の毛をとかすことすらしない。

 そんな人間が化粧やオシャレなんかするわけがない。ホコリがたかっている髪の毛や制服をなびかせて最寄りの駅まで息を切らして走るのだ。1つ乗り遅れたら遅刻確定なので、死活問題だった。

 そうまでして行きたくない学校に行くのが陽子の日課だった。地獄へ行くために一生懸命になっているという修行僧も真っ青な苦行を小学1年生からしているのだ。陽子は小学校に入った瞬間から学校がイヤでイヤで仕方が無かったのだ。

 普通の学校が嫌な人は、学校で友達ができないことや勉強ができないことで嫌になるものだ。しかし、陽子はそれ以前の問題として、学校といういびつな存在に形容しがたい拒絶感を覚えたのだ。そして、そんな学校に当たり前のようにいる生徒や先生に気持ち悪さを覚えて、その異世界に近づけなくなったのだ。

 それからその異世界に一歩も踏み込むことができずにこの年齢まで育ったのだ。そういうことを出身小学校に隣接する最寄りの駅のホームで、走りすぎた事からくる嗚咽を我慢して休憩しながら思い出した陽子だった。陽子はそのまま電車の中にいつも通り思い足を一歩踏み込んだ。


 いつもの教室に踏み込んだ。異世界のような得体の知れないままの学校にいつもの通り登校する。だが、大内くんというまた別の異世界のごとき雰囲気を醸し出す人物の近くには違和感を覚えずに安心できた。

 目をやると、窓の外では雀が2羽飛んでいた。青空の先方にはその仲間らしきグループがいるが、振り返る素振りすらない。その2羽を切り捨てて悠々自適に飛んでいく。

 そんな背景に彩られた大内くんに陽子は慣れたように話しかける。教室内には他にも生徒はいるが、この2人には興味なく背を向けるのみだった。1人や2人いなくても、クラス運営に支障をきたさないのは誰もが知っていることだ。

「大内くん、三好さんのこと、チャンスだったんじゃないの?」

「チャンス? 何のチャンスだ?」

 学ランを椅子の背もたれにかけた大内くんが長袖のカッターシャツでバツ印を描くように腕組をしていた。チャンスではないという体の表現かと思ったが、ただ単に腕組を組んでいるという誰もがしていることだった。陽子は自意識過剰を反省した。

「恋愛のチャンス。たぶん、三好さんはあなたのことを嫌いじゃなかった」

「そうなのか? よくわかるな、そんなこと」

 喜ぶことも後悔することもなく、事象を確認しただけの反応。リトマス紙が青に変色したのを確認するのと変わらない反応。そんな大内くんの反応に陽子は実験器具を確認するかのように目を細める。

「いや、私もそういうことには疎いから、自信はないけど、ただの勘」

「女の勘はよく当たる、というからな」

「私の勘は当たらないから関係ないけど」

陽子は自分が女性扱いされたことに驚きと嬉しさが混ざった。ただ憎まれ口を叩くだけの人間がいきなり女性扱いするのだから、感情が追いつかないものである。陽子は天井を見上げて口を真一文字に紡ぐ。

「しかし、俺はそういうことはあまり興味がないんだ。ありきたりな事を言うと、今は恋愛よりも勉強のほうが興味がある」

「私も恋愛には疎い方だけど、興味がないとまでは言えない。恋愛なんて不純だとこじらせているの?」

「違うよ。俺は自分がそういうことに興味がないだけで、ほかの人が恋愛することは否定しない。ただ、自分の価値観や一般的な価値観を押し付けてくるな、というだけだ」

 視線を天井から大内くんに降ろした陽子は、その言葉に共感できるところがあった。それは彼女にとって口に出す行動力がないだけで、こころの中の悪い彼女も述べることだった。しかし、道徳上そんな悪い考えを認めたくない彼女は、自分を誤魔化すために冷たく挑発的に口の震えを堪えていた。

「干渉されたくないの? だからいつも1人でいるの?」

「そういうところもあるな」

 恋愛より勉強か。勉強してきて地元の進学校に入ったのだから、そういう人も中学校よりは多いだろう。事実、陽子もそれに近い思考だった。

 ただ、陽子の場合はその思考を心の奥で自制していたのだ。一般的な価値観では、学生は恋愛をするものだという価値観に毒されていたのだ。それを大内くんのように一刀両断する気概はなかったし、恋愛に憧れるところが多少あった。

「ところで恋愛より勉強って言っていたけど……」

「勉強を教えてくれ、大内くん!」

会話に割って入るものがいた。陽子は驚きでビクッと肩を上げた。大内くんは微動だにせず、来るものを拒まなかった。


勉強できないことで苦労する学生はたくさんいる。

松永くんがそうだった。細長くて青白くて目がうつろだ。真面目そうに坊ちゃん刈りだ。

彼は机越しに陽子と大内君との間にヘタリ込んでいた。血を抜かれたように元気がない。ため息ばかりで言葉をなかなか出さない。

「中学ではできたのに……」

「私もそうだよ」

 松永君がようやく喉元から絞り出した言葉に陽子はウンウンと深く頷きながら同調した。陽子も中学までは勉強できたが、高校では勉強できない部類に振り落とされていた。中学までは勉強できない人の気持ちがわからなかったが、今では心底良く分かる。

 中学校では成績が良かったのに高校で成績が悪くなることはよくある話だ。小学校の勉強と中学校の勉強が違うように、中学校の勉強と高校の勉強は違う。運動神経が良くても球技の下手な人がいるように、単純に種類の違うことをしているので上手くいかないことは当然である。

それに進学校にいるのだから、しかたない。中学校で勉強が出来た人たちが集まったのだから、多少勉強出来たところで話にならない底辺の争いとなる。特に、無理をして背伸び入学した人は入学後に苦労するのは昔からの通例である。

「だから、大内くんに勉強を教えてもらいたいんだ」

 松永君はため息混じりに虚ろな目で大内くん頼む。その立ちこみ方は大げさだと思うかもしれないが、進学校に行くような人にとって自分が勉強で落ちこぼれるなんて予想だにしていないことだった。人によっては勉強できること以外にアイデンティティがないものもいるので、自分の全てを否定されたように居場所を失う人も珍しくない。

 そういう人のための予備校や塾がある。そこでは勉強で躓いたけど諦めたくない人が集まる。そういうところに行かなくても学校の先生に聞くだとか友達に聞くだとかはあるが……

「でも、どうして大内くんなの? 他にもいるでしょ?」

「だって、学年1位じゃん」

勉強の相談をした理由は、大内くんが学年1位だかららしい……え? 学年1位?

「え? そんなに勉強できるの?」

 陽子は目を皿のように開いて驚いた。大内くんがそんなに勉強できるとはつゆにも思わなかったのだ。自分と同じ落ちこぼれ仲間だと勝手に思っていたので、裏切られた気持ちに勝手になった難儀な陽子であった。

「まあな」

 大内くんは自慢するわけでもなく、さも当然だと言わんばかりに落ち着いていた。それは陽子も中学生までしていた返答である。本人はなんとも思っていないが、勉強できない周りが嫉妬からの推測で澄ました態度と勝手に嫌ってきた返答であり、陽子もそれで疎まれていた経験を持っていた。

当時はそういう嫉妬による嫌悪感を理解できなかった陽子だが、落ちこぼれた今となれば理解できる。何をすました顔しているんだボケ!という心情である。しかし、陽子はそれを過去に言われて傷ついたことがあるから、心の中で我慢した。

いや、心の中で思うことも罪悪感を感じた。自分はそんな腐った人間ではないと思いたかったのだ。しかし、陽子は既に孤立している大内くんを見下して安心した過去もあるので、心の奥底では自分が腐った人間だとは理解しながらも目を逸らすだけだ。

「知らなかったの? 細川さんは大内くんと友達でしょ?」

「俺とこいつは友達ではない」

「え? いつも話しているのに?」

 陽子の良心の葛藤と関係なく、心の外の現実世界では会話が進む。大内くんと松永くんとの会話が進む。水中に溺れている人間を水上から呼びかけるように、その外部の声が心に閉じこもっていた彼女を現実世界に呼び戻す。

 陽子は大内くんのややこしい価値観を松永くんに説明する羽目になった。そのとき陽子はやれやれと面倒くさそう手を腰に当てたが、内心では説明役という自分の居場所があることを喜んでいた。そう、人間関係にしても恋愛にしても勉強にしても、居場所がないのが、孤独なのが苦しいことなのである。


「一般的に、1人で勉強するしかない」

 大内くんがそう言う。松永くんが勉強の相談に来る直前に一般的価値観を嫌っていると言った舌の根が乾かぬうちに一般論を言った。傍から見たら呆れたものだ。

 しかし、それを知っているのは陽子だけだ。松永くんは一般的価値に関する大内くんの口上を聞いていなかったし、周りにも気にしている人はいないものだ。陽子はそのことを理解しているので一般的価値観をぶり返すことを憚ったが、自分だけしか知らないことに孤独感と特別感という陰と陽の両感情を混じ合わせて不思議な気分だった。

 それに……

「1人で分からないから相談しているんでしょ?」

「それなら、先生に相談したほうがいいんじゃないか、俺よりも?」

 陽子は松永くんのフォローを買って出ることにした。三好さんの恋愛相談の時も思ったが、やはり大内くんを誰かが横で手綱を引っ張るか翻訳する必要が出てくる。さもないと、また新たな犠牲者が生まれてします。

その結果として、大内くんの今回の発言は珍しくまともな理屈だと感心した。一般的価値観を持っているんだ。そういう皮肉を心に抱く陽子だった。

「先生に聞くのは、恥ずかしくて嫌だ」

「そうなのか?」

「あーその気持ちわかる」

 松永くんの発言を大内くんは理解できず、陽子は共感した。陽子自身も極度の恥ずかしがり屋で、その結果友達ができなかったのだ。その延長線上で、学校の先生に話しかけることもできなかったので、本当に人と話すことがなかった。

 クラスメイトと話さないが学校の先生とは話すタイプの人もいる。そういう人は、おませさんな人であったり周りが自分の言うことを聞いてくれないことが嫌な人であったり先生に媚を売ろうとする人であったり、色々と居る。陽子はそういう人たちとも違う、本当の人見知りの孤独人間だったのだ。

「ほかの方法は?」

「ほかの一般的方法として、みんなで勉強することもある」

 陽子の質問に、大内くんは再び一般論を言う。そういうのは嫌いではなかったのか? あの時に一般論を嫌っていた人は別人ではないかと陽子は疑ったほどだ。

 しかし、疑う余地はなかった。あの時にそう発言したのは大内くんでしかなかった。変人だからそういうこともあるかと納得するしかなかった。

「周りに聞くのは、劣等感で嫌だ」

「そうなのか?」

「私もそう」

 再び松永くんの発言を大内くんは理解できず、陽子は共感できた。陽子は人見知りであり、自意識過剰でもあった。ほかの人の純粋な手助けでさえ、自分を嘲笑っているかのように錯覚して身動きがとれないのだ。

 むしろ嘲笑ってくれたほうがありがたいと思うくらいだった。理由としては、自分が自意識過剰ではなく正しかったということで安心できるからだ。しかし、本当に嘲笑われたらそれはそれで嫌悪感に襲われるのも事実だった。

「ほかの方法は?」

陽子による再度の問い掛けに大内くんが新たに提示した解決策は次のことだ。

「勉強の環境から孤立する」

「「……?」」

大内くんは格好良く言うけど、意味がわからない。松永くんは解説を求めるような顔で陽子に目を向けたが、陽子はわからないと言うように顔を横に振った。松永くんと陽子は自分だけではなかったということで安堵の表情を浮かべた。

そうなってくると、おかしいのは陽子達ではなく大内くんということになる。おそらく先ほどの発言は、哲学者や芸術家が言う謎の発言といったところか。そう陽子は予測しながら質問する。

「どういうこと?」

「俺もわからん。言ってみただけ」

 大内くんは憮然とした態度で自分の言いたい事を言って自己満足していただけだった。やはりな、と陽子は自分の価値観の正常さに安堵するとともに一般論のありがたさを噛み締めた。普通が苦手は陽子は普通のありがたみを感じる自分におかしくなって失笑する。

「大内くんの意味わからない理屈も限界ね。そんなことより勉強を教えてあげたら?」

「嫌だよ。孤立じゃなくなる」

 そこにこだわるか。陽子はそう思い頭を抱えた。

が、すぐに妙案を思いついた。それは確実にうまくいくという根拠を持ったものだ。

「そんなこと言わずに教えてあげなさいよ」

「自学自習するしかないだろ」

「勉強を教えなかったら、ほかの人と同じだよ」

「前に恋愛相談の人を助けた時も同じことを言われたが、よく考えたら屁理屈だろ」

勘付かれたか。陽子はそう思い本当に頭を抱えた。

人というものは一度成功したことが再び成功すると勘違いするものである。そこを漬け込まれて大損することが詐欺などの常套手段としてあるものだ。

陽子は提案に失敗する。気落ちしたことを隠しながら、元気を振り絞って強がる。でも、声が小さいから気落ちしたのはバレバレだ。

「じゃあ、やめる? 孤立による人助け、ってやつを」

「屁理屈も理屈だから、反論を思いつくまでは乗ってやるよ」

悪法も法みたいなことを言ってきた。しかし、それは陽子の提案を呑むということだった。陽子は予想外にうまくいったことに、不思議で浮ついた暑さを体を纏わせていた。

その間の松永くんは、陽子と大内くんとの言い合いにあたふたしていた。


大内くんが提案を呑んでから1週間が経った。

気温がますます上昇し、日が沈む時間も長くなった。体から出る汗の量も増えていく。

そんな陽子が見ていたのが、大内くんが松永くんに教えているところを見たことがないということだった。陽子は長いため息をついた。嫌な予感をしたのだ。

 放課後に陽子は教室の後方で一人机にかじりついている松永くんを捕まえた。やはり大内くんの姿はそこになかった。というか、さっきから自分の席で自学自習している大内くんを確認していたのでわかっていたことだった。

「勉強は自学自習が基本だから、わからないところだけ教える、そう言われた」

「つまり、劣等感で聞きに行けないから、教えてもらっていないのね」

大内くんに忠告しないといけない。陽子は頭が痛かった。

陽子は教室の後ろの松永君の席から前にいる大内の席に移動した。その場から呼び止めたらいいのだが、恥ずかしがり屋の陽子には無理なことだった。ほかにも何人かが教室で談笑している中を、陽子は大内くんにバレないようにというわけではなくほかの人に注目されたくないという理由で目立たないように息を殺しながら大内くんに近づく。

「どうして教えてあげないの? そんな言い方したら聞きに行けないでしょ?」

 陽子は声を忍ばした。周りにいる人に声を聞かれたくないからだ。恥ずかしがり屋の性分を思い出したのである。

「何回も言うが、自学自習が大切だ。わからないところを教えたところで意味がない」

 大内くんは声を大広げに発した。陽子と違い周りを気にしないタイプなのだろう。陽子はその態度を羨ましいと思ったが、今はそういう問題ではないと気を引き締めた。

「そうは言ってもかわいそうでしょ? 恥を忍んで教えを乞うてきたのに」

「そんな甘い考えでは、助けることができない」

 陽子は忍んだ声を大内くんの普通の声量にかき消されて、頭を抱えた。そして後方で1人勉学に勤しむ松永くんを振り返り、もし分けない感情の薄目で眺めるばかりだ。今回も失敗しそうだと予見した。


翌日、松永くんは大内くんに質問に行ったが、トボトボと帰って来た。それは陽子にとって驚くべきことだった。なぜなら、劣等感から同級生に質問にいけなかったあの松永くんが質問に行ったのであるから予想外だ。

そして、生気を失ったように帰ってくるのも予想外だ。

「教えてもらったけど……」

 きちんと教えてもらえなかったのか?

「教えてくれたことが多すぎて、わからない」

 逆に教えてもらいすぎたようだ。それも予想外だ。陽子は頭を抱える。

「ところで、何を教えてもらったの?」

「数学を聞いたら、神や宇宙の話が始まった……」

「……それはお疲れ様」

 ……

 陽子は再び大内くんのところに行った。昨日の今日で再び行くべきか悩んで一度立ち止まったが、息を深く吸って歩みを進めた。そういう行動の10日目でようやく大内くんにたどり着く陽子は、緊張で心臓をバクバクいわしていた。

「どうして教えすぎるの? 怖くなって聞きに行けなくなるでしょ?」

「教えただけだ。それに、あの程度で無理ならどっちみち勉強は無理だ」

 陽子は頭を抱える。もう慣れたものだった。むしろ、この敗北感が癖になっている自分を発見している陽子は、目的が変わっていることに自己嫌悪した。


翌日、大内くんが松永くんを追いかけまわして、勉強を教えようとした。

……どういうこと?

「何追い掛け回しているの?」

陽子は大内くん襟部分を掴んで止めた。意外と上手に掴めたなと思う陽子だが、そんなわけなく、すぐに逃げられた。摩擦で熱く痛みを走っている指を息ふきかけ擦りながら労わった。

それでも今度近くを通った時には腕を掴んで捕まえた。さすがに止まる大内くんを松永くんは息を切らしながら振り返る。周りの視線を一身に受けるが、目の前の珍獣である大内くんに集中していた陽子には気にならなかった。

「勉強を教えることが約束だろ?」

 大内くんは捕まったことが不満げだった。言われた通りにしているのにと文句を言いたげに口を尖らせた。小さい子供みたいだった。

「だからといって追い掛け回してどうするの? 嫌がっているでしょ?」

「これで無理なら……」

「無理でしょ。馬鹿なの? 人との距離感分かっていないでしょ?」

 松永くんは怯えていた。自分を追い掛け回した大内くんもさることながら、これを叱る付ける陽子にも怯えていた。もうこの2人には近づかないでおこうと決心した瞬間だった。


結局、松永くんは大内くんに教えてもらうことをやめた。

大内くんに聞くくらいなら、先生や友達に聞いたほうがいい。そう判断したらしい。去っていった松永くんを追うことのない大内くんはいつも通り静かに席に座っている。

「なにを思っているの?」

「何がだよ? 何も思っていない、人それぞれだ」

 いつも通りのぶっきらぼうな大内くんの言い草に陽子は安心した。どうやら松永くんが去ったことに気落ちしていないらしい。そういえば、去る者は追わずの精神であり、三好さんが去った時も気落ちはしていなかった。杞憂だった。

「せっかく教えようと思ったら逃げられてショックなのかなぁ、と思って」

「そういうものはないな。去るものは追わずの精神だから」

 やはりそうかと陽子はニヤつき頷いた。それを見て大内くんは気持ち悪そうに少し眉をひそめた。そんなことを気にしない陽子は気が大きくなっていたようだ。

「そういうものなの? 強がりじゃないの?」

「なにを強がるんだ? 1人でいることがそんなに強がっているように見えるのか?」

 なるほど、自分が1人でいるために追い出したのか。それとも、松永くんを救うために、自分と同じようになったらダメだという反面教師として追い出したのか? 人と救うために孤立する、という大内くんの理論はどこまで本気なのだろう?

