第十五章:戻るべきは日常か、或いは
私は、柔らかな陽光に触られて目を覚ました。
白いカーテンから差す懐かしい光が、私にとってちょうどいい覚醒作用を促してくれる。
ベッドの上、私の横には一人分空間が空いている。
「未紅ー」
目を擦りながら部屋を出る。
ここは一階、部屋を出て左に曲がった突き当りにある階段を上ると二階だ。
この匂いはまたか、と朝ご飯を推測する。そろそろ日本食以外にも食べてみたいものがある。今度お願いしてみようか。
さあ、階段を上りきるとリビングで、その先がダイニングになっている。
「おはようございます、ルディアちゃん」
「ルディアおはよー」
「はい。おはようございます」
眠くても挨拶はしっかりと。
私も食卓について、ご飯を食べる。
あれ、何かがない気がする…。
「すいません、朝ご飯っていっつもこのメニューでしたっけ?」
「今日はいつもと変えてみたんだ。どう?」
私はとりあえず食べてみることにするが、もちろん異変はない。
いつも通りだ。
「お米って、なんでこんなにおいしいんだろうね」
「はい。私の国ではお米は貴重だったので、毎朝食べれるなんて贅沢ですね」
「そうなの?」
「ルディアちゃんは遠い国から来てますからね。僕たちとは違う食生活を送っていたのも当然です」
來さんは着々と支度を進めている。
「來さん、時間」
「あ、ほんとだいつの間に。そろそろ行ってきますね」
「うん。お仕事、頑張って」
來さんはすたすたと玄関に向かって行った。
「未紅は学校大丈夫ですか?」
「まだあと十分ある」
「ギリギリじゃないですか、まったく」
「そういうルディアだって、ついさっき起きたじゃない」
「私はまだ入学していませんから。転入は来週からです」
「ずる」
未紅は私のほうを睨んでから、洗面所へ向かった。
「さて、私は何をしましょうかね」
宇気比町を散歩することにした。
意外とちゃんと見て回ったことはなかった。まず、私がいる北部は住宅街になっている。そこから南下していくにつれ、お店が増えて賑やかになる。
「今日も綺麗ですね」
特に川を越えた大通りは商店街になっていて、西側の端に競馬場が、東側の端には銭湯がある。
「いつか未紅と行ってみましょうか。さて、次はどっちへ…」
とりあえず東からぐるっと回っていこう。
東の競馬場。私は賭け事はしないので、おそらく今後関わることはないだろう。
西へ西へ。以前未紅と通った道だ。最初にここに来たとき。
私たちが、ここに来たとき。
宇気比町はあまり大きな町ではないので、数十分歩くと町の東端に着く。正面に銭湯、右側に交番がある。
來さん曰く、宇気比町は治安があまりよろしくないらしく、お巡りさんも大変だそうだ。
私が取り締まってやろうか、なんちゃって。
散歩というのは時間を潰すにはぴったりな作業だ。いつの間にか日が暮れそうだ。
狭い町でも、いろいろ見ていると意外と時間は過ぎている。
「帰りましょうかね。またぐるっと」
川を渡って北東の住宅地。
「あれ、あんなところに」
この建物なんだろう?三階建てのアパート…じゃないな。住宅ではなさそうだ。
何かのオフィスなのかな?閉まっているようだけど。
中も誰もいなさそうだ。ただ見上げると、この建物には屋上があることが分かる。
なんとなく上ってみた。もちろん魔術でふわっと。
屋上に立つと、妙な安心感があった。
この町は北にいくにつれて標高が高くなっているので、ここからは宇気比町が一望できるみたいだ。
町の向こう、山のそのまた向こうに落ちる夕日が、なんとも美しい。
「きっとこの建物を選ぶ人はロマンチストですね」
手すりから下の道路を見下ろす。
すると、一匹の犬が走り抜けていった。
「脱走?」
追いかけてみるか。
犬を追って、今度はさらに北へ。
「おーい、待ってください」
犬はある地点で急に止まった。
ある建物の前だった。そこは昔ながらの和風の邸宅。広い。お金持ちが住んでいるのだろう。
よく目を凝らすと、窓辺に人が立っている。
緑色の髪の少女が、私のほうを見て微笑んでいる。
「すいませーん、このワンちゃん、おたくのですか?」
緑髪の少女は頷いた。どうすればいいのか、と問うても、答えは返ってこなかった。
「まあいいか。ここにおいていきましょう。すみませんね、お犬さん。飼い主さんがきっと来ますから」
私は身を翻した。
そういえば。
そこで私はようやく気付いた。
今日私、町で誰とも会わなかった。
はっと、後ろを振り向いてみると、少女はいなくなっていた。
家に帰る。
「ただいま帰りました」
「遅かったじゃん。また散歩?」
「はい。結構北の方まで行っちゃって」
「へえ。北のほうって、なんかあったっけ?」
「なんか広い家がありました」
「そっか。あんまり行ったことないから分かんない」
「私たち、ここに来てからどれくらい経ちましたっけ?」
「うーん、分かんない。それよりルディア、転校生の話、学校でも話題になってたわよ!」
「行く前にハードル上がってると困りますよ」
「大丈夫よ!ルディア、髪すごい銀色できれいだし、それに、目の色が左右で違うってめっちゃカッコよくない?」
「そうでしょうか?」
私の目?
