不格好の美

 強い湿気と閉め切った窓から差し込む日の光。鼻につくアクリル絵の具はとてもキツく慣れていないとむせてしまうほど。散らかった部屋のど真ん中に大きなキャンパスの目の前に座る二二歳の青年は、大学生が今まさに隣で、

「昨日、留年決まっちゃってさ。」

と、いいながらヘラヘラして笑っていた。

「ええ...。」

小学六年の女の子である私はドン引きしてます。

「いやあ担当教員が卒業する時期にこだわりないでしょ、て言われてね。でも、単位とってんだよ?」

付属で色々付け足されてももう遅い。そんなことある?

この、絵で稼いで生活しているもさい黒縁眼鏡の男はお人よしすぎます。

 そんな男の前に置かれた割れたマグカップ。それをデッサンした上に色で動きを付ける姿は努力の時間と経験を物語っている。その男の横に座る私はよく分からないといった様子でただ眺めていた。

 これは、ただ一つのガラクタについて会話するだけのお話。捨てなければいけない思い出の品は描けばいいそうです。


 この男と私との関係は鳩子である。この頃、男は忙しかったから会う機会がなかったがようやく最近会えるようになって暇な時間に一人暮らしをする男の元に赴いては作業の邪魔をしないようにボーッと眺めていることが多くなったのだ。

「なんでいつもガラクタばっか描いてるの?」

いつもの問いに男はいつもこちらを向いて微笑むだけだった。最初こそ何かしら理由を言っていたが、毎度毎度尋ねるので今は本当にそれだけ。だけど、私は別に怒ったり愚痴ったりはしなかった。それが毎度のルーティーンみたいなものだった。この男が描くものは毎回壊れて使えなくなったものの何かだった。二週間前までは動かない針を持った腕時計、もっと前には破れたり黄ばんだりして使えなくなったブックカバー。それらを鉛筆でデッサンした上に色で躍動感あふれる動きを入れる。今回もそうだ。二週間じっくりと鉛筆で割れたマグカップにそのマグカップに無い多様な色を咥える。割れたマグカップから溢れる雫を桜色で染め上げ、マグカップから離れに描かれた割れた欠片は虹色に染められていた。

 いつもは描いている間は無口なのに、このときは違った。

「去年、おばあちゃんが死んだんだ。」

なるほど、それで忙しかったのか。でも、どうしてこのタイミングでそんなこと言うのだろうか。そういえば親が何か言っていたような気もするが、個人的には面識はないしどうでも良かったから知らなかった。

 そしてまた男は描いていく。ただの、ガラクタでしかなかったモノクロのマグカップは色によってこの男の感情が露わになっていく。黄色やオレンジ、黄緑色はまるで幼い子供のようにウキウキしているようだった。その色はマグカップの猫を彩っている。緑や赤、紫を絵に取り入れるとそれは今の大人びた雰囲気を演出していた。落ち着いていながらも楽しそうだった。途中で茶色が入り混じる。グレーや渋いピンクや緑も加わる。これは何も分からなかった。そして、ここで違和感を覚えたなんか、なんかちゃんと言葉で言い表せないけれどいつもと違う。背景やマグカップの模様、飛び出る液体にも使われていて綺麗ではあるが疑問しかわかない。ちらっと男の顔を伺った。私は少し不安になる。笑ってはいなかった。目尻を下げて哀愁が漂う。絵の方を見ていると青や水色などの寒色系が増えていった。まだわからない。何がいつもと違うのかは分かった。いつもなら暖色なら暖色で寒色なら寒色で固めるのに、今回は色とりどり過ぎて何を考えているのか分からなすぎる。

 どうしたのかと訊こうとして男の方を見た。

「・・・。」

唾ゴクリと呑みこんだ。音にさえならない悲鳴が心の中で響いている。男の黒縁眼鏡の下から流れる一筋の雫。白く反射したレンズは窓から差し込む夕日で右下がピカッと光っていた。筆を走らせる腕は止まってぶるぶる震えている。その様子からしてふつうじゃない。もう一度キャンパスの方へ振り返るとそういうことかとやっと理解した。マグカップの右端に男の名前が書かれているではないか。自分はどれだけバカだったのか自分で自分を非難した。

「ごめんな。見苦しいところを見せて。」

そう言って男は眼鏡を取って筆を置いた手で両目を覆った。わなわなと震えた口元、肩を震わせている男の姿。私は両目を覆う方の腕に自分の手を添えた。すると、男はそろりと手をどけて涙で濡れて赤くなった目を露わにする。バチッと合った視線と私との距離に驚いて分が悪かったのか目を反らした。それを見て私はハッとした。

「なんで?綺麗だよ。」

何かを、誰かを想って流す涙は綺麗なんだと初めて知った。男は目を見開いて驚いていたがやがて笑みを浮かべる。

「そっか。」

そして、私も笑い返した。この日、どうしてガラクタの絵を描き続けるのか分かった気がした。

 日が暮れてまた朝が来るその日まで、私達はふて寝していい夢を見たのだった。

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総合短編集(フィクション) 衣草薫創KunsouKoromogusa @kurukururibon

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