 そう陽子は納得と疑問を思考の渦にかき混ぜた。疑問を解こうと試みたがすぐにやめた。泥沼にはまると思ったからだ。

「まぁ、大内くんがそれでいいのなら私はいいのだけど……」


小テストが行われ、返却された。

陽子は可もなく不可もなく、平均点に少し毛が生えた点数だった。いつもは平均点より少し下なので、上出来だった。中学の時なら泣いて悔しんだかもしれないが、進学校にはいってから感覚がマヒしてしまったのだ。

大内くんはなに食わぬ顔だったが、バツ印がなかったので満点だろう。陽子は内心ひがんでしまって、自己嫌悪。

そうだ、松永くんはどうだったのだろう? 答案用紙は見えなかったし、点数を聞きに行く積極性は陽子にはなかった。大内くんは全く興味がなさそうだ。

気になる陽子は遠くから聞こえる声に耳を集中させた。

どうやら、松永くんは点数が上がったらしい。今まで平均点を超えたことがなかったのに、平均点を超えたらしい。

しかし、大内くんに教えてもらったところだけが成績は少し上がった。他人に教えてもらったところはイマイチ成績が上がらなかったようだ。そのことに陽子は疑問を感じた。

「どうして?」

「自分で考えないで、他人を求めるからだ」

「どういうこと?」

「人に聞いて満足して、理解した気持ちになっているだけだ」

 至極まっとうな意見だ。大内くんなのにまっとうなことを言っている。陽子はそのまっとうという現象が大内くんに起こっていることに、袂で笑う口を押さえたい気持ちだった。

「なるほど……それで、追い掛け回した理由は?」

「俺の言動に比べたら、普通に聞くほうが楽だと錯覚するだろ?」

 わざと追い掛け回したということか? もしそうであるならば、すごい役者であり、すごい利他的な人間だ。陽子は腕を組んで信じられないといった顔でいた。

「わざと追い掛け回したの? 自分から離すために」

「熱が入っただけだ。まぁ、人が離れるのは慣れたものだから、達観している」

 わざと追いかけましたわけではなかったようだ。陽子は騙された気分で苦笑いをこぼした。でも、そのほうが大内くんらしいと安堵もした。

達観せずにその価値観を修正したほうがいいとも思ったが、それは普通の考えからのアプローチであり、孤立したい大内くんからしたらベストな言動ということだろう。そこに言い寄るのは自分の価値観の押しつけであり、それについていろいろ考えるのは邪推だとして深く立ち入らないでおこうと陽子は決心した。

簡単に言うと、ややこしいことには首は突っ込まないでおこうと決心したのだ。

「なるほど……でも、そのせいで成績はあまり上がっていないようだが」

「それは知らない。あいつが決めたことで、俺の責任ではない」

「それはそうだけど」

「あと、最近話しかけすぎ。少しは自重してもらわないと、孤立じゃなくなる」

 陽子は言葉を失った。少し大内くんに甘えていたことは自覚があったので、心臓にトゲが刺さった感覚だった。気が重くなり悄気た。


大内くんと陽子は孤立のままだった。

松永くんは成績と積極性が向上した。一応は救ったことになるのだろうか?


「友達……か」

 ある男子が遠くから呟く。



 陽子が教室に着くと、大内くんが自分の席で読書をしていた。窓から差し込む日光を浴びながら観賞植物のように静かに居座っているのだ。いつのも風景だった。

 陽子は朝がだらしないので、いつも遅刻ギリギリだった。一方で大内くんは余裕を持って学校に来て、瞑想と読書で気を高めている。

 それを聞いたときに陽子は瞑想という言葉に引っかかった。寝ているだけかボケで言っているだけかと思ったのだ。しかし、それを確認するために登校時間を早めようとは思わない陽子は、面倒くさいから信じることにした。

 そんな陽子だが、ここで話しかけていいのかと戸惑っていた。昨日に話しかけることを次刺されたからだ。面倒くさいから話しかけても良かったのだが、彼女の小心者らしさが釘刺した。

 そもそも面倒くさいにも種類がある。早起きしてまで確認することへの面倒くささと話しかけることへの面倒くささは違うのだ。前者は嫌なことを回避できるのに対して、後者は嫌ではないことを回避することになる。

 そう思いながら、陽子は自分が大内くんに話しかけることが嫌いではないことに変な気持ちになり、否定するように首を横に数回振った。まるで自分が大内くんと話をしたいかのように思っていることを否定しているのだ。お得意の自意識過剰だとわかっていながらも、ただの友達だと思っていた。

 いやただの話し相手だ、と自己訂正した。というのも、大内くんは友達を作らないからだ。そのために話しかけるなと言われたばかりであることを忘れていた。

 陽子は色々と考えて、どうしたらいいのかと心配した。心配しすぎて胃腸が痛くなった。実は昨日から今日まで睡眠中以外はずーっと悩んでいたのである。

 それくらい心配性の陽子は、ついに結論を出すことができずに大内くんの前に現れたのだ。陽子はフラフラで冷静に考えることができなくなっていた。そして、理性が働かないから、習慣で話しかけてしまい、その瞬間に、しまった!と焦るのである。

「話しかけてもいい?」

「いつも話かけてくるだろ。どうしたんだ急に?」

 あんたが昨日話しかけることを自重しろと言ったんだろ!? 焦りながらもそう心で叫ぶ陽子だったが、安堵して頬がゆるんだ。口角が上がり吹き出して笑い出しそうだった。

 大内くんの傍若無人ぶりが妙に心地よかったのである。周りにとけ込めなくて周りから変人扱いされて卑屈になっていた陽子にとって、自分より周りにとけ込めていない変人扱いされる彼は見ていて楽しいものである。そう、見世物小屋のものを見下している気分であり、陽子が自己嫌悪になるものだった。

「勉強の秘訣ってあるの?」

「秘訣もなにも、普通に勉強したらわかるだろ? どうしてわからないんだ?」

「はぁ!?」眉間にシワを寄せて嫌そうな顔をする陽子も昔はそう思っていた。やはり皮肉な言い様だった。自分も昔に周りに悪いことをしたなと反省しながら、彼女は本当に聞きたいことを聞くことにした。「それもそうか。それよりも、話しかけてもいいの? 昨日は自重しろと言ってきたが……」

「そうだったか? じゃあ、話をやめよう」

 そう言うと、大内くんが会話を途切れさせた。どうやら陽子が聞くまで忘れていたらしい。勉強に捧げる記憶キャパを少しは日常生活にも空けとけばいいのに。

 そう思う陽子がさらに思ったことは、自分の過去の発言を厳守しようとする大内くんの行動だ。人というものは言動不一致が当然であり、言っていることとやっていることとが違うことを忘れていることで周りから反感を買い信頼を失うものである。しかし、それは人間の腐っているところであり、殆どの人間がそうである。

 従って、言動が一致する人間は反証的に珍しく信頼できる人間である。周りからは意固地だとか変人だとか後ろ指を指される人間ではあるが、見ている人は見ているので一定の支持を得ているものである。

要するに、陽子は大内くんを信頼できる人間だと思っているのだ。

木漏れ日が落ちる教室で静かな時間が過ぎる。閑散とした賑わいが遠くから聞こえてくる空間に閉じ込められたように陽子は感じた。周りに人がいるが、意識として誰もいないように感じる、それが孤独な人間の感覚だった。

 ……


「――あのー、ちょっといいかな」

 沈黙を破る声が鈍く響いた。

暗い雰囲気の男子。孤独な人間が勝手に作った意識の殻の中に入ってきた。陽子は緊張で耳がキーンとなって見上げたが、その男子は大内くんしか見ていなかった。

「いいよ」大内くんは快諾した。「なに?」

「俺、北畠といって、友達がいないんだ」

北畠くんはおずおずと手をこねくり回しながら、言葉を探していた。人見知りが話しかける挙動だ。昔から変わらないステレオタイプの挙動だ。

陽子から見たら、自分を見ている気分だ。あの時と同じ事が起こると予想した。大内くんが話し相手になる頼みを快諾する未来図が陽子には見えた。

「友達になって」

「嫌だ」

 断った! 陽子はそう思い、予想外のことに衝撃で首をガクンと落とした。自分の時と違って断るとはどういうことだという心境だった。

「私の時はイイと言ったのに」

 陽子は自重の約束を破って大内くんに話しかけた。それくらい興味を持ったのである。いや、そもそも大内くんと違って陽子は言動一致に固執するような信用に足りる人間ではなかったのである。

「あれは話し相手になっただけだ。友達にはなっていない」

「どういうこと?」

 陽子は大内くんが会話の自重を気にしていないことを気にした。手で頬を付いて聞く陽子は、呆れながらある予想を立てていた。一応返事を待つ。

「お前は話し相手になることを求めた。それは大丈夫だ。しかし、こいつは友達になることを求めた。それは嫌だ」

「同じじゃないの?」

「違うだろ? お前、今まで話してきた人間が皆友達か? 近所の人とか道に迷っていた人とか店員とか?」

 予想通りの返答だ。そして、ややこしい性格だ。いろいろと難癖をつけてくるが、おそらく、友達ができたら孤立ではなくなるから嫌だと言いたいのだろう。

 そう考える陽子は、自分が友達になることを請わなくて良かったと前向きになった。彼女の場合は、友達という概念がなかっただけだが、初対面でいきなり友達になることを請う人間がそもそもおかしい。そう考えると、北畠くんはおかしい人間だ。

「俺、さっきから無視されている?」

 そんな北畠くんが再び会話に介入する。その入り方は会話している2人を空恐ろしく思って何度も入ることをためらったものだが、2人は気付かなかった。彼からしたら、大内くんに話しかけたのにどうして話しかけていない人間がしゃしゃり出ているの?という感じだった。

「ごめんなさい。私が入ったから変なことになって」

 陽子はさすがに申し訳なさそうに謝った。そこはある意味常識があった。大内くんなら謝らなかっただろうし、むしろ変な理屈を言っていただろう。

 そんな様子を意味深に見つめる北畠くんだった。彼の眼光は鋭く光り、どういう人物なのかと調査しているようだった。そして葉巻の煙を吐くようにふっと呟く。

「やっぱり、暗い人間はそうなるのか」

 その北畠くんの言葉に陽子は考えた。北畠くんを自分と同じだと照らし合わせて見ていたが、少し違和感を覚えた。言葉の意味は分からなかったが、自分に照らし合わせて解釈した言葉を述べることにした陽子。

「暗いのを直して明るくなりたい?」

 その陽子の言葉に北畠くんは無言にゆっくりと顔を横に振った。その様子は余裕を含んでおり、大内くんに相談に来たとは思えないものだった。陽子はやはり不審に思ったが、大内くんはいつものように態度が出ない。

「違う。暗いままがいい。暗い人と仲良くなりたい」

「それでは、大内くんと仲良くなりたい?」

 半笑いの北畠くんに対して、陽子は嫌な気持ちになった。水と油が混じらわないように、自分とは合わない人間だと感じたのだ。額から汗を出し乾いた喉を唾液でゴクリを潤わしながらその得体の知れない男を注視するのみだった。

「いや。大内くんは明るい。細川さんという話し相手がいるし。たいしたことない」

「何?」

 大内くんが突っかかった。机をガタンと揺らして前のめりに膝をついた。足の部分をぶつけていたが、それくらい自分を失っていたということだろう。

 陽子はそんな大内くんの様子を見たことがなかったので、新鮮に思うとともに北畠くんに対して少し疑問に思った。

一体何をしに来たのだろう?どうして大内くんを動かしたのだろう?

陽子の前で2人の世界が続き、陽子は1人置いてきぼりを喰らう。

「俺のほうが暗くて孤立だよ、大内くん」

「お前なんかに負けないよ」

 この北畠くん、陽子よりも大内くん寄りのタイプだ。自分の信念を持ってそれに則って行動するタイプだ。そう陽子は直感した。

 大内くんは対抗することを宣言した。互いに笑うことのない目で牽制しあいながらも、嫌悪感は出していなかった。それを間近なのに遠く感じていた陽子は思う。

「このクラスにはまともな人はいないの?」

 陽子は呆れて肩が胴体からずれ落ちそうになった。もちろん探せばまともな人はいるのだろうが、視界が狭まっていた。ため息をつく。


「大内くん、話しかけてもいいかな?」

「……」

「これは、昨日の自重しろということかな?」

「……」

「それとも、北畠くんに張り合っているの?」

その日、陽子が話しかけても大内は返事しない。陽子はさみしさに打ちひしがれていた。話し相手がいないことがこんなに嫌なことだと思わなかったのだ。

いや、思い出していたのだ。長らく忘れていたこの嫌な感覚。腹の中の臓物を抉られそうな激痛を。

そしてその腹痛は体全体に血液循環のように広がり、頭痛や手足のしびれを起こさせる。そして、体全体が痛みに耐えるために麻痺させて、考えも行動も中断させる。それが絶望による無気力な人間の生成方法だ。

しかし、陽子はまだ無気力になっていなかった。一日そこらでなるほど即効性があるものではないうえに、陽子は過去に経験があるから免疫があるのだ。しかし、そういう経験者ほど再び同じ経験を得たらトラウマを思い出してショックの度合いが強くなり傷が深くなるのだ、毒は二度目の接種の方が死にやすいように。

陽子はさみしい思いの中にも冷静さを持っていた。そして観察していると、北畠くんも誰とも話していない。といっても、おそらくは元から誰とも話していなかったのだろう。

なぜそう思ったかというと、ひとりでいる姿が板についていたからだ。空想しているかのように突然不敵な笑みをこぼしたり、机の上で破ったプリントから制作した自作人形みたいなものでままごと遊びして納得したように頷いたり、目をつぶって椅子の上であぐらを組み手を合わせて瞑想らしきことをしたりしたからだ。

……瞑想か、大内くんも早朝に同じことをしているのかな? そう陽子は大内くんの習慣を思い出し、視界も大内くんに戻した。

大内くんは目をぼんやりとまっすぐ眺めたり読書したりと、いつもと変わらない。強いて言うならば、自分との会話を拒否しているだけだ。しかし、それも大内くんが元に戻っただけだろう。

そうなると、陽子も元の話し相手がいない生活に戻るだろう。そう予想して、とばっちりを受けたという理不尽を感じた。陽子は自分の居場所を探すために、しばらく静観することにした。

大内くんと北畠くんとの孤立合戦。


1:授業で当てられたら負け勝負

「この問題を解ける奴はいるか?」

「……」

「この前の小テストで溶けたやつが1人だけいたから、そいつに解いてもらおう」

「……」

「大内、解いてくれるか?」


2:歩いている時に注目されたら負け勝負

「あいつ、学年1位の大内だ」

「……」

「あいつ、いつも1人でいる大内だ」

「……」

「『信長の野望』やってたら、戦国時代初期に山口県で領土が広いやつがいたんだけど……名前なんだっけ……忘れた」

「大内だ」


3:いなくてもバレないか勝負

「大内、いなくね?」

「あの前の席だよな? どうしたんだ? 今日いたよな?」

「そういえば、後ろの席にも欠席が……だれだっけ?」

「それぐらい覚えておけよ……って、だれだっけ?」

「お前も覚えていないんかよ。でも、本当に誰だ?」

「まぁ、とりあえず、大内と誰かの2人がいないな」


――孤立勝負は一方的に大内くんが負けていた。大内くんは圧倒的に周りから目立っている。一方で北畠くんは完璧に皆の意識の外だった。

大内くんはクラスから孤立しているというキャラでクラスと関係性がある。本人は嫌かもしれないが、そういう意味では孤立していなかったのだ。

一方で北畠くんはクラスの一部として、埋没していたので、誰からも覚えられていなかった。それはそれで孤立していないのかもしれないが、今回の孤立勝負では孤立しているということだろう。定義次第ということか。

互いに対抗心バリバリで、勝ったら勝利の余韻に浸ってにやける。といっても、にやけるのは北畠くんばかりだ。

結果はともかく、勝負の過程は楽しそうに見えた。それはそれで仲良しにみえる。陽子は蚊帳の外に放り出されたような孤独感で、寂しい。

「なんか、バカバカしいけど、羨ましい」

 陽子は孤立していない2人を逆恨みしたい衝動に駆られた。


翌日、いつもの通り椅子に座っている大内くんを陽子は登校して見つけた。目をつぶり腕組みしている。これが大内くんの瞑想だろうかと陽子は疑問視した。

陽子がイメージした瞑想とは、北畠くんのように座禅を組むものだった。いや、学校でそれをするのは変だからそれを見る前は大内くんのように目をつぶるだけのことを想像していたのだから、本来ならばイメージ通りのはずである。ただ、一回変な風景を見てしまったから、感覚を麻痺させられたか変人はそれが普通だと勘違いしたのだ。

陽子は話しかけるか悩んだ。話しかけることの自重が続いているのか、そのことを忘れているのか、孤独勝負を続けているのか、そのことを忘れているのか? 反芻して腹痛と頭痛に苛まされている陽子は、5分ほど自己問答してから話しかける決心をつけた。

「今日も話しかけたらダメなの?」

「どうしてだ? いつも話しかけてくるだろ?」

 大内くんは目を閉じながらも口を開いた。瞑想の途中を邪魔したと思い、陽子は申し訳なく感じて口をもごもごした。しかし、言い口からしたら自重とか勝負を忘れている疑惑があったので、そのことを確認することにした。

「いや、北畠くんと孤立勝負しているんでしょ?」

「もうやってないよ」

「はい?」

陽子は困惑して声が裏返る。

 と、そこに北畠くんが颯爽と姿を現す。

「大内くん、昨日はいい勝負だったな。これからは各々の道で頑張ろう」

「そうだな。俺も自分の道を極めるために精進する」

あっけなく大内くんと仲直りしている北畠くんが颯爽と去っていった。


 陽子は呆気にとられた。状況が理解できなかった。開いた口が塞がらなかった。

「どういうこと? どうして仲直りしているの?」

「よく考えたら、暗いのと孤立は違う。だから、張り合う必要はない。流派が違う」

 流派……ね。よくわからない言葉だ。

 そう納得がいかない納得をする陽子は、大内くんが未だに目をつぶり続けていることに気づいた。おそらく、北畠くんと話していたときも目を閉じていたのだろう。普通に考えたら失礼だが、大内くんのキャラなら納得してしまうのが怖いところだ。

「そうなんだ。私にはよくわからない世界だけど」

「あいつには、暗い世界で一番になってもらおう。俺は孤立の世界で一番になるから」

 大内くんのよく分からない含みのある設定に陽子は辟易していた。とりあえず、よくわからない孤独勝負が終わり自分の孤独生活から解放されることだけが興味の対象だった。それはそれとして……

「どうでもいいけど、名前くらい覚えてあげたら? 北畠くんだよ」

「覚えても意味ないだろ。話すことなんかないんだから」

 その言葉に愛想を尽かしそうになる陽子だった。どうせ北畠くんだけでなく自分の名前も覚えてもらっていないとタカをくくっていた。自分も人の名前は覚えられない性分なので期待はしていないし、それが大内くんの個性だとも思っていた。

「私も名前を覚えてもらっていないんだけど……」

「お前、細川陽子だろ? 覚えているよ」

「え?」

 陽子は自分の名前を大内くんに覚えてもらっている意外な事実にドギマギした。予想外の出来事だった。あの人に興味を持たない天涯孤独唯我独尊の大内くんが人の名前を?

