第4話 今宵は新月(1)

「――そして……次に気がついた時、俺はあの場所に寝そべっていたんです」


 けんが話し終えるのを待って、おお曽根そねは重くうなずいた。


「そうか……君はそんな大変な目に遭っていたんだね」


 自分という存在が消え去ってゆく実感。

 言語に絶する恐怖。

 今でこそだいぶ薄れはしたものの、記憶そのものは心の奥深くまで鮮明に刻まれていたのだと、献慈は思い知った。


(あの恐怖を思い出さないよう、無意識に押し込めてたのか。それで真田さんのことまで一緒に忘れてしまってたなんて……俺は何て薄情者だ)


 自責の念が献慈をうつむかせるが、


「私もさっき聞いて怖くなっちゃった。でも献慈くん、落ち着いたみたいでよかった」


 みおの発する言葉の一つ一つが、打ちひしがれた心に寄り添う。

 やたらと近いのはどうやら心理的な距離感だけではないようで、円卓を囲んでいるはずの三人の位置関係は、知らぬ間に父親を頂点とする二等辺三角形を成していた。


 優しく接されるのは素直に嬉しいのだが、年頃の少年にとってはいまだ気恥ずかしさのほうが勝る。


「さっきはその、取り乱したりして、すいませんでした」

「ううん、全然。それより早くご飯食べちゃいましょ――あ、お魚の骨、私が取ってあげよっか?」


 改めて見渡す食卓には、ほんのりおこげの付いた白米と、白味噌をベースにした味噌汁、そして煮物や焼き魚などが並んでいる。

 見れば見るほど、イムガイの食文化は日本のそれとよく似ていた。


「じ、自分で取れますので。ところでこれって、さっきみたいな川で捕れた魚ですか?」

「ヒゲウオっていう海のお魚だよ。北に行った所に港町があって、そこから運ばれて来るの」


 輸送には二日ほどはかかるそうで、そこには当然のごとく魔導による保存技術が用いられている。

 台所にあった野菜ですら、劣化を遅延させる術が施されているというし、両世界は似ているようでまったく違っている。


(表面的にはそっくりでも、中身は別物か……)

「何かおかしかった?」


 澪が怪訝そうに横から覗き込んでくる。


「おかしくはないですけど、あっちの世界にはいない魚だなと思って」


 献慈が答えると、大曽根が理解を示した。


「そうだったかい。君の暮らしていた……地球といったかな? こちらでいうユードナシアのことを」


 ユードナシアとは元々、古い種族の伝承で、死後の楽園を指す言葉だ。

 時代が下るにつれて、楽園はいつしか理想郷へと置き換わり、マレビトが渡り来る彼方の世界と結びつけられるようになったと考えられている。


「はい。たしか、こちらの世界のことは、トゥールモン……」

「トゥーラモンド。日常で口にするには少し仰々しい呼び名だが、国際行事のような場所だとよく使われるね」


 トゥーラモンドの名称が意味するところは〝この大地にあるものすべて〟。

 こちらも古くからある言葉らしく、人々が早くから自分たちとは別の世界を認識していたことが窺える。


 〝この世界〟、トゥーラモンド。

 〝理想郷〟、ユードナシア。

 二つの世界の間に横たわる隔たりは、一体どれほどのものか。


(帰る方法……あればいいんだけどな)


 こちらにやって来られたのだから、むこうへ戻ることも可能だと考えるのは、はたして浅はかであろうか。

 例えば、地面に落ちたリンゴが樹に戻れないように――


(――ダメだ。ネガティブに考えるのはよそう。まだ一日も経ってないんだぞ)


 不意に箸が止まったのを見て、


「もしかしてお腹減ってなかった? さっき私がおにぎり食べさせちゃったから……」


 見当違いな心配を寄せてくる澪がどうにも可笑しくて、献慈は頬を緩ませる。


「そうじゃないです。今日会ったばかりの、どこの誰とも知れない俺を、こんなふうに受け入れてくれるのが本当にありがたくて」


 咄嗟の言い繕いであったが、その気持ちに嘘はない。


「さっきも言ったけど、献慈くんが思ってるほど大したことじゃないよ。きっと……お母さんだって同じようにしてたはずだから」


 微笑み返す澪の瞳に、一抹の淋しさが漂う。


「……そうだな」


 それぞれ別の方を向いた父娘の眼差しは、ここにいない同じ面影を追っているように見えた。

 献慈もある程度は察しつつ、立ち入れない家族の事情がそこにはある。


「行くあてのない者を放り出すなんてできはしないよ。村の外にはカッパよりもずっと危険な魔物だっているのだからね」


 大曽根の言葉を疑うつもりはないが、献慈にもそれがどんなことなのかを完全に理解できているとは言い難い。


「あれよりも危険な魔物が……」

「そっか、ユードナシアには魔物っていないんだっけ」


 澪が献慈の意を汲む。


「魔物も、それから魔法も、おとぎ話の中だけです」

「ふむ……やはり君はマレビトなんだなぁ」

「……そうなんでしょうか」


 献慈が曖昧に応じると、大曽根は慌てて言い改める。


「いや、疑っているわけじゃないんだ。ただ、わたしたちにとってもマレビトやユードナシアというのは、書物の中で語られるだけの存在だったものでね」


 なるほど、不測の出来事に戸惑っているのは、献慈の側ばかりではないのだ。


「それにしても、よく俺が別の世界の人間だと気づきましたね」


 これには澪が答える。


「私たちが出会った森の周りにね、結界が張ってあって、普通の人は村の方角からしか出入りできないようになってるの」


 トゥーラモンドの人間はそれぞれに固有の霊的波長を有しており、結界はそれを感知することで不審者の侵入を防いでいる。理論上これをくぐり抜けられる人間は、波長が定まる以前の、例えば産まれたての赤ん坊ぐらいのものなのだ。

 そして、これと同等の存在となれば、可能性は自ずと絞られてくる。


「澪から君の話を聞いて、もしやと思ったんだ。結界を通り抜けられる特異な例はそう多くないからね。それとは別に、この辺りの土地柄もある」

「土地柄というと?」

「地理的な要因――まぁ、詳しいことは後で話すとしよう」


 長引きそうな話題に違いない。大曽根が話を切り上げると、


「そうだね。あんまりゆっくりしてるとご飯冷めちゃうよ」


 澪が同調した。が、そう言う彼女の茶碗には、もはや米粒一つとして残ってはいない。


(いつの間にィッ!?)

「おや、今日はもういいのかい?」


 不思議そうに尋ねる父親に対し、


「……何が?」


 娘はただ一言。心なしか、その笑顔は威圧感を伴って見える。


「何って、いつもおかわ――」

「な・に・が?」


 再度繰り返されるやり取り。先に身を引いたのは父親のほうだった。


「これはわたしの思い違いかな! ハッハッハ……」


 きょとんとする献慈を一瞥、大曽根は乾いた笑いを響かせるのだった。

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