なんのための非対称色?
「はあ、おなかすいた」
「私もです」
そんなあなたに、と言わんばかりに來さんが現れた。
私たちは顔を見合わせて、二階へ駆け上がった。
「それで、上司の人が僕に、来週までに終わらせてこいって…」
「來さん、お酒はほどほどに」
私が瓶を取り上げると、手を伸ばそうとして机に倒れ込んだ。
「僕、なんでこんな仕事してるんだろ……」
ため息をつく來さんを励ます言葉が見つからないまま、私たちは夕食を終えた。
私はしばらくリビングに残った。來さんが再起不能になったとき、家事をするのはどうせ私だ。
「未紅は学校に行って楽しそうですし、來さんもなんやかんやでお仕事を楽しんでます。私はどうなるんでしょう」
不安でもあるが、楽しみでもある。
新しい日常が、すぐそこにあると思うだけで、胸が弾む。
私も、普通の人になるんだ。
魔術師をやめて…。
魔術師をやめるのか。
部屋に戻る。
「未紅はもう寝てますね。早寝だけは感心します」
私も着替えて寝るか。
と、その前に。
やっておかなきゃいけないことがあるんだった。
目を覚ますと朝の五時。
まあいいか、といつも通り起きることにした。
部屋を出てリビングへ一直線。
「亜依那、おはよ」
「おはよ」
亜依那はいつも早起きだ。早起き勝負で勝てたことがない。
「椎奈はまだ寝てるからね」
「うん。起こさないようにするね」
椎奈はぐーたらだ。
でもいいんだ。
「椎奈、昔からよく寝るよね」
「疲れやすいらしいからね。お医者さんが言ってたわ」
「へえ」
疲れやすいのも大変だな。私は常に元気いっぱいなのに。ちょっとくらいなら分けてあげようかな。
学校に行く。
「未紅、おはよー」
「おはよ」
「来週の土日さ、一緒にご飯食べにいかない?」
「来週の土日って、今日月曜だけどね。今週始まったばっかじゃん」
「いいの。土日のために一週間頑張るんだから」
「そうなの?