「どうして覚えているの?」

「応仁の乱って、細川家と大内家との争いらしいんだ。だからだ」

「なるほどね……」

 と、納得しかけた陽子だが、すぐに意味がわからないと認識した。

 問いただそうかと思ったが、すぐにやめた。変な理屈を並べられるだけで納得いく未来が想像できないからだ。

最初に予想したのは、覚えやすいからという理由だった。しかし確証はなかった。

 ほかにも考えたが、たぶん納得のいく理由は返ってこないだろう。帰ってくるのは変な屁理屈ばかりだろう。

 しかし、どうして覚えてくれたのだろうか?

 陽子の思考は整理できずに堂々巡りするのみだった。

「……名前、覚えてくれていたんだ」

 陽子のその日の発言はそれで終わった。


大内くんは孤立のままだった。

陽子は一度孤立してから、孤立ではなくなった気分だった。


大内くんに名前を覚えてもらっていたという事実が明るみになった。


「彼らは何なんだ?」

 ある男子が様子を見ていた。



「大内くんって、記憶力はいいの、悪いの?」

 翌日に前日のことと関与する話題を投げかけることが陽子の大内くんに対する日課になっていた。その日課の最中に、名前を覚えてもらっていた問題は意識したが、一時的に封印しようと決心した。名前を覚えてもらったくらいで意識するのは自意識過剰だと否定するように頭を振ってからの行動だった。

「どうだろう? 意識したことはないけど。どうして?」

 本を読むのをやめて栞を閉じた大内くんは、そう切り返した。あくびしたのかその目は涙を潤っており、未だにあくびを噛み殺しているように口元が引きつっていた。ひと仕事終えたような吐息も漏れている。

「テストの点数がいいけど、人の名前や約束を覚えるのが苦手そうだから」

「そうだな。人の名前は興味ないからな」

 大内くんは興味なさげに陽子の質問に答える。その口は大きく開き、あくびの様相をまざまざと見せつける。目の前の陽子にも興味がなさそうだった。

「どうして私の名前は覚えているの?」

「だから、応仁の乱だって」

 陽子は腑に落ちるような落ないような、天秤に揺れるような気分だった。腑に落ちたほうが楽なのか腑に落ちるまで聞いたほうが楽なのかと選択肢に悩む。優柔不断な陽子には難しい選択だった。

「応仁の乱と言われても……」

「ある意味覚えやすい名前なんだよ」

それはそうかもしれないが……。

陽子はこれ以上の問答は無駄だと力なく納得することにした。仮に大内くんからして覚えやすい名前だとして、別の問題が影から現れる。

「それで、どうして名前で呼んでくれないの?」

「別に呼ばなくてもわかるだろ? 俺が話すのはお前だけだから」

 一昔前の熟年夫婦の夫みたいなことを言ってくる。今の時代に言ったらコンプライアンスに引っかかる恐れがあることを平気にのたまう。応仁の乱くらい昔なら大丈夫だったかもしれないが、文字通り時代が違う。

「それはそうだけど……いや、よくはないでしょ。本当はほかの人と話したほうがいいよ」

「そうは言うけど、人と話しているところに話しかけることは難しい。俺が誰とも話さずに孤立でいることによって、孤立している人は話しかけやすくなって……」

「俺も話に混じっていい?」

「な?」

 ドヤ顔で自分の理論の正当性を主張するが、陽子と絶賛会話中の孤立とは無縁の状態で話しかけられたことに意外だという驚きの反応を見せた大内くんだった。理屈人間にとって、自分の理論外のことは受け入れられない部分があり、思想がショートする応用力のない人間か帰納法的に理論を再構築する応用人間に別れる。陽子は応用力がなく孤立する人間だが、大内くんはどちらだろうか?

 陽子の希望では、自分と同じ応用のない人間である。しかし、一人だけ勉強ができるという裏切り行為を思い返し、応用力がある可能性が高いと落胆した。人の不幸は蜜の味がするが、逆に人のすごいところを見るのは苦いものである。

 そんな思考をする陽子と何を思考しているのか不明な大内くんを見下ろす男子は、親しみやすい笑顔をこぼした。彼は足利くんであり、坊主頭で二重の快活な男子であり、クラスの中心人物であった。そんな人物がどうしてこの2人に話しかけたのだろう?

陽子の見立てでは、おそらくクラスのはみ出しものである陽子と大内くんに気を使って話しかけたのだろうということになった。もしかしたら大内くんも同じことを考えていたのかもしれないし、今日の晩御飯を考えていただけかもしれない。大内くんの表情には驚きは既になくなっていつもの仏頂面になっていた。

とにかく、今座っている2人の目の前に高き頂きのごとく立っている足利くんは、陽子から見て友達もたくさんいる孤立とは無縁の人だ。陽子からしたら羨ましいものだった。友達がいないのは嫌で、足利くんのように友達が欲しいと思う。

そんな友達が多いと思われる足利くんが、自分の登場によって会話が中断してしまった2人の間を取り持つように言葉を紡ぐ。

「友達がいないんだ」

 友達がいないんだ? 思わぬ言葉に困惑する陽子だった。冗談を言っているのかと勘ぐったが、その利点がないし、声の曇り方からして本気にしか聞こえない。しかし、いつもクラスの中心でワイワイしている人気者の足利くんに友達がいない?

「嘘でしょ? 周りにいくらでもいるでしょ?」

「上面だけの関係で、本当に仲がいい人がいない」

 というのが、足利くんの主張だった。陽子は友達が多かったことがないので実感として理解できなかったが、頭の中ではおとぎ話のように理解した。

 そういうものかなぁ。でも、友達となると……

「友達は嫌だ」

 大内くんがはっきり発言する。予想通りの出来事に陽子は安心さえした。ここが夢か現実かと迷った時は、頬をつねるより確実に現実だと判断できるくらいだった。

「どうしてだ?」

 足利くんは困惑しながら疑問を呈する。それも予想通りだし当然だ。陽子も大内くんも表情を変えないが、足利くんだけが怪訝な表情に変化していた。

「孤立が好きで、話し相手はいいけど、友達は嫌な人なの」

 陽子はフォローした。馬まで何回もしてきたので慣れたものだった。まるで熟練夫婦の妻であるかのように自然と言葉にした。

「そうなのか? 個性的な人だな……友達にならなくていいから、話し相手になってくれ」

「いいよ」

 大内くんは軽い言い方だった。足利くんは安堵の溜息を吐き、陽子に感謝した。陽子は感謝をする足利くんを見て、クラスの中心人物になるわけだと納得した。

それにしても、大内くんは扱いにくいのか、扱いやすいのか……


足利くんは解決策を考えて欲しいようだ。まぁ、大内くんのところに来る人は今まで皆がそうだったので納得いく。それにしても、足利くんのようななんの悩みもなく順風満帆そうな人でも悩みがあるなんて、世の中は思ったより地獄的なようだ。

仲良い人を作るためには?

その命題が大内くんに提出された。

「孤立するしかない」

 大内くんは即答した。

大内くんなら言うと思った。陽子にとって見慣れて光景だ。しかし、足利くんは不慣れな理論に狼狽していた。

虚を突くように大内くんは理論をさらに叩き込む。人によっては追撃で倒れてしまいしそうな理論の暴力だった。

「本当に仲がいい人は孤立した時に出会いやすいものだ」

大内くんが言うに、困ったときに離れていった人はその程度の人、助けてくれた人はいい人、そういう見定めをすることが大切らしい。それはどこか彼の価値観の1つである、来るものは拒まず去る者は追わず、に似た印象のあることだった。

そしてそれは、孤立して一番下の立場になったら人の本性が見える、という大内くんの考えとも似ているものだった。彼が述べたことが一貫していると陽子の心の中ではもっぱらの話題だ。

人というものは言動不一致する生き物だが、言葉すら一貫しない場合が多々ある。あるときには褒めたのに、影では悪態をつくのは当然の生き物だ。だから人間が嫌いだと陽子は思いながらも、自分が心の中で悪態をつくことに自己嫌悪するのが陽子の常だった。

それ比べて大内くんは言動一致するし言葉も一貫している。ある意味羨ましいが、ある意味息苦しく感じた。そして、自分と違う生き物に感じた。

陽子が自分と違う生き物と感じたと言ったら、足利くんもそうだ。困惑しながらも無碍に扱わず、優しく微笑んでくる。愛嬌が良ければ人間関係を円滑にできるということだろうが、大内くんや陽子は無表情に眺めるばかりだ。


足利くんは大内くんの提案をきちんと実行しようとした。人から離れて無言に仏頂面でいることが大切と、2人の孤立気味な人間に助言を頂いたのだ。

とはいえ、足利くんがいきなり孤立するのは難しい。生粋の孤立癖のある大内くんと陽子がコミュニケーション能力上達方法を助言されてもうまくいかないように、その逆が起きていた。

「足利―、聞いてくれよー」

「足利くん、今日の放課後は空いている?」

「足利は本当にいいやつだな」

周りの勝ち馬に乗りたい人たちは黙っていないのだ。たしかに見ていて可哀想だった。何も知らずにいたら、楽しそうだなぁと思っただけだ。

足利くんが言うように、表面上の付き合いが大変そうだ。無理に笑顔で話したツケが回って来たのだろう。無言に1人でいることに努める足利くんだが無理そうだ。

そういえば聞いたことがある、孤独は人ごみの中でこそ感じると。そう考えたら、大内くんは孤立ではあるが、孤独ではない。足利くんが諦めて周りの人に調子を合わせているのを横目に陽子は大内くんに探りを入れる。

「大内くんって、本当は孤独が嫌なだけじゃないの?」

「どうしてそう思うんだ?」

「否定しないということは、図星?」

 陽子は弱点をチクチクいたぶる様にニヤついた。ようやく大胆不敵な大内くんの弱みを掴んだのではないかと嬉しかったのだ。これをダシにして大内くんにちょっかいを出そうと企んでいたのだ。

「……まぁ、孤独は嫌だな」

 大内くんは少し上空に目をやって、考え込むように呟く。それは陽子がさらにいじめがいを感じた瞬間だった。

「つまり、人と群れて孤独を感じるのが嫌で、初めから孤立しているんでしょ?」

「そうだよ。自分の問題を自己解決したんだぜ」

うーん、解決かなぁ。大内くんの発言を怪しみながら陽子は人の弱みを発見した喜びで満たされていた。


「いや、ほかの解決策を考えてくれよ」

次の休み時間に足利くんが来る。その背後の遠くには、にらめつけてくる足利くんの取り巻き連中がいた。自分たちの利益である足利くんが他人に取られることを嫌がっているのであり、ジェラシーは怖いものである。

「無理だよ。孤立するしかない」

「だから、それが無理だよ」

 たしかに無理そうだ。後ろの取り巻きどもが黙っていない。

嫉妬のオーラが彼らを黒く大きく見せる。それは2倍3倍と天井まで伸びても無限に大きく成長し続けて、陽子を圧倒する。

身震いする陽子をよそに、大内くんは気にする素振りがない。胆力があるのか、空気が読めないのか。

「どうしてだ。周りの奴らなんか無視したらいいだろ」

「そんなことしたら、申し訳ないだろ」

「おまえ、変わっているな」

 大内くんのほうが変わっている。陽子はそう思う。


足利くんを孤立させる作戦1

無視する。

「おい、どうした? 元気ないぞ」

「悩みがあるなら、言ってくれ」

「カウンセリング呼んでくれ」

 余計に人が群がっていた。これが人徳というものか。


足利くんを孤立させる作戦2

 悪い噂を流す。

「私たちがどうやって噂を流すのよ?」

「友達と話している時に、それとなくだろ?」

「どこに友達がいるのよ?」

「俺にはいない。お前は?」

「私もいない」

「じゃあ、コイツ自身が言えばいいだろ?」

「自分で言ったら、成り立たないでしょ」


足利くんを孤立させる作戦3

 思いつかない。

 ……


そもそも、自分たちは図らずとも自然に孤立していた。だから、孤立する方法なんかわからないのである。鳥が飛び方をわからないように、魚が泳ぎ方をわからないように、孤立している人は孤立の仕方がわからないのである。

要するに、大内くんと陽子は生粋の孤立イストだ。

その事実に大内くんはうれしそうに笑い、陽子は悲しそうに落ち込んだ。足利くんが見かねて陽子にフォローしていた。

これはクラスの中心人物になるわ。私にも大内くんにもできない心遣いだわ。もう孤立しなくてもいいんじゃない?

そう思う陽子だった。

 そして陽子は気づく。

目的が変わってきたことを。

友達を作るではなく、孤立させることが目的になった。友達を作るために孤立させていたのに、本末転倒していたのだ。

そして、上っ面の人たちも友達に違いなかった。裏寒い接し方に感じても、まがい物の人間関係だとしても、友達だった。それはそれで大切だから、今のままの足利くんでいいと陽子は結論づけた。

そのことを大内くんと足利くんに伝えた。足利くんがはじめは納得していなかった、が説得されて了解した。大内くんは興味なさそうに了解した。

そして、足利くんは納得いくまで大内くんと陽子のところに来ると述べた。大内くんがはじめに納得していなかったが、が説得されて了解した。陽子は興味があるわけでもないわけでもないが、了解した。


孤立は進まなかった。

大内くんはそのことに不満げだった。


陽子は、大内くんの理解が少し進んだ。


「ふーん」

 ある女子が微笑んでいた。



「ようこー起きな……なんだ、起きてるじゃない」

「うーん」

「でも、遅刻ギリギリなのは変わらないな」

「うーん」

「あんた、最近学校に行くのが嫌と言わないわね」

「うーん。そう?」

 陽子は瞼をこすりながら、答えのない答えを空に飛ばした。その母の言うことは、陽子も内心で気づいていたことだった。陽子はかつてほど学校に行くことが嫌ではなくなっていたのだ。

 そして、睡魔から生じるあくびをしながら結局のところは馬耳東風のように聞き流した。朝は思考する余裕がないので、自転車に乗るときには体に任せるのと同様に、体を勝手に動かして登校の準備をした。相変わらず食事や身だしなみを整えることはサボっていた。

 ダッシュしながら駅へと向かう途中、同じ小中学校だった人と遠くから目があった。そこまで仲が良かったわけではないので、遠くから軽く会釈してそのまま去っていった。それは昔から変わらない習慣だった。

 陽子はやはり学校に行くことは嫌なままだった。未だに心臓を幽霊に掴まれているかのように痛めるときがある。それでもその痛みは塩をまかれて幽霊が退散したかのように和らぐことがあるのも事実だった。

 陽子は大内くんのことを思い浮かぶと、心臓の痛みが和らぐとともに別の痛みに縛られることがあった。和らぐ理由は孤立仲間がいることだと理解できるが、別の痛める理由は皆目見当がつかないのだ。

 そのまま陽子は電車に揺られる。


 朝の教室で陽子が席に腰を下ろすと、揺れを感じた。といっても地震や工事の振動ではなく、大内くんが貧乏揺すりをしていたのだ。

「昨日から不機嫌だね」

「そうか。そんなことない」

 そんなことあるから言っているのだ。不動明王のように身動きひとつしない大内くんの足がセミの羽のように忙しく動く。陽子は心配のあまり大内くんの弱みを探ろうという世俗的な考えを頭から切り離した。

「足をカタカタ揺らしているじゃない」

「それはいつもの通りだ」

「いつもそうじゃないでしょ」

 陽子はいよいよ親御さんの気持ちになった。明らか悩みがあるのに思春期特有の反発で上手く交流できない親は大変だ。陽子は大内くんの親でないからそこまで気にならないはずだが、それでも女郎蜘蛛に抱えられたような鬱とした負担を感じる。

「こんなもの、いつもと大差ない」

「それは、話し相手が増えたことに比べたら、ということ?」

 陽子は目の前の窓辺に腰掛ける足利くんに目を配る。黙って話を聞いていた足利くんは目があった陽子にニコッと笑顔を返す。陽子は笑顔を返そうとしたが、普段無表情の関係で表情筋がアリの一歩くらいしか動かず、傍から見て無視しているように見えた。

「俺は1人でいたいんだ。それなのに、どうして増えているんだ?」

 大内くんが血相を変えて狼狽している。冷や汗を垂らしガタガタと震えている。ほとんど冷静さを欠いたことがない彼にとって、周りに人が増えることはそんなに動揺することなのか?

