第三話 海と風

 ゆったりと風を感じながら波に体を浮かべてみて、海の呼吸というものがわかった気がした。修行の根っこは同じ、気を感じて流れを捉え、操る。


 とはいえ、そのあたりも海斗は優秀な学び手とはいえない。

 仏法の修行によって得る法力、神仏や精霊から得る神通力、暦学や占術から編み出される呪術、どれをとっても海斗の修練度は水準以下で、落ち込むこともしばしばであった。

 真面目だけれど要領が悪い。それが海斗に対する周囲の評価だった。


「んん。ここはもう少し、こういうふうに」

 対して陽子は、とても良い師匠だった。終始傍らに寄り添って自ら手本を示して海斗が上手くないところを修正してくれる。呑み込みの遅い海斗も、程なく手ごたえを掴むことができた。

 腕と足の動きがそろってくる。そうすると、難なく海上を進むことができた。

 陽子が満足そうに微笑んで海斗を褒める。褒められれば嬉しいし、泳げるようになった達成感が気持ちを高揚させ、なおさら海は楽しいと海斗は感じた。


 海上を渡る風、さざ波の揺らめき、足元をまわる小魚の群れ、岸に寄せては返し時を刻む白い波も。すべては繋がっているのだと感じる。山中での修行以上に濃密に感じる気のめぐり。自分は海に合っているのだと強く感じた。


「あんたはどうして洞穴に行きたいの?」

 波打ち際に座って一休みしている時、陽子が尋ねてきた。海斗は不器用に黙り込む。

「近頃多い地の震えに関わること?」

 海斗はやはり答えられない。陽子は目を細めてふんふんとひとりで頷いた。

「都の術者ともなると大変だね。人間の力で、土精の親玉の大鯰おおなまずをどうにかできると思ってんの?」

「それはそうだが……」

 思わず相槌を打ってしまってから、海斗は陽子がにやにやしていることに気が付く。うまく誘導されてしまったらしい。


「それはそうだが」

 力なく繰り返し、俯いて砂の上に視線を彷徨わせながら海斗は言葉を繋げた。

「このまま何もしなければ、土用にまた地が揺れるかもしれない。またどこぞで津波が起これば、また村が呑まれる。人々が犠牲になる」

「人はそうやって学んで次に備えるようになる。今度は波に呑まれない場所に村をつくればいいだけだ」

 あっけらかんと陽子が言う。海斗は目を上げて彼女の顔を見た。


「なんだい? その顔。だってそうだろ? 日照りが来るなら川を堰き止めて水を溜めておけばいい。大雨が続くというならその逆だ。暦や占や先見は、そういう前触れを知るためのものだろう。前触れを掴んだなら広く知らせてみんなで備えればいい。先見がはずれたならそれはそれで良かったねって笑えばいい。命は、そうやって皆で一緒に守るものなんじゃないの?」

 海斗は目を瞠って陽子の白い顔を見つめる。石のように固まって反応を示さない海斗に、陽子は口を尖らせた。


「大体、あたしは気に入らないよ。風も、海も、地も、人が操れるもんじゃない。人の力で抑えられるものじゃないんだ。都の術者だろうと、せいぜいできるのは気の力を少し借りて振るうことだけさ。それをいつから自然を操ろうだなんて勘違いを起こしたんだい」

 海斗は返事ができないまま、また砂の上に目線を落とす。


 しばし言葉を探した後、ようやく口を開いた。

「だが、厄災が目前に迫っているというのなら、それでみすみす人の命が失われるというのなら、それはやはり、誰かが止めなければならない」

 命を拾われた自分が得た使命なのだから、その為に自分の命はあったのだ。海斗はそれを疑いはしない。

 意固地に唇を引き結んだ海斗を、やはり口を噤んで陽子は見つめる。その眼差しは、青く透き通っていた。





 その日の夜、羅版で暦を確認してから、海斗は崖の下の岩陰に体を丸めて横たわった。再び土気が隆盛する土用まであと一日、間に合った。

 海斗は目を瞑って残りの日数の使い方を考える。明日には陽子と洞穴まで泳いで行ってみることになっていた。


 たどり着ければ下見ができる。地を揺らす土精の大鯰が潜んでいるか確認できる。そして翌日には一人で赴き、目覚めんとする大鯰へと楔を打ち込む。それでひとまず地震えは起こらなくなるだろう。


 ――人の力で抑えられるものじゃないんだ。

 昼間の陽子の言葉が耳に蘇る。海斗はぱちりと目を開いて仰向けになり、頭上の星々を見上げた。


 陽子の言うことはその通りだと思った。人ができる最善を探るため、高徳のひじりたちは日読みや、月読み、星読み、卜占、あらゆる手立てで道を知ろうとする。少しでも知り得た標を政で活かすために。


 政とは四方を平らげ人々を安寧に導くものであると海斗は習った。

 八百万の神々が司るこの秋津洲あきつしまにおいては、政は祭り事をも意味する。荒魂あらみたまを宥め和魂にぎみたまへと鎮魂する。

 五行のめぐりを祈祷するのもそうだ。人の身でできるのは、あるべきものであるように祈りを捧げるだけ。


 だが今は、それでは足りないから、この身を捧げるのだ。

 砂の上に大の字になって海斗は静かに星空を見上げる。夜気がしっとりと体を覆う。鼓膜を打つさざ波が何処かへいざなってくれるかのようだ。


 眠気を感じながら、海斗はまた陽子のことを思い出す。あの青い眼差し。

 徳の高い人々は、みな目が青く澄んでいる。海斗の養い親の日読みの聖もそうだ。

 陽子は祭り事にも詳しいようだったし土着のかんなぎだったりするのだろうか。明日、本人にそう尋ねてみようか……いや、きっと陽子は答えてくれない気がする。察したことに海斗は小さく微笑む。


 その夜は、星々の間に彼女の透き通る眼差しを思い描きながら眠りについた。

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