“友達”が私に話しかける。
「他にも誘うの?」
「うん。わたしたち合わせて、六人かな」
「おっけー」
なんだからしくないけど、友達もいっぱいいる。
私は彼らのことをどれだけ知っているか分からないけど、彼らは私のことをよく知っている。
「おはよう、未紅!」
「おはよ」
「おはよう未紅」
「おはよ」
挨拶するだけですがすがしい。
笑顔になる。
「おーい、そっち!」
「任せろっ!」
空に手を伸ばす。
「キャーッチ!」
「ナイス!」
運動だけは誰よりも得意な自信があった。
だからこうやって、みんなで野球をするのが大好きだ。
「次、未紅が打てよ」
「任せな」
バットを握って、前を見据える。
次の瞬間には皆が空を仰ぎ、私は堂々と走り出す。
「じゃーん、どうよ」
「うん。いいんじゃん」
亜依那が野球のユニフォームを買ってきた。
チームに所属するわけでもないのに、誕生日プレゼントにくれたのだ。
「野球楽しそうじゃん」
「うん。亜依那は運動好きなの?」
「そこそこかな。あんま詳しくないし」
亜依那は家のソファにふんぞり返って天井を眺めている。
「今度、ライブやるから。しばらく帰ってこない」
「分かった。椎奈もいるし大丈夫」
「そうだね」
私も亜依那も、椎奈を信頼していた。
玄関の扉が開く。
「ただいまー」
「お、椎奈か。おかえり」
「さて、そろそろ寝ようか」
椎奈は食器を洗い終わって、私の隣に座った。
私はリモコンを適当に触りながら、椎奈に尋ねた。
「椎奈、高校生大変?」
「まあね。でも大丈夫。うちには亜依那も未紅もいるから」
「それだけでほんとに大丈夫?」
「それだけ、ってものじゃないんだよ。私にとって」
そうだ。亜依那は私たちの命を救ってくれた恩人だ。誰よりも大切にするべき相手なのは当然だ。
でも私は、椎奈に何もしていない。
「何にもしてなくてもいいんだよ。私には、家族がいるだけでじゅーぶん」
そういうものなのかな。
私には分からないんだ。こういうことが。
誰かを大切にするべきだということは分かる。でも、自分のものとして実感することはできないし、自分の中からその感情が沸き上がることもない。
「そういうところが可愛いんだよな~」
「なんだそれ」
へんなの。私の心を読んでるみたい。
「私ね。今度みんなでキャンプ行きたいの」
「キャンプ」
「そう。みんなで焚火してさ。火って綺麗なんだよ。いつかは消えちゃうけど、あったかいし、光るし」
「それだけ?」
「よくさ、ストーブで燃えてる火とか見てると、未紅のこと思い出すんだ」
「なんで!?こわ」
椎奈は私をからかっている様子ではなかった。
「私、火みたいになりたい!ずーっと燃え続けて、みんなを照らして、あったかくして、消えるときにやっと、私頑張った、って燃え尽きるの」
「燃え尽きちゃうんだ」
「私だっていつか死んじゃうからね。人だし。でもよくない?せめてぼわーって燃えてみたい」
まあ、言ってることが分からないでもない。
「あ、このまま話し始めると寝れなくなっちゃう。もう寝よう」
椎奈は姿を消した。
「椎奈」
「何?」
「もし明日私が、この世界で一番不幸な人になったら、助けてくれる?」
「うん。任せて」
「私、どうすればいいんだろう」
「────
「何も信じられなくなったとき、私は誰を頼ればいいの?」
「私を頼って」
「でも、椎奈はもう、私には会えないじゃん」
「そうね。でも今は会えてる」
今、椎奈は目の前にいる。
「椎奈、会えなかったのに」
「今会えてるよ。ね、良かったじゃん。最後の最後に、未紅がみんなを信じられたから」
私が、こんなにつらい目にあってきたのは…。
まるで仕組まれたようなこの人生は、誰によって、何を目的に作られたのか。
「優しい人に囲まれてよかったじゃん」
「いやだよ、あんな人たち。ひどいよ」
「でも、私も会いたかった。ありがとう」
彼女たちの思惑は、ただひとつ。
ただ、この旅には先がある。
「世の中は、未紅みたいなすごい人を利用しようとするんだよね」
「うん」
「でも、もう少しだけ頑張ってほしい。私と、未紅自身のために」
椎奈の心臓から、淡い光が浮かび上がる。
「あのとき未紅の中に芽生えた、痛みを糧にする“発火の能力”と、未紅の心の中にある“軌道の能力”。ふたつはきっと、相容れないものではないはず」
「どういうこと?」
「二刀流ってことよ」
椎奈は冗談を言う。
「死んだ人も、みんな世界を救いたいと思ってる」
「本当?」