 陽子はやはり大内くんのことがわからなかった。

「もとから私と2人でいたんだから、もう1人増えて3人になろうが変わらないでしょ?」

「違うだろ。というか、そもそも、どうしてお前と2人でいるのが普通になっているんだ?」

 たしかにそうだ、どうして2人でいるのが普通になっていたんだ? 改めて考えると不思議なことである。いつも1人でいた陽子にはなおさらだ。

「そんなに嫌なの?」

「嫌に決まっているだろ。俺の美意識が、くそ」

 変な価値観を持っているのは分かっていたが、嫌と言われることはショックだった。言われる予想はしていたが、それでも実際に言われたら傷つくものだった。あれ? どうしてショックで傷ついているのだろう?

 陽子は腹部の奥を虫が這っているようにムズムズして気持ち悪かった。

「美意識って、自分が孤立することでほかの人が安心する、というやつでしょ?」

「そうだ。お前たちが俺の周りにいたら、ほかの人が自分より下の人間がいないということで嫌な思いするだろ?」

「でも、それは建前で、周りに人がいることによって孤独を感じるのが嫌なんじゃないの?」

「それもあるが、それも含めて自己犠牲に生きがいを感じているんだ」

 変わった人だ。

 足利くんは手で口を覆って震えていた。陽子と大内くんとのいつもの光景が滑稽な光景に見えたのだろう。陽子は自分も変わり者として評価されていることをそこで再確認した。


「そういえば、孤立していると言ったら、山名さんもそうよね」

「誰だ、それは?」

「本当に人の名前を覚えるのは苦手ね。前のドアの近くに座っている女子よ。ほら、静かに座っているあの子よ」

 セミロングの静かな女性。西洋の彫刻のように彫りが深くて整った顔だった。その端正な顔立ちのせいか、周りから浮いて見えた。

「たしかに孤立しているな。今の俺よりも。だから、お前たち離れろ」

 そう対抗するように奮い立ちいつもの悪態つきに戻る大内くんは、周りから浮いた存在なるのは当然だった。そして、そういうふうに意図して行動しているふうにも思われた。意図なのか天然なのかわからないが、やはり孤立の申し子だった。

「でも、実は意外と人気あるんだ。それなりに話しかけられる時も見かける」

「そうか? 俺より孤立していないのならいいんだが」

 大内くんは鼻穴を膨らませてフッフーンと勝ち誇った顔を見せた。孤独の一点ではそれなりに表情豊かなのが単純でわかりやすい性格だ。印象は悪いが……

「大内くんと違って、いい人だ。印象だけどね」

「それはどうかな。女の本性が怖いぞ……」

 それから大内くんは、山名さんに関して色々と予測を立てた。

次のとおりだ。

クラスで人気の女性・高嶺の花・孤立する・言い寄ってくる男性をたぶらかす・どの派閥にも所属しない・あらゆる派閥を影から支配する・大内くんと陽子は思い通りに行かない目の敵・配下にするために話しかける・足利くん狙い・人間関係グチャグチャにする……

以上。


「――よくもそんなに根も葉もないことを言えるね」

「孤立するためには人のことを悪く言うことも効果的だ」

必要悪を演じているのか、本性なのか、演じていたら血肉化したのか……とにかく、大内くんはややこしかった。陽子は頬杖をしながら、陰口を叩く大内くんに幻滅して距離を取ろうと画策した。が、そうなると大内くんの手のひらで踊らされたようなものになり癪に感じたので断念した。

そもそも陽子からしたら、話し相手がいなくなってもとの嫌な孤立生活に戻るだけなので、距離を取るメリットがない。せっかくの安息の地を自らの手で放り出すのは現実を知らない箱入りのボンボンやお嬢様くらいである。そんな人たちですら親の教育や周りの環境によって手放さないように誘導されるので離れるのは稀である。

陽子は友達が少ないのが許容される環境があった中学までの生活を離れて、友達がいなかったり周りから迫害を受ける環境を体験して、話し相手が一人でもいる安息の地の重要性と希少性を実感した。だから、簡単に大内くんを嫌って離れる考えは毛頭なかった。それは彼女にとって大袈裟に言うと命懸けのことだった。


「わたしのこと話していた?」

山名さんが知らないあいだに近くにいた。陽子は頭越しに見上げて頭がクラっとなった。脳が動いたからか血流が逆だったからか、とにかく吐き気のする頭痛が陽子を襲った。

陽子は痛めた頭に思考を血流のように循環させた。足利くんも大内くんと陽子の会話に混じっている様子を視神経から脳にインプットさせて思考をアウトプットさせた。これ以上話し相手が増えたら大内くんがさらに不満を垂れると結論づけた。

大内くんは孤立じゃなくなって嫌がるが、足利くんも陽子も気にしない。おそらく山名さんも気にしない。孤立を好むのはわかるが、過剰に好みすぎている大内くんは致死量の栄養摂取をするように社会的に死ぬ行為だ。

少しは柔軟に人付き合いしたほうがいいのではないかと言おうと思ったが、そんなことは無駄だとも思って我慢する陽子。昔に数回言ったことがあったが、結局治す素振りが全くない。そもそも、陽子自身も人付き合いをする必要がない派なので、自分が違和感を覚える一般論を一刀両断されることに快感を覚えていたくらいである。

しかし、そんなことは今どうでもいい。今の問題は山名さんが話かけてきたことだ。おそらく毎度のごとく嫌がるのだろう。

そう思う陽子が疑問視したのが、大内くんは自分が話しかけることは嫌がらないのに、他の2人は嫌がっていたことだ。それに関して陽子はある思い上がった考えを持っていたが……いや、そんなことはない。そう自分に言い聞かせた陽子だった。


「何しに来たんだ?」

 やはり大内くんはお約束の言葉をぶっきらぼうに述べた。陽子からしたら聞き飽きた言葉で有り聞き流すものだった。足利くんは少し驚きと気まずさが入り交じった心情になったが、すぐにこれが大内くんの通常だと合点して小さく頷いた。

「え? 来たらダメだった?」

 山名さんは驚きと恐怖が入り混じった声の表情を挙げて一歩退いた。通過儀礼として皆が通る道であり、陽子も足利くんも自分の過去を振り返って懐かしんでいた。まぁ、一歩退くのは過敏に反応しすぎているとも思っていたが……

「山名さん、大内くんは理由を聞いているだけだから。あと、変人だから」

 陽子は咄嗟にフォローした。フォローになっているかは不明だった。足利くんからは「フォローになってないぞ」と笑い声でフォローを入れてもらった。

 咄嗟のことで陽子はつい本音を言ってしまったというところだ。陽子は恥ずかしくて頬を紅潮させた。恥ずかしがるもの・笑うもの・無表情なもの、三者三様をマジマジと眺めながら山名さんは述べるのだ。

「居場所を探していたのよ。楽しそうに見えたから」

大内くんは孤立した人の逃げ場だから、山名さんがきたことは彼の計算通りだった。それにしてもゴキブリホイホイのように次から次へと大内くんのところに人が集まる。もはや孤立とは無縁なのではないか、大内くんは?

大内くんの周りが楽しそうに見える……か。足利くんがいたからよけいに楽しそうに見えたのだろう。では、私はどう見えていたのだろう? 陽子はそう疑問を持つ。


「でも、他にも理由があるの。だから相談に来た」

 いい加減このやりとりを見るのも飽きてきたのであくびをしたい衝動に駆られる陽子だった。どうして皆は大内くんに相談に来るのだろうか、と神に問いたい陽子だった。自分も何かを相談しよう初対面を装う魂胆の陽子だった。

「それなら、先生とか友達に聞いたほうがいいのでは?」

「先生とか友達は、逆に相談しにくいわ」

 そういえば、同じことを言っている人がいたものだ。やはり大内くんが言うように、孤立した人や自分より下だと思われる人には本音が言いやすいのだろう。そう思う陽子の目の前で大内くんは鹿威しのように大きく頷くので、陽子は自分の心を見透かされたと肝を冷やした。

「友達がいるのか……まだまだだな」

 陽子の肝冷えは杞憂に終わった。孤立していることにしか興味を持たない大内くんだった。それでこそだという安心感が陽子を襲った。

大内くんは、自分の方が孤立していることをニヤニヤと勝ち誇っていた。見慣れたものだが、やはり価値観はずれている。

「まだまだ?」

 山名さんは瞳孔を開き不思議がった。少しリアクションが全体的に大げさな気がするが、気にしないことにする陽子。それよりも気にしたのがフォローすることだった。

「あぁー、それはいいの、放っといて。それよりも、相談は?」

「実は、目標がないの。やりたいことがない、あらゆることに意味を見いだせない」

なるほど、そういう悩みか。この時期の人によくある悩みであり、迷える子羊の考え方であり、真面目な人ほど陥るものであった。これは高校大学などが誕生したことによって生まれたモラトリアム期に発生する社会的病気である。


大内くん「あらゆるものには意味がないが、意味のないことをするのは素晴らしい」

足利くん「ゆっくり探したらいいと思う。俺もないし」

陽子「解決策はわからない、ごめん。」

各々は自分の考えを言う。各々が勝手なことを宣っているだけで、解決策が一つもない状態だ。納得していない愛想笑いの山名さんを前にして3人が沈黙して再思考する。

――


解決策を大内くんが息を深く吐きながら提言する。青天の霹靂のごとく沈黙を破ることだった。今までの経験上で期待はしていなかった陽子だが、耳を傾けた。

「孤立して瞑想する」

 瞑想って……

「修行じゃあるまいし」

 期待をしていなかったが、期待通りひどかった。いや、期待以上にひどかった。でも、陽子には慣れたものだった。

「修行だよ。人生は死ぬまで修行だよ」

「人生は死ぬまで勉強、みたいに言わなくても」

「同じようなものだ。それに、瞑想といっても難しいことではなく、今の言い方だと自己啓発だ。みんな好きだろ?」

 いや……

「それは偏見じゃない? みんなが嫌いな孤立を好きな人もいるんだから」

「そうか。とにかく、瞑想するしかない」

瞑想、それは昔からある修行僧や哲学者みたいなもの……


山名さんはきちんと言われた通りしている。置き忘れられたロシア人形のようにちょこんと1人静かにイスの上に佇んでいる。遠くから眺めていた女性の陽子からしてもため息が出そうなくらい絵になりそうな美しさだった。

「責任取れるの? あんなことをさせて」

「責任? あんなこと? 俺はいつもしているぞ」

 聞き方を間違えたようだ。大内くんに常識は通用しないのだ。あなたはこうだが普通はこうだと対比にして論理的かつわかりやすくすべきだった。

「大内くんは特殊なの。ほかの人は休み時間に一人で椅子に座って瞑想しないでしょ?」

「でも、することなくて寝たふりとかするだろ? それと同じだ」

「……そんな恥ずかしいこと言わないで」

 陽子は自分のことを思い返した。寝たふりや読書のふりをして孤立の難を逃れるのは、孤立で苦しむ人なら誰もが通った道である。陽子もその1人だった。

 そんな恥ずかしい過去の記憶をハエを払うように消し去って、陽子は山名さんを見た。そして過去の山名と照らし合わせた。そして気づいたことだが、いつもの山名さんと変わらない様子だった。

 そうだ、山名さんも1人でいるタイプなんだ。1人でいる姿が板についている。これは責任を取らなくてもいい。

 そう陽子は心の中で安堵した。今までの犠牲者である足利くんたちで感覚を麻痺していたが、1人でいることが苦でない人もいたものだ。クラスメイトの雑踏の中で凛と咲く一輪の花のように魅了していた。


「どうだった? 何かわかった?」

「進展なしよ。何もわからないままよ」

「それは残念だ」

 大内くんは口では残念というが残念がる素振りは全く見せない。残念がっているのかそうでないのかは陽子にもわからないものだった。そして、山名さんも気落ちしているのかどうか判断できない表情のない人間であり、ある意味お似合いに見えた。

「そうでもないわ。いつもと違って新鮮だったし、楽しかったわ。それに、きちんと私のことを考えてくれてうれしかったし」

「そうか。それはよかった」

「ありがとう。細川さんも足利くんもありがとう」

 山名さんはすごくいい人だった。足利くんみたいに気を使える人だ。陽子や大内くんと違っていい人だ。

成果が出なかったが、それでも文句を言わない聖人。そういう人間はあまり見てこなかった。特に自分たちのような孤立している弱い人間には遠慮なく罵倒するものだが、それがなかった博愛主義だ。

ほかの人は成果が出ないとすぐ文句言う。そういう人は何人か見てきた。それこそが人間の本性であり、差別主義だ。

そう考えると孤立していたら人の裏の顔がよく見える。大内くんの言うとおりだ。孤立は孤立で役に立つこともあるものだ。

そう物事がはっきり見えた陽子は、過去の大内くんの理論に相槌を打ち満足した。


しかし、陽子に見えていないこともあった。

何が見えていなかったかというと、山名さんのことだ。山名さんの本当のところを見ることができなかったのだ。では、本当の山名さんとは?

本当は山名さんにとって相談のことはどうでもよかったのだ。だから相談したことが上手くいかなくてもなんとも思わない。では、本当の山名さんの相談の目的とは?

目的は、大内くん・陽子・足利くんを手中に収めること、または関係をグチャグチャにすること、遠まわしにかき回すことだった。山名さんは可愛い顔して陰で人を陥れることに快感を覚えていた。自分の美しさを理解し、孤立することで弱い立場を装って、バカが近づいて来るところを、蜘蛛が糸を張って餌を招くように、または食虫植物が養分などで虫が寄ってくるのを招くように、ただひたすらにほくそ笑みながら待っていたのだ。

「うーん。うまくいかないな」

 山名さんは内面だけで言葉を発し外観では沈黙した。外から見ている分だと花や蝶やとまでは言わないが高貴な思考をお持ちに見える綺麗な顔と髪の毛を周りに魅了させていた。その演技に騙されるのは馬鹿な男子だけでなく女子も含まれていた。

「扱い方がわからない。どうしたものか」

 指で顎をさすりながら考える。周りから見たら交通安全や家内安全や就業成就とまでは言わないが何か世のためになる重要な考えをお持ちのように見える綺麗な目とスタイルが光って見える。場合によっては神をも騙す可能性があるその高貴さが、今まで彼女の悪行をバレないように彼女有利へと運命を変えていたのかもしれない。

「やり方を変えようか」

 山名さんは酸でドロドロになった排泄物のような邪悪な思考を持っていた。冷静な顔の下で血が火山噴火のごとく噴き出すくらいイライラさせて考えを巡らせる。顔の皮が厚いので周りにはバレずに深海のように涼しい顔だった。

そして思考する今までは簡単に成功した、しかし、大内くんには成功しない。それはなぜなのだろうか、と。

普通は孤立するのが嫌な人が引っかかるものだ。イジメとかは、孤立になりたくない人がなるものだ。孤立するくらいなら無慈悲な要求に応えたほうがいいという人がなる。

しかし、大内くんは違った。孤立をなんとも思っていない。そうなってくるとイジメとは無縁だし、罠にハメることができない。孤立に強い人間は、普通の人間から見て困るだけでなく悪い人間からも困る存在だ。

そして、その周りにいた細川さんや足利くんも啓蒙を受けている。孤立をなんとも思っていない節が強いので、やはり難しい。それに、困ったら最終的には大内くんのところに戻ればいいという安心感を持っているので、セーフティーネットである大元の大内くんを陥落させないといけないので骨が折れることだ。

山名さんは自信がないが作戦を立てる。大内くんを叩き落とす別の方法を。


 別の方法。

 大内くんを集団の中に入れる。孤立しているから上手くいかないのだから反対に孤立させなければいいという安直な考え。山名さんも半信半疑で一応してみようという考えだったが、考えるが難し産むが易しということで実践した。

 やり方は至極簡単で、山名さんが大内くんを褒めたのだ。そうなると、皆から一目置かれているあの山名さんが褒めたということで、パンダ観光のように人が集まった。そんなことが起きるわけがないだろと思われる案件だが、銀行が潰れるという噂で本当に銀行が潰れた事実があるので、それに近いことが起きただけだ。

「なにあれ?」

 カラクリを知らない陽子は単純に驚いた。自分の席まで覆い尽くす人の群れを唖然としながら扉付近で立ち尽くす。足利くんが快活に笑いながら説明する。

「山名さんが、大内くんを褒めたんだって」

「ふーん。よかったじゃん」

「どこが? 不機嫌そうな顔しているよ。嫉妬かい?」

 足利くんはニヤニヤしながら、不機嫌そうな陽子に焚きつける。彼の見立てでは陽子は大内くんに淡い気持ちを持っている。そしそうでなくても、人付き合いとしてこれくらいの冗談は普通だと考えていた。

「いや、不幸な目に遭ってよかったじゃん」

「あぁ、そっちの理由」

 陽子の興味なさそうな目を見て、足利くんは脈なしだと悟ってからかうのをやめた。引くときはきちんと引くのは流石だ。ただ、陽子が普段からあらゆることに興味がないことに気づいていないところは認識が甘かった。

 一方で陽子は心底穏やかでなかった。自分の心の拠り所がなくなる喪失感、自分が再び孤立してしまう恐怖、その他様々な感情が渦巻いていた。思考と感情がキャパオーバーしてしまい、いつも以上に表情を失っていたのだ。

 陽子と足利くんのことは山名さんからしたらどうでもいいことだったので、視界の外だった。山名さんの視界は大内くんに注がれていた。どんな些細なことでも見逃さないように監視カメラのように目を見張っていた。

 が、大内くんは知らないあいだに集団からいなくなっていた。いついなくなったのかわからなかった。そのことに気づかない群衆から目を離した山名さんは力なく項垂れた。


 さらに別の方法。

 大内くんをもう1度、孤立させる。今度も上手くいく気がしなかった。むしろ、上手くいかないバクみたいな存在を楽しみたい気持ちが山名さんから温泉のように溢れていた。

 そのために、陽子や足利くんに口裏を合わせていた。大内くんに近づかないように頼んだ。あの山名さんの頼みならと2人は快諾した。

「どうして今更?」

 陽子は一応質問した。挨拶程度のもので、深い疑問はなかった。

「細川さんたちがどんなに大切な存在なのかを、思い知らせるのよ」

「うーん。喜ぶだけだと思うんだけどな」

「そんなことないわ。押してダメなら引くのよ」

「……何と戦っているの?」

 大内くんは予想通り、喜々として気にしていない。

 

 結局、山名さんは大内くんを扱うことができなかった。山名さんが静かに大内君たちから去る。水と油だと思いながら。


大内くんは孤立した。

ぱっと見た感じ、何も変わっていない。いつもの大内くんだった。

が、陽子が思うに、大内くんの様子が少し変だ。足利くんや山名さんなどの周りは気にしていなかったが、何とも説明できない違和感を思えた。

もしかしたら、何かしらの効果があったのだろうか? 集団に入ったあとに再度孤立したことで、何かしらの心境の変化が訪れたのだろうか?

陽子は心配した。



「大内のやつ風邪だって」

 ただの風邪だったようだ。陽子は拍子抜けした。

 その情報が正しいのか、誰が言っていたのか、そういう考えをしながら陽子は大内くんがいない机の向こう側に広がる青空を飛行機雲が白いチョークのように伸びているのを目に映していた。それはすぐに掻き消えるものであり、自分の孤立しない学校生活がなくなることを連想した陽子は身震いした。しかし、考えすぎだとしてその悩みを雲のようにかき消した。

「珍しいこともあるものね」

 陽子は空虚になった大内くんの席を向いて頬杖をついていた。いつもはあって当然のものがないというのは、それだけで違和感を覚えるものである。例えば、いつもパンツを履いている人がパンツを履き忘れたら気が気でないのです。

 パンツというわけではないが、陽子にとって大内くんはもはやいて当然のものになっていたのです。今朝もそこにいない大内くんに話しかけようとしたし、今も何回も振り向いては空気しかないその空間に意識の型抜きをしてしまう。大内くんの輪郭が点線として陽子の脳裏に浮かび、想像上の話し相手が作られる。

 しかし、陽子はそれに話しかけなかった。小さい子供ならそういう想像上の友達に話しかけることがあるが、さすがに高校生になってもそれをする非常識はなかった。ただ、心の中の自分に向かって独り言を語りかけるくらいだった。

 まれに大人になっても架空の人物と会話する人もいるが、それはそれですごい才能だと思う。そういう人は何かしらの分野で第一線になる可能性がある。サヴァン症候群とか言われるものがそれだが、本来は誰もが持っているものだ。

 ただ、我々は社会化という学校教育の中でそうならないように矯正されているのである。世の中の歯車として扱いやすい人間になるためだ。しかし、綺麗に機能する歯車になれないものもいて、それが社会という何かに弾き飛ばされるのだ。

 常識だとか人間関係だとか、そういうものから弾き飛ばされる。それはそれとして世の中が円滑に循環するためには必要なものだが、はじき出された人はたまったものではない。しかし、そういう人は別の世界でそれ専用の歯車として奇跡的にマッチングしたらすごい力を発揮するものである。

 しかし、そのマッチングが起こることなく終わる人が大多数だ。または、自分がそういう特殊な天才だと勘違いする普通の歯車もたくさんいる。そして、そういう天才か凡人かという机上の空論は、得てしていろいろな人が好む議論である。


――そんなことはとにかく――


大内くんが学校を休んだ。生徒が1人学校を休むというのはよくある光景なので、滞りなく学校生活は進むはずだった。特に大内くんのようなクラスの中心人物というわけでもない人が休んだところで誰ひとり気にしないのが世の常である。

が。が、である。

クラスの皆が驚いていた。波打つようにクラスの人々が口々に言葉を発する。その言葉の熱気はクラスで竜巻のようにうずまき、人々の口調を伝染病のように熱くしていく。

「大内が来ていないとは、珍しいな」

「いつも1人で存在感を放っているからな」

「あいつがいたら、なんか安心するんだよな。自分のクラスにいるな、って」

陽子は、周りが大内くんを認知していることに驚いた。てっきり皆から忘れられた幽霊の存在だと思っていた。しかし、かつての孤立勝負を思い起こした。

「いや、前にいないことがすぐにバレたときがあったか……」

 陽子は自分の記憶を忘れていた。対戦相手が誰だったかを忘れたが、圧倒的勝利で周りに存在感を放っていたのを想起した。そうだ、大内くんは有名人だった。

 いてもいなくてもどちらでもいい存在ではなく、皆から見下される存在として必要悪なのである。俺はあいつと違って友達がいる、私はあの人みたいに1人ぼっちではない、というような安心感をもつために人がやり玉に挙げるために必要だ。クラスのリーダーが上からクラスを束ねているように、クラスの外れものは下からクラスを束ねているのである。

 そういえば大内くんが言っていた言葉に、上から助けるヒーローではなく下に見下されて助ける人を目指す、という内容のものがあった。アンチヒーローとしてクラスをまとめる役を買っていたということになるのだろう。そうなってくると、いよいよ陽子は自分の存在がなんなのかという無力感に襲われる。

 しかし、一方で大内くんが皆に認知されていることを誇らしく思ったのは事実だ。同時に、自分だけのものではないことに孤独も感じた。子供が巣立ったときに親が悲しみを感じるように、陽子も大内くんが遠くに離れていくことを感じた。

陽子は大内くんがいなくて少し寂しかった。足利くんが話しかけてくれたが、寂しさが埋まらなかった。孤独に打ちひしがれて、膝をついて泣きたい気持ちだった。

足利くんが去ったのもわからないくらい上の空の陽子は、ため息を吐く元気すらなく茫然自失だった。チャイムがなろうが授業が始まろうが意識の範囲外だった。今までの習慣で勝手に体が動き授業態度は良好だったので、誰も異変には気がつかなかった。

いや、陽子の異変に気づかない理由はそれだけではない。単純に陽子がクラスの人たちから認知されていなかったのだ。大内くんと違って、本当の意味で孤立していたのは陽子なのかもしれない。

そう気づくと――いや、初めから気づいていたが気づかないふりをしていたと気づくと――陽子は不意に涙が溢れたことを認識した。すぐにあくびのふりをしてごまかして泣いていませんアピールをした。どこの誰にアピールしているのかわからないが、陽子の自意識過剰な周りの目線を気にする癖が現れた結果だ。

陽子は思考の渦に飲み込まれていた。悲しみ・失望・憎しみ等の負の波が陽子を闇の底に引きずっていこうとする。その波には手が生えており、それが掴もうとする度に陽子が振りほどくがひっきりなしに襲ってきて、ついに力なく底に沈んでいく。

そういう夢から目が覚めた陽子は、自分の体が不意にビクッと痙攣していることを覚えた。そして口が渇き服の下が汗だらけであることを感じる。変に体の感覚が鮮明で、眩しく光る空気中の埃、教室の雑音の合間に聞こえる冷蔵庫の音、チョークと土と人が混ざる匂い、その他様々なものが彼女を襲う。彼女はもう何も考えたくないし感じたくないので、抜け殻のように座っていた。

ずーっと座り続けることで尻がマヒしていた陽子だが、それどころではない。話し相手がいない高校生活という闇の中に現れた希望の光である大内くんという希望がいなくなり、鳥のように飛んでたどり着いた高いところからどん底に叩き落とされたのだ。人というものはずーっと辛いことがあって地べたにすすっていても感覚がマヒして辛さを忘れるが、一度希望を与えたらその落差で心を強く痛めるのだ。

そうだ、大内くんがいなくなったら終わりなんだ。いつまでも大内くんがいるわけではない。来年になってクラス替えになったら別れるかも知れないし、仮にそこで一緒だとしても卒業したら会わないだろう。

どうしてそんな簡単なことに気付かなかったのだろうか? ここで大内くんに依存していても何も進歩がないということを。このままでは友達も話し相手もできないままである。

陽子は絶望した。自分に、世界に、孤独に絶望した。それは彼女にとって高校進学のときと同じように、勝手に抱いた希望から客観的な現実への絶望だ。

終わりだ、終わりだ、終わりだ!

陽子は頭を抱えることもせず。この4文字を頭の中で堂々巡りさせた。彼女の見立てでは、もう誰も話し相手になってくれない。

しかし、周りの女子が話しかけてくれた。

「あのー、細川さん?」

 陽子は反応しなかった。堂々巡りの言葉が脳から耳の外に外部の言葉を追い出したのだ。一種の馬耳東風。

 周りの女子が心配そうに顔を見合わせて、少し大きな声で同じ呼び掛けをする。

しかし、陽子は反応しなかった。自分が呼ばれているなんて思っていなかったのだ。細川はクラスに1人しかいなかったが、自分に話しかけるものは0人か悪人しかいなかった。だから、勘違いで恥をかくかいじめられるしかないと思ったので無視した。

周りの女子が再度呼びかける。

陽子はさすがに応えることにした。これ以上シラを切ることは不可能だと思ったのだ。馬鹿にされないように冷静を装って。

「え? あっ、はい」

 動揺した。人と話すのが苦手な人間の末路だ。甲高い声と引きつった顔で目を泳がせた。

 周りの女子は陽子の動揺に対して動揺していた。数にして3人といったところか。その周りにいる3人の女子の1人が陽子に対して、覚悟したように息を深く吐いた。

「前から、少し話したいなぁと思っていたんだ、私たち」

「そうなの? でも、きゅうにどうして?」

「いつも大内くんと話しているから、変人だと思って話しかけにくかった」

陽子に友達がいない理由の1つとして、大内と会話していることがあったらしい。陽子は自分に照らし合わせたら、たしかに集団や誰かと話している人には話しかけにくいと納得した。陽子自身も大内くんに話しかけたのは、変人だからではなく1人でいたのが話しかけやすかっただけだ。

そうか、大内くんと話していたから周りの人は話しかけにくかったのか。そうか、大内くんが変人だから話しかけにくかったのか。そうか、大内くんと一緒だから自分も変人だと思われて話しかけにくかったのか。

あいつのせいか……

そう陽子は頭を痛めて納得した。


 陽子は話しかけてきた女子と少し話をしたら別れた。今度の人たちはいじめてきた人たちと違っていい雰囲気だった。もしかしたら表面上の雰囲気に騙されているだけかもしれないが、多少は色々とクセの強い人たちの本性を孤立の立場から見上げてきた陽子の肥えた目利きではいい人たちだった。

 そうだ、大内くんが言ったとおり、孤立したら人の本性が見えるのだ。表面上はいい人が悪い本性を見せたり、その逆だったり、表裏がなくいい人または悪い人がいる。

 恋愛相談に来た人は、表向きはいい人だが内心は悪かった。彼女は最終的に陽子と大内くんを悪く言ってきた。そんな人は嫌だ。

 勉強の相談に来た人も同様だ。大内くんに非があるのは事実だが、相談に乗ったり勉強を教えてくれたりした人から離れて素知らぬ顔で別の人と仲良くするなんて、いい性格している。大内くんが去る者は追わずの精神とはいえ、いい気分ではない。

 暗い人は裏表がなく筋が通っていたのが好感だった。最初に意味わからない理屈で勝ち誇っていたことに悪い印象を持っていたが、中身も同じく悪い印象だった。しかし、正直者というか一貫性があるのは好印象だった。

 足利くんは裏表なくいい人だった。それ以上でもそれ以下でもない。

 この前相談に来た人は……


 陽子は思考を次から次へとベルトコンベアのように運んでいた。そして、そのまま思考を暗闇の底に置いていった。そして、知らぬ間に目を閉じていることに気づくのだ。

 そのまま思考を続けた。自分と大内くんのことを考えた。

 陽子自身はどういう人間だろう? 自分のことは自分が一番よくわかるという考えと、客観視できないからわからないという考えがある。陽子は常々自分のことが自分でよくわからないと思っていたので、ちょうどいい自己分析のタイミングだと前向きになった。

 裏表はあると思った。表向きはひとりでいることが好きだと強がっているが、内心では嫌で嫌でしかたがない。いや、高1になって初めて嫌だと気づいたのだ。

 また、大内くんを表向きは馬鹿だと思いながらも、根本のところでは依存しきっていたのだ。自分が気づかないところで裏表があったことに気づく。陽子は今までの自己問答から裏表がある人間が嫌いだと気づき、それが自己嫌悪の原因だとも気づいた。

 では、大内くんはどうだろうか? 演繹法的に推測すると、陽子が嫌いではないから裏表がない人間だろう。そしていい人か悪い人かで言うと……いい人……悪い人? そこの判別は困った。

 先に述べた通り、陽子が苦手な人は裏表のある人であり、筋が通っていたら性根が悪くてもそこまで嫌いではない。もちろん好きではないが、希望の先の絶望はよりきついように、普段優しい人が怒ったらより怖いように、落差で嫌なところが際立つのである。落差がない大内くんはいい人なのか悪い人なのか、どちら?

 口は悪いが、根はいい人だと思う。そもそも、言っていることもいいことばかりである。人助けのために自分が孤立すると言うのだから。

 そう考えると、その他人を助けるための孤立とは本当のことということになるのだ。裏表のない正直な忌憚のない意見だったのだ。そうなると大内くんは人助けをするヒーローということであり、それに陽子自身が助けてもらっていたということだ。

 それにしてもヒーローか……

 陽子は大内くんにヒーローが似合わないと思い、思わずプッと唾を吐いて腹式から笑った。横隔膜が痙攣しているのを感じながら、されどシャックリは出ないようにコントロールしていた。意外と冷静に体をセーブしていたということなので、それだけ大内くんのヒーロー像がおかしくてたまらなかったのである。


 そんな冷静な陽子がクラスを見渡すと、不思議な雰囲気に気づく。クラス全体に締りがなく感じたのだ。どこかセラピー犬のようにフワフワと、されど番犬のようにギラギラした目で各々が何かを嗅ぎまわっている様子だった。

 陽子は自分で考察した。いつもなら考えなしに大内くんに質問するのだが、いないものは仕方がない。嬉しそうに自分の意見を質問の返事にのせる大内くんと、それを心地よく聞いている陽子の姿は今日にはなかった。

 今日あったのは、風に揺らされざわめきたつ草葉のようなクラスメイトたちだった。大内くんという下に敷く土台を失った彼らは、枯れた葉のように生気を失い目が死んでいた。自分がいつ下に蹴落とされるかわからない状況下で、目を充血させて正気を失っていた。

 誰かを蹴落として自分は安息の地から見下ろしたいという欲望がクラス中に入り乱れ廊下まで溢れ出ていた。その黒炎のようにどす黒い熱気を浴びた通行者は、あるものは吐き気を催し、あるものはそそくさと足を速め、あるものは全く気にしなかった。よほどの鈍感でなければ異変に気づくものであった。

必要悪として見下しの対象だった大内くんがいないから、誰か別の敵が必要だ。共通の敵を作ることによって団結を強めることは多々あることだ。ナチスによるユダヤ人迫害がその例として有名だ。

そういう必要悪として皆の犠牲を買っていた大内くんがいなくなった今日、起こることは2つである。団結力がなくなるか、代わりの必要悪を生み出すかである。どちらにせよ昨日までとは違う。

この世には最大多数の最大幸福という考えがある。簡単に言うと多数決だ。より多くの人が望む幸福が選ばれることがあるのだ。

その考えにより少数派は迫害を受けるのである。残酷なことだが、それによって多数の人が救われるのなら良いと言われている。それが世の常人の常だ。

したがって、団結力がなくなって多くの人が困るより、誰かを必要悪にけしかけることが普通のことだ。クラスメイトたちは誰かを孤立させようと静かに探り合っていた。場合によっては痺れを切らして声を荒らげるものもいた。

「お前、話しかけてくんなよ」

「そういうお前も、こっちくんなよ」

「お前はどっちの味方だ」

誰かを孤立させるイジメみたいな流れが生まれた。陽子は戦々恐々と震えていた。孤立したりいじめられたりしたことを思い出す。

「細川さん、クラスが大変なことになっているね」

 それは足利くんだった。座っている陽子は見上げて応える。

「やっぱりそう? 私の気のせいじゃなかったんだ」

「ぱっと見ではわからないが、どこか歯車が狂った感じだな」

先に言うが、陽子は足利くんのおかげで助かった。前にも言ったが、足利くんはクラスの中心人物である。このクラスの構造は、足利くんが上からまとめて、大内くんが下からまとめる形で成り立っていたのだ。

大内くんがいない状況でも、足利くんがいるからまだ成り立っている。しかし、勝つ馬に乗りたくて足利くんに近づく人の動きが過激になっていた。陽子と足利くんがすこし会話しただけで、大げさに割って入り陽子をにらめつけるものたちがいたのだ。

足利くんは申し訳なさそうな笑みをこぼした。陽子は仕方がないと目で合図した。そのまま足利くんは帰ってこなかった。

大内くんの関係者は助かった。その延長線上で陽子も助かった。

関係ない人でも助かった人はいる。三好・松永・北畠・足利・山名も助かった。

全く別の人、六角くんがターゲットになった。特に特徴がない男子だった。

「ぷー、六角のやつ、1人で気持ち悪」

「そもそも、あんなやつこのクラスにおったか?」

「いてもいなくてもどっちでもいいだろ」

別に六角くんはもともと特別に孤立していたわけではなかった。誰かと仲良く話していたのだ。それは、今日も、大内くんがいないと分かるまではそうだった。

しかし……

「こっち見ろよ。どうせ聞こえているんだろ?」

「うわっ、こっち見たよ、うっとうしい」

「同じ空気を吸うだけで嫌だな」

六角くんは急にハブられて、悲しそうに1人で席に座っていた。肩はわなわなと震え、顔は机に向いて俯いたままだった。陽子はかつてに自分を見ているような気がして、いたたまれなくなった。

「かわいそうに。話しかけないと」

陽子は言葉とは裏腹に話しかけることはしなかった。そんな根性はなかったのだ。人見知りから来る恥ずかしさが可哀想を上回ったのだ。

それだけではない。ここで変に動いたら自分が孤立させられるおそれがあったのだ。陽子は他人より自分が可愛かった。

他の人も同様だ。だれも話かけるものがいなかった。自分があの孤立した立場と違うという安心感が勝っていた。

しかし、それは仕方がないことだ。人というのはどんなに綺麗事を並べても、自分が一番かわいいのだ。窮地に陥ったら、汚い本性が見えるものだ。

陽子は周りの人を嘲るとともに自分のことも同様だと嘲笑した。やはり自分も腐った人間だと心底理解したからだ。

こういう時、大内くんはどうするのだろうか?