「だってみんな、この世界が好きだから、死んでもこの世界に居残るんだもの。帰る家がないのって寂しいでしょ?」
「命をかけてでも守るもの」
「家族も友達も仲間も、ぜんぜん関係ない人も。みんな自分の世界のために、自分自身と戦ってる。未紅もそうだったでしょ?」
大切なことに気づいていなかった。
「じゃあ、私はここで。もう未紅とは会えないけど、きっと私も、いつかあなたを助けられる」
「いつかじゃないわ」
自慢の姉に返す言葉は、ひとつしかない。
「ありがとう。あたし、また椎奈に助けられちゃった」
私は、目覚める。
「おや、やはり最初に目覚めたのはあなたでしたか」
霧の晴れた宇気比町が戻ってきたが、仲間の姿はない。
「あんたは何者なの?」
「儂はジャニクルム。霊長種選別委員会の会員じゃよ」
「なんの能力なの?」
「見ての通りじゃ」
「…悪趣味。記憶の中にある理想の世界に、みんなを閉じ込めたのね」
「そうじゃ。この能力はいかに優れた者でも打ち消せない。仮に、あの魔術師のような人間であったとしてもな」
ルディアが戻ってきていない。
不思議だ。彼女が最初に、現実へ戻ってきそうなものだけど。
「ああ。彼女は自分が“理想の世界”に閉じ込められていることには気づいておる。しかし彼女には、抜け出すきっかけがないのじゃ。全てを諦めて進み続けた彼女には、今いる世界から抜け出す術はない。だがお主は逆じゃったな。全てに抗い続けたお主には、加々野椎奈という存在がいた。流石じゃ」
「で、あんたはどうするの?あたしと戦うつもり」
「…いいや。儂らは主君に仕えてここに来ただけ。お主らと戦うつもりは最初からなかった」
「にしてはあっちの二人は、やけに好戦的だったけど」
「若いからのう。血の気が多いんじゃろう」
向こうにはあの二人もいる。
二人はこちらを遠くから見守っている。
「儂ら幻想の民は、現世に後悔を残し、希望を抱いてここに居留まる。しかし儂らのような、無理やり作られたような幻想は、ひとたび現世とのつながりを切れば、すぐに消滅してしまう」
「いつでも自滅できるってわけね。あんたたちが悪い奴らじゃないってことは分かったけど、じゃあどうして今まで敵側にいたわけ?もっと早く協力してくれればよかったじゃないの」
老人ジャニクルムは困ったような顔で答える。
「秘密の関係者がおってのう。彼女に頼まれたんじゃ」
「社長?」
「いいや違う。だが彼女のほうも、ここまで完璧に読み切った上で行動していたのじゃろうな」
「どうりでね」
そうだ。ここまでの一連の流れは全て、社長たちによって仕組まれていたのだ。
私が加々野椎奈に出会うために。
私がここに辿り着くため。
「うむ。もちろん、事の仔細を全て予期していたわけではなかっただろう。それに、お主が再び“心”を取り戻すことも保証されていたわけではない。それでもお主の成長を望み、お主を信じて、敵陣に送ったのだ。」
「いい迷惑だわ」
「人間とはそういうものなのじゃ。いつだってわがままだが、それはみな善意の賜物。衝突もあり、勝敗もある。不思議なものよのう…」
少しずつ、姿が曖昧になっていく。
「儂らは完全にイレギュラー。あの“奇妙な箱”によって生み出された偽りの幻想。偽りは偽りらしく、細々と散ることとしよう」
「…好きにしなさい。でも、あたし、あんたたちのこと、ちょっとだけ好きになったわ。ちょっとだけ」
「……そうか。それではまた、世界を救うときに会おう」
― とある施設にて ―
「第十二幻想種が消滅した」
私は淡々と告げる。
失望もなく、後悔もなく、その他それに似た感情も全く無い。
「どうするつもりだ?技術顧問。TREE SPIDERを使えば、幻想種の生成も可能なのではなかったのか?」
「まさか自らの力で反逆ができたとは、想定外だったよ」
「TREE SPIDERもその程度だったか」
「いいや。この箱はまだ全機能の半分も出力していない。正確には、できていない」
「早く起動すればいい」
「それができないから困っているんだ」
万能の器具とさえ呼んでいたはずが、まさかいるだけの置物になるとは。
「それで、ここからどうするつもりだ?幻想種を優先するのか、魔術師を優先するのか」
「あの様子では、魔術師を引き込むのは無理そうね。なら、殲滅するしかない」
この杖の真の力を使う時が来た。
待っていろ、異界の魔術師よ。
私こそが相対する唯一の魔術師。宿敵として、貴様をお迎えしよう。
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