陽子は思案した。

あの変人ならどうしたのか、と。そして、何もしないだろうと思う。大内くんなら、ただ1人で傍観しているだけだろう。

そして、蟻地獄にかかったアリのように自分に近づいてきた人を招くのだろう。そこから先は来た当人に任せる。そのまま自分といたければいてもいいし、去りたければ去ればいい、ということだろう。

だから、陽子は大内くんと一緒にいたし、最近なら足利くんが同様だ。もちろん、去っていく人も多数いた。そこまで関与しないのが大内くんだ。

一方で、陽子は1人でいても話しかけられないし、去っていく人は裏切り者として恨む。今まで大内くんから去っていった人たちに陽子は憤っていたのだ。癇癪を起こさなかっただけで、勝手に睨みつけていた。

その威嚇は外に影響がなく、ただの自己本位だった。そうしないと陽子の鬱憤を発散しないのだ。直ぐに裏切る人間のクズに唾を吐きかける心境だったのだ。

去る人間を全く気にしない大内くんに苛立ったこともある。自分の仲がいい人が他人に舐められていることに我慢できなかったのだ。そして、信念通り全く気にしない大内くん自体にもイライラした。

陽子は自分の思い通りに行かない世界が嫌だった。だから人との交流を絶ったところもある。それが陽子の悪いところだ。

それを大内くんにも当てはめていたのだ。大内くんが自分の思い通りに行動しない。そのことにイライラしたのだ。

それとともに、大内くんが自分の予想の範囲外の行動を取ることに快活さを覚えることもある。この閉塞感のある在り来りな世界を壊してくれる可能性があるのは大内くんしかいなかった。それに期待しているのも事実だった。

陽子はそういう矛盾を抱えていたのだ。怒りと喜び、求めるものが予想通りと予想外、その他いろいろな感情を澱ませていた。いろいろな色を混ぜると黒くなるように、陽子の心も黒くなっていった。

そんな黒い心を持った陽子が黒い目で六角くんを見ていた。話しかけることもせず、ただの観察。アサガオかアリを見ているふうに。


1人で悲しそうな人なので話しかけにくい・六角くん

1人で楽しそうな人なので話しかけやすい・大内くん


 そう対比して陽子は見比べていた。そして、自分は六角くんみたいなタイプだとも判断した。そう考えると、自分はなんて辛気臭くて要らない存在だろう。

 孤立して周りから見下しの笑いをされても笑い飛ばすようなピエロ的存在またはえたひにん的存在は、社会を潤滑させるためには昔から必要だ。踊る阿呆に観る阿呆同じ阿呆なら踊らにゃ損々というが、陽子のように見るだけでの人間より大内くんのように見下される役割を全うしている人のほうが社会の役に立っているのだろう。そうだ、陽子や六角くんのようにいてもいなくてもどちらでもいい没個性的な人間なんか要らない。


大内くんみたいな人は必要だ。


そう結論づけた陽子の目前で、人々がいつも通り生活を送る。あるものは腰を下ろして談笑を、あるものは本を片手に孤立を誤魔化し、あるものは机に唾液を垂らしながらイビキをかく。何事もなく物事が進む恐怖。

大内くんがいなくなったことに先程まで慌てふためいていたものたちはすでに落ち着きを払っていた。それが陽子には恐怖以外の何者でもない。誰かを犠牲にして自分さえ安全であるならばそれでいいという人間の醜い業に恐怖したのだ。

大内くんのポジションが別の人に変わっただけの世界。六角くんが代わりに犠牲となっただけの世界。そんな世界。

構造としては全く同じなのに全く違う見え方。吐き気を催す悲しい目を向けてくる六角くん。それを無視する平和なクラス。

地獄のように陽子には見えた。大内くんのように笑い飛ばす異端者がいないだけでここまで鬱屈とした雰囲気になるのかと愕然とした。それは陽子以外も気付いていることではあったが、気づかない素振りをしていた。

変に介入すると自分が異端者として虐げられるからだ。人は自分が下に扱われることが嫌なのだ。もちろん陽子もそうだ。

陽子は孤立ではなくなったのに、嫌な気分。周りに対して嫌な気分だし、自分に対しても嫌な気分だった。挙句の果てに六角くん、はたまた大内くんに対しても八つ当たりのように嫌な気分となった。

周りの人々は六角くんに対して初めは悪口を言っていたが、沈静化していた。冷たく当たるわけでもなく無関心に景色と同化させているのだ。目に分かるいじめがあるわけではないから、一見すると平和だ。

しかし、今となっては周りが悪口を言うわけでもないのに気持ち悪い。悪口が飛び交うほうが平和と勘違いするくらいだ。眠いだのだるいだの、たわいもない会話が聞こえる。

無言の無視が同調圧力として襲っている。皆が六角くんから意図して視線を外しているように見える。陽子自身もその1人であり、目が合いそうに察知したら知らぬ顔。

クラス全体に息苦しい粘膜が覆っている感覚だ。視界は暗くないが、ぼやけて窒息しそうだ。唾液をゴクリと飲み込んでも乾きはおさまらず、耳鳴りがキーンと襲うのみだ。

普通の生活は地獄だ。雑踏の中に飲み込まれて天にかざした手をも沈められる心持ちだ。陽子は自分がいじめられているわけではないのに苦しみで泣きそうだった。

大内くんがいたときは、こんなことがなかったのに……


翌日、大内くんが戻ってくる。

なに食わぬ顔で自分の席で読書に興じている。あまりにも普通にいつも通りにいるので、陽子は自然といつも通り会話をしかけて、ハッと我に帰った。昨日いなかった人間が帰ってきていたのだ。

陽子は驚きのあまり声をかけられなかった。出ない声で震える体を堪えながら、平静を保とうとした。しかし、どうしても声をかけられない。

「六角、元気だったか?」

「昨日はごめんね。でも、水に流してくれるよね?」

「友達だろ? もしかして、文句でもあるのか?」

 遠くで声が聞こえた。陽子が目をやると、六角くんの周りに人が集まっていた。談笑し合うその様子で陽子に悪寒が走った。

六角くんが孤立しなくなり、代わりに大内くんが孤立に戻る。ただそれだけの平和な世界に元通りだ。それに違和感を覚えた陽子が周りに壁を感じてワナワナと震える。

周りはいつもと変化がないように、昨日のことがなかったように風景が溶け込む。それが彼らにとって望むものであり、自分が孤立などの問題に巻き込まれないようにする処世術だろう。人によっては力づくで、人によっては自然に、そうやって誰かを犠牲にして安息の地を得ることに人々は躍起なのだ。


2日前と何も変わらない人々。

そんな中、変化のある人もいた。陽子または陽子に話しかけた昨日の女子たちだ。この日も陽子は彼女たちに話しかけられた。

陽子は昨日できた友達と関係を継続する。夢にまで見た友達だ。陽子は談笑に興じて、先程までの鬱とした感情を忘れた。

しかし、問題が発生する。

大内くんに話しかけにくいのだ。先ほど話しかけるタイミングを失ったことに拍車をかけて、一緒にいることになった女子との付き合いがあるので疎遠になるのだ。陽子は後ろ髪を引かれる思いで大内くんを振り返ることがあるが……

「まぁ、そのうち話しかけるか」

そのまま大内くんとは疎遠になった。

六角くんを含めていろいろな人は元に戻っているが、陽子にはそれが無理だった。なぜなら、違和感がすごかったからだ。陽子は敏感かつ繊細で、違和感を少し感じただけで引きこもる人見知りだから仕方ない。

むしろ、どうして昨日の変化から今日の日常に戻れるのか? 顔の皮が厚い化け物たち。それが陽子が心の中で吐き捨てた言葉だった。


大内くんは孤立に前進する。

陽子は孤立ではないが、孤独を感じる。

陽子が離れたことによる大内くんの様子は、わからない



「今日こそは」

 陽子は覚悟を決めた。


「――やっぱり無理ぃー」

 陽子の覚悟を実行できなかった。

いつものように教室の片隅で読書する大内くんに対して、陽子はいつものように話しかけることができなかった。口だけの人間だった。陽子自身が嫌いなタイプの人間だったことに自己嫌悪を覚えることはいつも通りだった。

そういえば、大内くんは口をあまり出さないが、基本的には口に出したことは実行する人だった。口に出さないことも実行していただろう。自分とは違って立派な人間だ。

そう大内くんを心底賞賛する陽子だったが、それを表現することはなかった。今の話しかけにくさが原因か、元からの恥ずかしがり屋が原因か、それ以外の原因か。

とにかく陽子は机にかじりついていた。椅子に下ろした腰が石のように重かった。大内くんの存在を左に感じながら正面の黒板と壁を交互に凝視するのみだった。

圧迫感を感じ、目は充血を感じた。カメレオンのように眼球が飛び出ている気分だった。心臓バクバクだった。


陽子はその後も大内くんと話すタイミングを伺っていた。一度として目を向けなかったが、心の中では何回も大内くんの方向を振り向いた。想像の中では今まで通り流暢に話しかけていた。

「今度こそは」

 陽子は心の中で何回も「今度こそは」と唱えた。滝行をする修行僧のように一心不乱に唱えた。大内くんに話しかけることだけが願いだった。

 ついに決心がついて、席から立ち上がろうとした。絶対に話しかけるぞ、という断固たる意思を持って息巻いた。野獣のような鋭い目で大内に向かう。

「陽子、一緒にお手洗い行こう」

 友達の声を聞き陽子は中腰で固まった。

 そして、意思に反して、そのままなめらかにトイレに向かった。牙を抜かれた動物園のペットのようにおとなしく友達に従った。陽子は「自分の決心は本当だが友達の頼みなら仕方がない」と強がりながら心のどこかで安堵していた。


「どうやって話しかけていたっけ?」

 陽子は決心とは裏腹に、決行できなかった。お手洗いから帰って友達と別れてから席に1人物思いにふける。同じことばかり心で呟いた。

 考えれば考えるだけ袋小路だ。考えるがが難し産むが易し、という言葉が頭に浮かぶ。そして、その言葉が袋小路にはまって渋滞している。

 ごちゃごちゃとした思考が心臓と胃腸をずしりと重く痛める。脳から悪いものが血液循環したのかと思われた。毎度のことだが、心配事は体に悪い。

 陽子は常に考えすぎて気を病んでしまうのだ。だから人と距離を保つのだ。そして孤立するのだ。

 そんな陽子を救ったのが大内くんだった。ここで大内くんと離れることは、再び状況が悪化すること必至だ。悩んでいる場合ではない。

 腹をくくるか……

 陽子は肺が痛くなるくらい深く強く息を吸い、意を決して大内くんの方向に歩みを進めた。血が体中を回るのが分かる。火照ってきた。

 あと3m

 心臓の鼓動が痛い。血管がジンジンと震える。吸った空気が冷たい。

 あと2m

 全身の血管に血潮が熱く疼く。吐いた息が熱い。

 あと1m

 脳がオーバーヒートしている。

 あと0m

 陽子は大内くんの前を通り過ぎた。

……話しかける方法を失ったままの陽子は窓辺から顔を出して空を眺めるフリをすることで精一杯だった。


「学校では無理」

 陽子は自分に言い聞かせるように呟く。頬の火照りを外の風に当てて冷やしながら、頭も冷えていた。春から夏にかけての季節なので、そこまで涼しくはなかったが、それでも陽子の一時的な体温には優しかった。

 そして、問題の先送り。それは陽子がよくすること。これで物事が好転することは一度もなかったが、一時的な精神安定剤としてやめることができない。

 下校時に先延ばしすることになった。そこで話しかけることができるかは不明だが、それまでは胃腸がキリキリすることがなくなる。陽子にはそれが一番だった。


下校で話すことにした。

が、大内くんはすぐにいなくなる。もちろん、予想は出来たことだった。いつも知らないうちにいなくなる大内くんを見ていきたのだ。

「くそ、見失った」

 口とは裏腹に陽子は安心していた。口元は緩み、こうなることを喜んでいた。自分は話かけようとした、という達成感が欲しかったのだ。

本当は話しかけたくなかったのだ。しかし、話しかけないといけない状況だった。したがって、相手のせいで話しかけられなかったということにして責任逃れをしたかったのだ。

内心では良くないと理解しながらも、そういうあくどいことをしてしまうのが陽子であり、人間の業だ。自己嫌悪に陥りながらも、それが陽子の、小心者の生き方だった。そして、自分を正当化するために、自分を騙すためにもう一言。

「くそ、大内くん、見失ったなぁ」

 校門まで歩みを進めた陽子は安堵の笑みを噛み殺して困った演技をしながら佇む。


「――あら、大内を探しているの?」

 その声に陽子はビクリとする。まさか大内くんのことで反応する人がいるとは思わなかったからだ。あとは人知れず下校するだけだったのに計画が崩れた陽子だった。

「えーっと……」

 陽子は声の主に目を向けた。その女子は肩まで伸ばした髪を落ち着かせていた。上品な雰囲気を漂わせていた。

「違うの? いつも大内と一緒にいるでしょ?」

「探してはいますけど……あなたは?」

 陽子はその女子が誰なのかわからなかった。もしかしたら同じクラスの人かもしれないが、人の顔と名前を覚えるのが苦手なので難題だった。それは陽子にとって、全く覚えない大内くんと比べてマシだから感覚がマヒしていた欠点だった。

「初めまして。私は陶よ。あなたたちとは違うクラスだから、わからないわね」

「はぁ」

 陽子は知らなくて当然だったことに安堵するとともに、どうして話しかけられたのか不思議に思った。ため息混じりの承諾をする陽子に対して、優しく微笑む陶さんだった。自分は敵ではないと警戒を解く方法であり、陽子や大内くんなどと違ってできる人間が使える潤滑油である。

「ちなみに、大内とは幼稚園から一緒よ」

「幼馴染ですか」

 陽子は先程から陶に対して遠慮がちだった。単純に人と接することが苦手だからということもあるが、大内くんの知り合いということが引っかかったのだ。あんな人間に知り合いがいるという当然のはずなのに覚える違和感と、大内くんの知り合いというアイデンティティを失った喪失感の引き金を引くものだった。

「あなたは大内の友達ね」

 友達、という言葉。陽子はさらに引っかかった。友達なんか要らないと豪語する大内くんと、友達が欲しくてもできない自分との違いをさらに感じたのだ。

「友達……なのかはわからないです。話はしますが、大内くんは友達は作らない主義と言っています」

「まだそんなこと言っているの、あいつ?」

 陶さんは呆れたように苦笑いした。どうやら昔から言っていたらしい。陽子は自分だけが友達になりたくないと大内くんからのけものにされたわけではないと分かり、ホッと胸をなでおろし口角が上がった。

「ははっ。そうですね」

「それで、大内の家に案内したらいいのね」

 陶さんはやれやれといった感じに右手で髪をかきあげた。一肌脱いてやろうといった印だろう。それを察知した陽子は拒みたい衝動に駆られた。

「いえ、そんなつもりは。明日また会いますから」

「思い立ったら吉日よ。さぁ、遠慮せずに」

 陶さんは無邪気に陽子の背中を押した。そういうお遊戯のような感覚は人を童心にかえらせて友好度を上げるものだが、そういうことが苦手な陽子は嫌悪感を抱いた。しかも、大内くんには会いたくないからさらに足が重い。

「でも……」

「あっ! 電車賃がかかるなら私が払うわよ」

「それは大丈夫です。自分で払います。定期健の範囲かもしれないですし」

「まぁ、遠慮しないでね」

 遠慮はしていない。本当に大内君の家へ行くのが嫌なのだ。しかし、それをハッキリ言う根性は陽子にはなく、ハッキリ言う大内くんが羨ましいと常に意識していたことをこの期に及んで発見した。

「それよりも、どうしてそこまで面倒を見てくれるのですか?」

「あなたが気になるの。あんな変人と会話が続くなんて」

大内くんの幼なじみである陶さんに、大内くんの家まで案内してもらうことになった。それにしても、大内くんと同類の変人扱いされているのではないかと、懐かしい気持ちになった。以前は悲しいだけだったが、今は嬉しいような悲しいような複雑な気持ちに変化している陽子だった。


途中の会話。

電車の中で。ガタンガタンと揺れる中で。

2人は席に隣合わせになりながら南下する。窓から差し込む夕焼けをバックに、前方の空席を見つめる。ホームルーム後すぐの帰宅なので、ほかの学生は疎らだった。

早い下校なのに、大内くんの姿はなかった。さらに1つ早い電車に乗ったのだろう。電車で会わなかったことに陽子は今日何度目かの安堵をした。

沈黙の中、陶さんは口火を切った。それは、大内くんのことだった。

陶さんが語る昔の大内くん。

「幼稚園の時は活発だったのよ、大内は」

「想像できないです。今は大人しいですので」

 陶さんが半ば笑いながら懐かしんでいた。陽子は意外そうな反応を示しながらも、人はちょっとしたことで変わると思っているので珍しいとは内心では思わなかった。しかし、一応合わせるくらいの常識があったのだ。

「そうね。今のイケていない大内とは違って、あの時はみんなの人気者だったわ。中心人物で誰とも仲良くなっていたわ。足も早かったし」

「足の速い子はモテますよね。私はあまり興味なかったですけど」

 陽子は運動できる人ややんちゃな人が嫌いだった。読書をしながら紅茶を嗜むような人を好む。しかし、周りにそういう上品な人はいなかった。

「そうなの? 私は単純だったから、他の子と一緒で好きだったわよ」

「え? それって」

 陽子はドキリとした。思わぬタイミングで思わぬ発言を聞いて、体が硬直した。陽子の頭に浮かんだのは、「陶さんが大内くんを好きだということだよね?」ということだった。

「ははっ。昔の話よ。今はなんとも思っていないわ」

「そうですか」

 そうでもないと陽子は疑いの目を向けた。


「小学校で静かになったわ」

「それはどうして?」

 まだ話は続く。それは陽子にとってありがたかった。なぜなら、人と話すのが苦手なので、一方的に話してくれることは楽なのだ。

「それがわからないのよ。急によ? 本当に急に静かになったわ。全然イケていないし、人気もないし、クラスの端っこで1人でいたわ。足も遅くなったし」

「そうですか」

 興奮する陶さんには悪いが、陽子は世の中がそんなものだと冷めていた。人が簡単に態度を豹変させる姿を何回も見てきた。だから、人が変わろうと不思議でもなんでもなく、大内くんもそんなものなのだと、血の通った人間なのだと思ったくらいだった。

「全く運動もしないで座り続けているからね。足が遅いというより運動不足よ。すごく肥満児だったわ」

「太っていたんですか? 今は普通ですけど」

 そう言いながら、幼い時に太っていた人が成長すると痩せることがあるという知識に当てはめていた。身長が高くなったり脳を使うようになったり運動が激しくなったり、理由はいろいろだがそういうことがあるらしい。大内くんはどういう理由だろう?

「中学まで人っていたわよ。高校入ってから久しぶりに見たら普通の体型まで痩せていたから、びっくりしたわよ。聞いたら、腹痛のせいで1週間飲まず食わずで垂れ流ししていたら勝手に10kg痩せたらしいわ」

「不健康な痩せ方ですね」

 予想の斜め上を行く痩せ方だった。


「中学校で悟りを開いた、らしいわ」

「……え?」

 どう反応したらいいのかわからなかった。しかし、どこか大内くんらしくて安心した。でも、反応に困った。

「って反応になるでしょ? 私もそうだったわ。意味がわからないもの」

「ボケで言ったんじゃないのですか?」

 ボケであってくれと願った。それは、最初に大内くんが自己紹介で話しかけてこなくていいと宣言した時にも願ったことだった。そう、あの時と同じだ。

 ということは……

「あいつがボケでそんなこというと思う?」

「ははっ」

 陽子は苦笑いしながら首を横に振った。その動作を確認した陶さんも苦笑いした。共に大内くんのことをよく知っていたのだ。

 ボケでそういうことを言う人なら、どんなに楽か。

「あなたならわかると思うけど、真面目な顔で真面目に言ってくるのよ」

「ははっ、経験あります」

 互いに手で口を覆い笑いこらえていた。そういう上品な笑い方は教育の賜物である。腐っても地元の進学校といってことだ。

「挙句の果てに、他人のために孤立している、とか言ってくるのよ。やんなっちゃうわ」

「同じこと言われました」

 陽子は苦笑いで同調すると、陶さんも苦笑いしかえした。その時になって初めて気づいたが、陶さんは作り笑いするときに顔をクシャっとシワだらけにする。ハリのある整った顔を犠牲にしてまで相手を安心させようとする心遣いには感服するものだ。

「それから、高校で今の状況になったのよ。要するにそういうことよ」

「どういうこと?」

「何もわからないのよ。大内のことは、なーんにもわからない。私には何もわからない。違う星の人間なの、私から見たら」

 陶さんは両手を広げてお手上げといった様子だった。得てして陽子はこういう人付き合いが得意そうな人が苦手だったので、気後れした。どちらかというと大内くんのような人付き合いが苦手な人のほうが得意である。

「私もわからないです、大内くんのことは」

「それはどうかしら?」

「どういうことですか?」

 陽子の同意に対して陶さんが意地悪な笑顔で疑問を呈してきたので、陽子は眉をひそめて疑問を返した。大内くんのことがよくわからないのは本心であり、そのことを疑問に思われても、と思ったのである。陶さんのこともわからなくなっていた。

「私から見たら、あなたは大内のことを理解できる可能性があるわ」

「どうしてそう思うのですか?」

「だって、あいつと会話が続くじゃない」

 会話が続く? この私が? 大内くんもそうだが誰とも会話が続いたことがないぞ?

 陽子は喉まで出かかったその言葉を飲み込んで、別の言葉を考えて視線を天井に移した。相手の発言を否定するとややこしいことになるから、相手に合わせることにしているのだ。大内くんのように表立って反対意見を言うなんて陽子にはもってのほかである。

「それは陶さんもじゃないですか?」

「私は一方的に聞いて、1回返事が返ってくるだけよ。会話は続かないわ。だから不思議で覚えていたのよ、あなたのこと」

 そう自分のことを不思議がられても、と陽子は困る。大内くんと違ってまだまともな人間だと自己分析しているからだ。高校一年までは友達なんかいなくてもいいと考えていた自分のことを棚に上げていた。

陽子は深く呼吸する。陶さん視点の大内くんの過去がわかった。しかし、本当の大内くんの過去はわからない。

揺れる電車の中でわからないことに心を揺らす陽子だった。


大内くんと会う。

バッタリと会った。なぜか駅のホームにある木のベンチに座っていたのだ。その駅は初めて降りた陽子だが、どうやら大内くんと陶さんの最寄りの駅らしい。

各駅停車しか止まらないこじんまりとした駅であり、田畑が広がる中にポツリポツリと建物が点在する周辺だった。陽子の最寄りの駅からさらに南下したところにある田舎の駅だった。空気がうまい。

大内くんがここにいる理由は、電車の中で読んでいた本が終わりそうだったので最後まで読んでしまおうというものだった。それに対して陶さんが「読んでないじゃない」と指摘した。たしかに本はどこにもなかった。

大内くん曰く、読み終わって休憩しているということだ。陶さんが「家に帰ってから休んだら?」とまた指摘する。家の方が落ち着くというわけではなかろうに。

大内くんは黙った。陶さんも言葉を発しない。陽子が思い出すに、陶さんは大内くんと会話が続かないという発言だった。

少しの沈黙のあと、電車が通過する。静かな沈黙を破る音と風圧が3人を襲う。それは台風一過の気持ちよさのように、3人の空気を良くした。

「とにかく大内、やっほー」

「陶か。どうしたんだ?」

 大内くんが陶さんの名前を覚えていることに、陽子は少し嫉妬した。自分だけ蚊帳の外だという疎外感を覚えた。幼馴染だから仕方ないが……

「この子があなたを探していたわ」

「細川が?」

「あら? 人の名前を覚えているなんて珍しい」

 陶さんは少し高圧的だった。大内くんの人の名前を覚えない修正をなじったのだ。それとともに、名前を覚えてもらっているという幼馴染特有の自分のアイデンティティを失った不満もあった。

 陽子は少し嬉しかった。幼なじみという見えない蚊帳の中に入れたような気持ちだった。自分も2人の関係の間に入れるということで疎外感を払拭できたのだ。

 そして、会話が途切れた。やはり陽子は大内くんに話かけにくいのだ。それはあいも変わらないことであり、だから陽子は会いたくなかったのだ。


しかし、陶さんの視線もあるので腹をくくった。今度こそ本当に話しかける。陶さんと話すよりは大内くんと話す方が楽だと人見知りの陽子は錯覚した。

「さっき、大内くんの過去の話を聞いた。昔は活発だったんでしょ?」

「幼稚園児のときのことか。それなら仕方がないだろ。何も考えていなかったんだから」

 大内くんは口をモゴモゴさせて話したくなさそうだった。それは、過去に話したくない嫌なことがあったからではない。単純に自分のことを話すのが嫌なのだ。

 それは陽子にも共感できることだった。恥ずかしくて自分のことを話せないために周りと距離をとってしまうのである。だから友達ができないのだ。

 そう勝手に共感した陽子だが、大内くんが自分と同じとは限らないという当たり前のことに思考を落とした。自分と違い、恥ずかしい以外で話したくない理由があるのかもしれない。そもそも、話したくないわけではないのかもしれない。

 大内くんが自分のことを話したくない、というのは陽子の推測でしかなかったのだ。自分がそうであるので、勝手に当てはめてしまっただけだった。この男には自分と同じような常識が通用しないことは今まで経験してきたではないか?

 陽子は、話したくなければ話さなくてもいいと遠慮した。自分のことを話すのは嫌だという気持ちを自分も持っているからだ。自分がされて嫌なことは強要しない主義だ。

 しかし、陽子の遠慮とは裏腹に大内くんは話し始めた。それは陽子に気を使ったのか、それとも話すことが苦でなかったのか、特にこだわりがなかったのか? とにかく、陽子はようやく大内くんと話すことができた。

 大内くん曰く、次のとおりだ。

 幼稚園児の時は何も考えず走りまわったりジャングルジムの上を歩いたり葉をむしり取って青汁っぽい何かを作ったりしていたらしい。近くにいる子に適当に話しかけたり、幼稚園で飼っているうさぎを追いかけたり、ゲーム機をカチカチいわしたりしたらしい。近所の祭りに言ったり、家族旅行を楽しんだり、昼寝していたらしい。

 平たく言うと、普通の生活だったらしい。普通は一番いいことで一番難しいことだと思う陽子は、羨望の眼差しを向けるとともに、そんな普通の子供が今の孤独モンスターに変貌したことを哀れんだ。自分も他人に言えた立場ではないのは重々承知の上である。


「小学校でおとなしくなったことは?」

「小学校のことか? 色々と考えすぎたんだ」

 陽子は話を合わせる、いつも大内くんの話し相手になっているように。いつもの学校での風景であり、自然といつもどおりに接することができていた。

 大内くんは言葉を興じる、いつも陽子が聞き相手になっているように。いつもの学校での風景であり、何も変わらず接する。

 陶さんは2人を見守っている、いつもの2人を教室の外から見守るように。いつもの学校の風景であり、自分は蚊帳の外だと孤独を感じる。

 三者三様別々の思いを巡らせて、ベンチに腰を下ろしている。陶さんが途中で座ることを提案し、特に拒否がないので滞りなく進んだ。陽子は大内くんと陶さんに挟まれて気まずかった。

 こういう時に陽子は端に座るのが常だった。複数人で歩くときに1人だけ後ろを歩くようなものだ。1人だけ距離を取ろうとした。

 しかし、陶さんが真ん中に座るように催促した。それを断るほど根性がない陽子は従うことにした。そして、陶さんと話すのが苦手なのでひたすら大内くんと話す状態なのだ。

 大内くん曰く、次のとおりだ。

 小学校では、どうして皆が席に座り授業を聞き休み時間に遊ぶのかがわからなくて困惑したらしい。周りが友達と遊んだり喧嘩したりしていることに、幼稚園児のときと違い違和感を覚えたらしい。することがなくて暇だから勉強したら成績が良くなったらしい。

 簡単に言うと、周りにとけ込めなかったらしい。自我が生まれて、周りを社会として意識するようになって、両手両足を鎖で囚われて身動きがとれない心的状態だったらしい。周りには疑問に対して納得のいく説明をしてくれたものがいないので、心を閉じてふさぎ込んでしまったらしい。


「中学校で悟りを開いたことは?」

「中学校のことか? 言葉のとおりだ」

 大内くん曰く、次のとおりだ。

 大内くんは自分で考えることにしたらしい。周りの人間観察をして、帰納法的に理論構築したらしい。その結果が、孤立になることによって周りの孤立に苦しむ人を助けることらしい。

 理論構築はこうだ。

前提条件として、人は他人の不幸は好きだ。そして、孤立は不幸である。したがって、人は孤立している他人を見たいし、自分は孤立したくない。

 そして、世の中の問題の全ては孤立するかさせるかの争いだ。いじめも戦争も金銭関係も、全ては相手を孤立させたり自分が孤立したくないことから発生することだ。仮想敵として誰かを孤立させないと終わらない争いだ。

 だから、解決策として自分が孤立すればいいんだ、と考えたらしい。そうすればいろいろな問題が解決すると思ったらしい。それが大内くんの悟りらしい。

 しかし、自分が孤立してもいじめは起きるし戦争は終わらない。自分の理論は間違っているのではないかと今でも思っているらしい。だからこそ、自分の理論通りに助かっている陽子などを見て自分が救われているので、感謝しているらしい。

 大内くんから感謝の意を述べられた陽子は恥ずかしかった。うすうすは気づいていた陽子だが、大内くんの手の上で転がされており、そのことに大内くんは気づかないふりをしてくれていたのだ。陽子こそ感謝の意を込めていたが、発することが恥ずかしくてできなかった、


「高校はどう?」

「高校のことか? 特に何もないな」

 そう言うと、大内くんは立ち上がった。どうやら話はここまでのようだ。そのまま別れの挨拶をすることもなく地下への渡り階段を下っていこうとした。

陽子は大内くんから過去の話を聞いたわけだが、頭は混乱していた。わかったような、わからないような。そもそもわかったところで、何かが変わるわけではなかった。

しかし、話を出来たことは収穫だった。内容よりも形式が重要な時もあるものだ。ひと安心した陽子は沈んでいく後頭部を見送っていた。


「大内、何を言っているのよ」

 と、陶さんが待ったをかけた。大内くんは階段の途中で振り返った。その姿は地下の影に包まれていた

「なんだ?」

「何をカッコつけているのよ! ただ単に友達ができないことを肯定したいだけでしょ? そんな考えじゃ、友達なんかできないわよ」

「だから、俺は友達なんか要らないんだ。たしかに友達ができない自分を肯定したいための理論であることは否定できない。しかし、こんなポンコツの俺ですら世の中で役に立つのなら、それでいいと思うんだ」

「世の中のためになる? そんな世迷言をバカバカしいわ。友達を作るように自分を変えないと将来に苦労するわよ!」

大内くんと陶さんとの意見の食い違い。冷静に言い返す大内くんと怒鳴り散らす陶さんだった。陶さんの変貌に陽子は閉口するしかなかった。

陽子は恐怖のあまりその言い合いの内容が聞き取れなかった。キンキンとした声が地下で響いているのが地上に出る。こういう時に限って電車は通らず、居づらい空気で陽子はいたたまれない気持ちになった。

すぐに大内くんが黙りこくった。陶さんが一方的に怒鳴りかけるだけになっていた。もう会話は成り立っていなかった。

「――もういいわ!」

陶さんは大内くんから離れる。もとから段差10の距離があったが、さらに離れて大内くんが階段の入口に隠れるくらい離れた。足音は怒りで荒らげていた。

大内くんは何とも思っていないふうにそのまま階段を下りていった。そのまま右折して姿をくらます。その足音はいつもどおりの平穏なものだった。

 陽子は後を追いかける。陶さんの後を追いかける。大内くんではなくて陶さんのほうが追いかけるべきだと直感が働いた。

「いいの? 大内に用があったんでしょ?」

「いや、まぁ、用は済んだというか、やっぱり明日でいいというか」

 陶さんは怒気を含んだ声だった。怒りをこらえようとしてこらえきれない様子。陶さんを1人にするべき雰囲気ではなかった。

 大内くんは、うん、まぁ、1人で大丈夫だろ。向かいのホームに階段を上った大内くんが歩いているのが見える。こちらに全く興味なさそうにまっすぐ改札口に向かう。

「ちっ」

 陶さんは舌打ちをした。大内くんが視界に入ったのが気に食わなかったのだろう。帰りたい気持ちと帰れない状況に板挟みになって陽子はヘトヘトだった。

 陽子たちの左前方には夕日が赤みをさして沈んでいく。空は暗く青みを帯びて夜の衣替えを急ぐ。陽子はその様子を見ながらどうしようかと問題の先送りをするのみだった。


「1つ、馬鹿な事を言ってもいい?」

「何?」

 陶さんは少し怒気を沈めていた。時間の経過が問題を解決する時があるが、頭が沸騰している場合に冷静になるこういうときがそうである。陽子は自分の問題先送りの悪い癖がいい方向に効果を表したことに自己肯定の感情を思える。

「大内のこと、頼んだわよ」

「どういうこと? 何を言っているの?」

 陽子は言葉の意味がわからなかった。聞きながら自己問答したが、同じクラスだから相手してあげてという在り来りなものだと解釈した。そういう普通のことを頼まれたことがなかったからピンと来なかったが、おそらくそういうたわいもないことだろう。

「あいつのこと、昔は好きだったが、今は無理だわ」

「はぁ」

「だから、あなたに譲る」

陽子の予想は外れた。陶さんは大内くんを陽子に譲ると言う。そんな恋愛ドラマみたいなことがいきなり起こる。

その状況を意外と冷静に受け入れた陽子だった。もう少し動揺するだとか、なにかドラマティックなことが起こるのではないかと思われるこの状況を、意外に普通だということで淡々とした。こんなものかとれいせいだった。

とうか、そもそも……

「譲るとか言われても、そういう問題じゃないと思います」

「いいえ。あいつはあなたのことを嫌っていないわ。あとはあなた次第よ」

陽子は否定した。陶さんの言い分では大内くんと自分が相思相愛という旨だとさすがに理解していた。しかし、何一つ実感も根拠もないと思う陽子だ。

陽子は違うというが、陶さんの予想では大内くんが嫌っていないらしい。その理由を伺うと、「女の勘」と一瞬された。陽子は肯定も否定もできない、何とも言えない気持ちに襲われた。

陽子はヤキモキするのみだった。


大内くんは孤立に前進した。


陽子はどうしたらいいか、わからなかった。



「どうしよう。よけいに話しにくくなった」

 翌朝の学校。いつも通り陽子と大内くんは隣同士座った。そして全く会話がないのは、いつも通りなのかいつもと違うのか……

 窓にはパチパチと雨の吹き付ける音がしていた。気候の変化のせいか、陽子は鬱々としていた。腹への精神的毒素から来る痛み、脳への霞みかかったようなぼんやり、体全体への屍人のような勝手の効かなさ、陽子は心身ともに疲弊しきっていた。

 特に何かがあったというわけではない。ただ単に今日は調子が悪いだけかもしれない。それは陽子にもわからないことだった。

 昨日の陶さんに言われたことも遠い過去のように薄れていった。それより前の様々な思い出も記憶から離れていく。高校2年生になってからの記憶が燃やされたように真っ白に記憶から消えていく。

 廃人のように脱力した陽子だが、あることが体を動かした。大内くんと話をするということだった。好きか嫌いかだとか、何かしらの意思に基づくものではなく、ただの習慣として視線を注いだのだ。

陽子は大内くんへ話すタイミングを見計らっていた。しかし、声に出すことができなかった。陽子は自分でも何が何だかわからなくて、意味のわからない涙がこみ上げてくるのを我慢するのに精一杯だった。

「なんか用でもあるのか?」

 大内くんから話しかけた。

「……え? 私に言ったの?」

 大内くんから話しかけてくるなんて初めてだから、陽子は驚いた。

「君以外に誰がいるんだよ」

 大内くんから話しかけていることに間違いなかった。

「いや、あなたから話しかけてくるなんて思っていなかったから、聞き間違いかと」

「君が何かを話したそうにずーっと見ているからだ。用事はなんだ?」

 用事と言われても、会話しているうちに用事は達成したんだけどな。でも、何かを言わないと納得しないだろうな。困ったな。

陽子は何かを話さなければならないという圧力を感じて泣きそうになった。しかし、それ以上に今まで自分に重くのしかかっていた精神的な何かの圧力が大内くんの話しかけによって吹っ切れた事の方が強く、意味もなく泣き出してしまった。それにはさすがの大内くんも驚いたらしく、「話は聞くぞ?」と心配してきた。

 そもそも、陽子は自分でも自分がよくわからないのだ。どうして話かけようとしたのか、どうしてそれができないのか、何がわからないのか、全てがわからない。

 だから、何を話したらいいのかわからなかった。陽子のすすり泣く姿を見て、陽子の友達が心配になって介抱に来た。大内くんに詰め寄るものもいたが、大内くんは悪くないと陽子は擁護したので大事に至らなかった。

 そしてすぐに「大丈夫」だと言って友達を帰した。友達もこういうときはそっとしておくほうがいいと判断して離れた。大内くんはその様子を困ったふうに横目で伺い動揺していた。

 大内くんの動揺している姿を初めて見た陽子は、心配させないために話しかけようと決めた。いや、自分に嘘をつくのはやめようと陽子は決心した。陽子は大内くんと話をしたいけど、意識しすぎて話すことができなかっただけである。

 それは陽子にとって初めてのことであり、認めたくないことだった。しかし、そうだとしか思えないし、そのことを認めた瞬間に体が楽になった。代わりに体全体が熱く火照ってしまい、涙が蒸発して乾いてしまった。

 話さないと、話さないと、話さないと。

 陽子は反芻する。高校2年最初の自己紹介のときのように心で繰り返し唱える。あの時と同様に、陽子にはもう後がないのだ。


陽子は大内くんに聞く。「他人のために孤立するという信念を曲げてまで、どうして自分とは会話してくれているのか?」と。

大内くんは応える。「最初に言ったとおり、来るものは拒まず去るものは追わずの精神だ。君が話しかけて来てそのまま去らないから会話している。それだけだ」と。

陽子は一歩踏み込んだ質問をする。「そうではなくて、自分と話すことはどう思っているのか?」と。

大内くんは話が見えてこない様子だった。「どう思う? と言われても、どう思えばいいんだ?」と。

淡々とのれんを腕で押すように交わされる会話の最中、陽子は張り裂けそうな胸を押さえた。「私はね、あなたと……」と。


陽子は言葉が詰まった。好きだ、という言葉が出なかった。

 いつもの小心者からくるものなのか、特別な感情からくるものなのか?

 それに、そもそも告白なんかしてもいいのか? 

 自分勝手な押しつけになって相手を困らせるのではないのか?

 大内くんが自分のことを嫌いではない、と陶さんに任せられたが、それは気のせいではないだろうか?

自分に好意を抱いているのではないか? とは聞けない。

そういうことを冗談で言えるほども自信家ではない。

そういうことを真面目に言えるほども自信家ではない。

自分が好かれていると思うほど自信家ではない。


「……友達じゃないの?」

 陽子の言葉の限界だった。いろいろな言葉が思考を巡ったが、声に出たのはその言葉だけだった。ウサギのように寂しそうな陽子の目がすがるように大内くんの困惑した仏頂面をうつむきながら伺っていた。

「友達ではないな。ただの話し相手だ」

 大内くんはいつもの返事、予想できた返事だった。そうだ、大内くんならそう返事するするだろう。当然のことだ。

 陽子は心のどこかで安心し、心のどこかで気落ちした。いつも通りのことに安心し、変化しないことに気落ちした。しかし、それは告白する根性がない恥ずかしがり屋の陽子自身のせいだと自己嫌悪に陥った。

「わかったわ。最後に確認したかっただけ」

 陽子は心を整理しようとするが整理できずに、言葉だけを整理した。そのまま言葉なく物憂げに正面を見るのみだった。授業中も上の空で、違う教材を指摘されても気にもとめない時間を過ごした。

 陽子はどうしたらいいのか分からずじまい。周りから見てもわかりやすいくらいに。

大内くんも陽子の意図が分からずじまい。周りからはいつもと変わらなく思われる程わかりにくいくらいに。


その様子を周りが見ていた。

興味ないふりをしながらも、素知らぬ顔で耳だけは注意していたのだ。自意識過剰で周りは自分のことを見ていないとわかっていながらも見ている錯覚に陥る陽子だが、実際には見ているのだ。ただ、介入をしないで遠巻きに見るだけだ。

それに、陽子だけでは誰も興味がない。大内くんが何をしでかすのかということが皆の関心だったのだ。それだけ大内くんはクラスで存在感があるということだ。

それは、大内くんがクラスにいなかった時にわかっていたことだ。


周りの反応は2分した。


1つ目、大内くんも好きなはず派。

「大内くんは細川さんと話すとき楽しそうだったけどな」

「お似合いだと思うんだけどなぁー」

「大内くんの相手ができるのは細川さんだけだよな」


2つ目、そんなことない派。

「ただの友達だろ? 勘違いたらダメだろ」

「大内くんに人を好きになる感情なんてないだろ」

「さっきのやり取りを見たら、無理なのはわかるだろ」


 周りのヒソヒソとした勝手な反応は波の音のように広がっていた。対岸にたどり着くように各々の人に知られていった。皆はそれを深海のように静かに聞くのみだった。

 そのつもりはないにしても、陽子の耳にも届いていた。それが陽子をさらに傷つけた。それでも噂が広がり、何度でも声が届く。

 おそらく、大内くんの耳にも……


「試してみるか」

周りは2人に黙って勝手に試すことにする。カップル成立という青春の1ページを、善意と悪意が入り混じって行われる。事は秘密裏にすすむ。

 丸聞こえだったが……


「一人にして!」


 陽子ははっきりと自己主張をした。席から立ち上がり、皆に聞こえるように声を張り上げた。人によっては小馬鹿にするような言動だった。

 そのまま席に勢いよく座った陽子は心臓をバクバク震わせた。ついにハッキリ自分の意見を述べたことに、今までの自分とは違うことを述べたことに、まるで自分の体ではないように感じた。もしかしたら再びいじめられるかもしれないが、そんなことは気に求めていなかった。

 陽子が自分の意思を述べることができたのは、いじめ集団に大内くんの悪口を強要されたとき以来だ。あの時は、自分がされて嫌だったこと――他人の陰口を言うこと――をするのが我慢ならなかったのだ。だから自立して抵抗した。

 今回はどうだろう? 理屈は同じだろう。自分がされて嫌だったことを断るために抵抗した自立である。

 自分がされて嫌だったこと? 周りに強要されることだろう。大内くんの悪口を強要されたのと同様に、大内くんと仲良くされることを強要されることが嫌だった。

 相談者から2人が仲いいと言われた時も、陶さんから大内くんを任せたと言われた時も、いい気がしなかった。当人たちは良かれと思って言っても、言われた本人が嫌がることはあるものだ。自意識過剰といえばそれまでだが、陽子は自意識過剰だから仕方がない。

 それらの時と同様に、今回も周りの善意が邪魔だった。自分と大内くんを仲良くさせようとされることが嫌だった。自分が同じことをするのが嫌だった。

 自分が同じことをする? どうして自分が同じことをするのが嫌なのだ? 自分がされるのは別にいいのに、自分が他人に同じことをするのは嫌とはどういうことだ?

 陽子は考えた。考えた。考えた。

 そこの違和感を考えた。自己分析した。自分は何を嫌がっているのか?

 ――自分が孤立することによって孤立した人を助ける――

 大内くんのその言葉が脳裏に浮かぶ。その利他的な理論を陽子は絵空事だとして内心では本気にしていなかった。しかし、本当は本気にできなかったのだ。

 陽子の今までの知り合った人たちは利己的な人ばかりで、自己犠牲の人などいなかったのだ。自分がいじめられないため、自分が先生に褒められるため、自分がクラスでカースト上位になるため、全ては自分のために行動するのが人の常だった。そういう人が嫌いで陽子は周りの人から距離をとったところがある。

 陽子はある記憶を思い出す。それは小学校入ってすぐの時のグループ活動でのことだ。何かしらのグループを作らないといけなくなった時だ。

 皆は自分と仲良しの子とグループを組もうとする。すると、人数の関係上、はみ出しもの同士のグループができて、皆がそれを嫌がる。それがグループの組み直しごとに毎回続く。

 陽子はそれが嫌だった。だから、陽子は考えた。自分がはじめに1人だけのグループを作って、そこにはみ出しものが来ればいい、と。

 それによって、陽子ははみ出しものグループを率先して作った。狙い通りだった。それにより、醜いはみ出しもの作り合戦は終止符を打たれた。

 しかし、それによって陽子は楽しくないグループ活動になった。はみ出しもの同士が仲良くしてくれない。周りの別のグループは助けてくれない。

 陽子の善意の自己犠牲は、クラスを平和にするのには役立ったが陽子を苦しめた。周りには自分のことしか考えていないポンコツしかいない。陽子を助けてくれる人など誰ひとりとしていない、辛い学校生活となった。

陽子は自分が考えて実行したことを後悔したのだ。なんてバカなことを思いついてしまったのか。せめて、行動に移さなければよかった。

――自分がはみ出しものになることによってはみ出しものを助ける――

 それは陽子がかつてに構築した理論であり、実行した結果棄却した理論である。

 陽子は思い出す、自分のかつての理論を。そして、それが大内くんの理論と似たものであることを。

 陽子は気づく、自分が間違いだとして捨てた理論を愚直にも正しく実行しているものがいることを。そして、それは陽子には認めたくないものであることを。

陽子は自己嫌悪する、本当は正しいと思っていた自己犠牲の信念を捨てた自分を。そして、捨てきれないので同じ信念を持つ大内くんに依存していることを。

 陽子は思考の渦の中を悶えていた。息もできずに深く暗い闇に放り込まれた。そこから脱出する術を持っておらず、憔悴するのみだった。

 横では大内くんが身動き一つせずに平静を保っていた。そこには先ほどの陽子への心配の様子はなかった。むしろ、自立したことへの安心感で優しい目をまぶたの下に隠していた。


 周りは陽子の発言にお構いなく勝手に行動に移す。多勢に無勢なことは陽子にもわかっていた。人というものはそういう残酷なものだと、大内くんがいない時に見てきたので慣れている。

 人というものは勝手なもので、助けて欲しいときには助けてくれず、助けがいらないときに助けようとするものである。人というものは自分に余裕がある時にしか助けを差し出さない習性がある。本当に困っていない周りの人達が、見下しの対象である陽子と大内くんに面白おかしく助け舟を出すのである。

 傍から見たらありがたい周りの善意も、善意を受けるものから見たら悪意にしか見えないときはある。善意を受けたものは困惑しながらも内心では喜んでいる場合はあるが、本当に困惑して嫌な場合もある。今回がそうだ。

 周りが勝手に盛り上がっているだけで、陽子からしたらいらぬお節介である。大内くんはどう思っているのかはわからないが、少なくとも陽子は嫌がる。それはいじめや戦争や経済活動のように、止めようのないものだった。

 周りは行動に移す。


周りの行動は失敗。

教室に2人だけを残したが、何も起きなかった。

失敗は起きるものであり、何も起きないことは失敗だとは思わなかった。起きる・起きないだ物事は分けられて、起きるという事象の中に成功・失敗があると思っていた。

好きの反対は嫌いではなく無関心であるのと同じ理屈だ。関心・無関心の2つが有り、関心の中に好き・嫌いがあるのだ。だから、好きという関心の反対は無関心だ。

それと同様に、失敗という起きることの反対は起きないことだと思った。しかし、起きないことと失敗は陽子にとって同じものだった。

そう思いながら陽子は自分の矛盾に気づいていた。周りの求める大内くんとの仲良くなる圧力を嫌いながらも、大内くんと仲良くなりたいと希望していた。色々と考えていたが、疲れたので知らぬ間に眠りに落ちていた。


その後、2人は互いに距離を置く。いや、陽子が一方的に距離をとったのだ。大内くんがいつもどおりに1人でいるのを陽子が流し目で確認するだけの関係になる。

大内くんは1人を楽しむ。陽子は来ないが、足利くんはたまに来る。相談者もたまに来ているが、相変わらず拒まずに受け入れても去っていく。

陽子は友達と楽しむ。足利くんとも話をする。しかし、大内くんとは話さない。

その様子を見て周りはため息をつく。しかし、すぐに忘れて自分たちの談笑に戻る。周りの人々は無責任なものである。

一見すると平和だった。いや、事実平和だった。

互いに求めていたものを手に入れていたのだ。大内くんは孤立を、陽子は友達を。

……


――時間が経つ。

――

学年が変わり、2人はクラスが分かれて、疎遠になる。

陽子は明るい学園生活。友達と仲良く戯れる。明るい学園生活。

大内くんは相変わらず1人らしい。一般的に見たら暗い学園生活。しかし、彼のポリシーから見たら、最高の環境だろう。

――

陽子はたまに大内くんを見かける。

違う学校の人でもたまに出会うのだから、同じ学校の人とたまに出会うのは不思議ではない。しかし、出会っても、見かけても、話しかけることはなかった。もちろん、大内くんから話しかけてくることは全くなかった。

――

卒業が近づき、高校生活を思い返していた。

地獄の1年生。いじめ。

救われた2年生。大内くんとの出会い。

平和な3年生。いじめも大内くんもない。

――

孤立することによって、周りの人を助ける。

この理屈が正しいのかはわからないが、大内くんに助けられたことは確かだった。陽子は距離をとり時間が経ち、そのことを冷静に振り返った。ときには恥ずかしがり、ときには笑い、ときには苦しみ、思い出に浸る。

――

あるとき、陽子はたまたま大内くんを発見した。

相変わらず教室で1人だった。それは、とても話しかけやすい状況だった。大内くんが言うとおり、孤立している人には話しかけやすいものだと再確認した。

――

いろいろあったけど、陽子は大内くんに感謝する。

「ありがとう」

それに対して、大内くんはそっけないが、初めて感謝する。

「どういたしまして。こちらこそありがとう」

 とても社交辞令な会話だった。

 一見すると、中身がない、感情のこもっていない機械的なやりとりだった。しかし、陽子にはこれ以上ない幸せなものだった。それ以上の会話は交わさなかった。

 陽子は教室から去っていった。大内くんは去る陽子を追わなかった。互いに顔に出た満足した表情がすぐに去っていった。


大内くんは孤立した。


陽子も大内くんから去っていった。


・おわりに


 高校を卒業した。

 陽子は人として成長した気がした。

 そのまま大学進学した。


そして。

陽子は大学で孤立していた。


「嘘でしょ?」

 桜が散る街道をほかの大学生と歩を進めながら陽子は落胆する。周りは友達らしき人と談笑しながら能天気だった。陽子はその中をポツリとする。

高校の友達は皆違うところに進路を歩んだ。そして、卒業したらなかなか会わないものである。それは中学の友達とも会わなかったから、わかっていた。

そして気づいた、自分が全く成長していなかったことを。周りに助けてもらっていただけであることを。そのことはわかっていなかった。


陽子は知らなかった、大学の方が高校よりも友達ができにくいことを。トイレでぼっち飯という言葉があるくらい、友達はできないものだ。さすがにトイレで食事はしないが、講義室や食堂で1人食事を繰り返していた。

孤立した。陽子は孤立した。

こういう時はどうしたらいいのだろう?


トボトボと岐路に立つ。最寄りの駅を力なく俯き歩く。日が暮れかかり街灯が光り始める中、ため息しか出ない。

「1人で変な人だね」

「目を合わせるなよ」

「友達がいないんだよ」

 陽子は自分のことを言われている気がした。そして、それは自意識過剰だとは思った。友達がいないのは事実だが、変なところはないと思ったのだ。

 しかし、いつもは誰からも相手にされていないから、そう錯覚しないとやってられなかった。そして、自分の自意識過剰の理由が誰かに相手してもらいたいところから来ていることにようやく気づいた。自分で問題解決できたことを珍しいと思った。

 すると、自分のことではないことに気づいたわけだが、もっと気づいたことがあった。皆が向いている先のことだ。周りの視線は遥か遠く、ある男性。

「あれ?」


 陽子は近づいた。

「大内くん、なにしているの?」

大学ぼっちになった陽子はたまたま大内くんに遭遇。

「……直立不動でいたらどうなるか試していた」

 相変わらずよくわからなかった。

 駅前のロータリーで左手を天にかざし右手を胸の前に当てて身動きしない人間を理解しろという方が難しい。キャッチや浮浪者や鳥ですら距離を置く人物。まさに大内くんだった。

 変な沈黙。周りの目が痛い。陽子も変人の仲間入りとして見られていた。

 陽子は高校2年のときを思い出した。あの時も変人扱いされたものだ。そして、1人ぼっちだった自分が助けられたものだ。

「話してもいい?」

「いいよ」

話していいかと聞くと、大丈夫と言われた。これがいつもの会話だった。懐かしい。

「高校出て、今、なにしているんだっけ?」

「孤立することによって、周りの人を助けている」

 そういうことではないんだが……

「大学だっけ?」

「そうだ。ところで知っているか? 大学は孤立している奴が多いんだ。だから、俺は大盛況だ。商売したら大儲けできるくらいだ」

 姿勢は崩さず口だけは動かしていた。相変わらず表情は硬いが自分の話は活き活きと饒舌な大内くんだった。それにしても、黒の長ズボンに白のカッターシャツなんて、高校と同じような服装をしていて飽きないのだろうか?

 そう思いながら陽子は自分の白のポロシャツと黒のロングスカートに目をやり、人のことが言えないと自己嘲笑した。変人仲間扱いされる前から似た者同士だとようやく気づいた。それに対して嫌な感情はなかった。

「だったら、商売したら?」

「商売したら周りに人が増えるだろ? そんなのは嫌だ」

 相変わらずで安心した。人というものは簡単には変わることができないことを悲観視していた陽子だが、それもたまにはいいものだと思った。自分が大学生になっても変わらず友達作りが下手なことは嫌だが、大内くんが大学生になっても変わらず孤立していることが嬉しかった。

「人助けできて良かったね」

「あぁ。全ては孤立できたおかげだ」

 孤立することによって孤立する人を助ける、か。たしかに陽子は助けられたのである。そして、おそらくは同様に助けられる人がこれからもいるだろう。

「すごいね。信念があって実行して継続できるなんて。私には無理」

「だから俺がいるんだ」

 陽子は救われた。

「またここに来てもいい?」

「あぁ、いつでも俺はここで1人でいるからな」


大内くんは孤立したままだ。


陽子はたまに大内くんのところに訪れる。


 そんな交流が2人に続く。

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『孤独で孤独を助ける子』 すけだい @sukedai

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