第2章 神様のお守りさま

名雪、パパになる

 古い家の匂いに目を覚ます。


 高い天井には黒ずんだ木材が組み合わさっていて、そこでようやく名雪はここが自分の部屋ではないことを思い出す。

 眩しさに目を細めながら頭上を見ると、襖の間からは陽の光が差し込んできていた。夜が明けていたことに驚いた。起きあがろうとするも、猛烈な怠さに布団に押し戻される。血管の中に鉛でも流れているのではないかと思う。


 再び頭だけでぐるりと周囲を見る。

 昨晩あの後、柔道場のように広いこの部屋で、泥のような眠気に襲われた。よほど疲れていたらしく、その後の記憶は今の今まで全くない。


 お婆婆の姿は部屋にはなく、稲穂と、彼女が寝ていた布団もすでに見当たらなかった。

 頭を百八十度ほど回してきて、足の先の方を見た時、そちらの襖にも僅かな隙間があることに気づいた。隙間からは金色の毛を持った狐耳が二つ出ていて、その下では赤い瞳が名雪のことをじっと見つめていた。


「ああ、良かった。元気になったんだね」

 名雪が上体だけ起こして呼びかける。

 稲穂の方はまるで聞こえていないのではないかと思うほどの無反応。

 時々ゆっくりと瞬きをし、耳の先端をピコピコと動かしたりはするものの、声を出すことも表情を変えることも一切しない。


「え、と……そうだ。僕も『稲穂』って呼んでも大丈夫? 君の名前だって聞いて」

 稲穂がようやく、こくり、と反応した。


 心がジワジワと暖かくなってくる。姿形は変わっても、稲穂の魂が戻ってきたのだと実感する。ただ、名雪は元々他人と話すのが得意ではない。続けて何を話そうかと困っていると、稲穂の方が口を開いた。


「たすけてくれたひと……」

「え? あ、うん。覚えていてくれたんだね。そうだ。お礼が遅れちゃってごめん。昨日はありがとう。むしろ助けてくれて」

 子狐は再び、こくり、と反応した。


 未だその身体の半分以上が襖の後ろに隠れている姿からは、人に慣れない小動物のような雰囲気を感じる。よく見ると服装は昨日の巫女服のようなそれではなく、大人用らしい大きな白いTシャツを着ていた。そのままでは大き過ぎて着られないため、肩の上や身体の側面で何度か縛られていて、お団子状の結び目ができていた。


「……やさしいひと?」

「え?」

「たすけてくれたひとは、やさしいひと?」

 初めて聞く質問だった。


 「はい、そうです」と答えれば、そのまま信じてしまいそうな気配もあるが、変なところで真面目な名雪は、回答を少し躊躇った。


「え、と。優しい人かは分からないけど、優しい人になりたいとは思う、かな」

 稲穂はしばらく名雪のことを見ていて、やがて再び頷いた。


「あっ!」

 明るい声がして、名雪が視線を真後ろに向けた。


 陽の光の差し込む襖の隙間には、見たことのある美人が立っていた。昨晩、悪樓というらしい化物から名雪を逃がしてくれた雪女、木霊夏希。昨日の水色のワンピースとは違い、今日は白いワンピースを着用している。相変わらず、ただそこにいるだけなのに世界が明るくなるような華やかさがある。お婆婆からは「無事」との報告を聞いていたものの、名雪は安否をずっと心配していたのだった。夏希は左腕に大きな絆創膏を貼っているものの、そのほかに大きな怪我はないらしく、名雪は心の底から安堵した。


「お婆婆様! 起きました、起きました! 名雪様起きましたよ!」

 言い終えるなり部屋に入ってきて、名雪の無事を確認するかのように、頬にそっと手で触れてきた。想像以上に冷たくて、そしてそれより何より触れられたこと自体に驚いて、名雪の尻が僅かに浮いた。


「名雪様、ご無事で何よりです。昨日はすみません。大したお役に立てず……。あの後、大変だったことも既に聞いております」

「いや、そんな、そもそも夏希さんが来てくれていなかったら、きっと最初の化け物に食べられていましたし」

 嘘偽りのない言葉だったが、夏希の表情は曇り模様から変わらなかった。


「名雪様、ご体調はいかがでしょうか? 少し熱い気がします」

 言って更に近寄ってきて、あろうことか、こちらの額に額を当ててこようとする。


 近い近い近い!

 接近警報が頭の中で鳴り響く。


「だ、大丈夫です! 本当に!」

 稲穂の視線が気になって反対側の襖を見ると、そこにはもう、彼女の姿は見えなかった。


「あれ?」

「どうかなさいましたか?」

 名雪が手で襖を指し示した。

「ついさっきまでそこに稲穂がいたのですが……」

「え⁉︎ 稲穂様が?」

 夏希の目がキラキラと輝いた。


「私、実はまだ稲穂様にご挨拶できていないんです。どちらに行かれたのでしょうか……」

「あ、名雪君!」

 再び後ろから声がした。

 今度立っていたのは久世公陽きみはる。昨日のアロハシャツは脱いでいて、代わりに体中に白い包帯を巻き、絆創膏を至る所に貼っていた。こちらは夏希とは違い、満身創痍といった感じである。


「お婆婆様! 起きた起きた! 名雪君起きましたよ!」

 今度は足元の方の襖が開き、鬼婆婆……改め、お婆婆が入ってきた。

 久世を見てうっとうしそうに眉を顰めている。


「もう夏希から聞いておるわ。それに公陽、そんなに大声出さずとも聞こえるわい」

 部屋の中にあった座布団を引っ張り出して、それに胡座をかいて座った。

「名雪、体調はどうだ?」

「え……と。なんだか凄く怠くて……。でもそれ以外は大丈夫そうです」

 うむ、とお婆婆が頷いた。

「その怠さは、土地神が流し込んだ膨大な霊力の反動よ。普通のエンジンにガソリンではなくニトロをぶち込んだようなもの。三日もすれば回復する」


 昨晩の戦いを思い出した。

 相手の爪に背中を抉られ死にそうになって、しかし稲穂から霊力の供給を受けた名雪は完全に回復した上に相手を圧倒した。あれほどの無理を可能にするほどの力を流し込まれたら、体にガタが来るのは仕方がなさそうには思う。


「聞いたよ名雪君、稲穂様から護神力を受け取ったんだって? 凄いなぁ。普通の人間なら絶対に死んでるよ」

「え?」

 驚く名雪を久世が意外そうな目で見た。


「あれ? 聞いてない? 護神力なんてデカい力を人間に入れたら、霊力の器である高杯が容量オーバーでぶっ壊れちゃうからね。マジで一発で死ぬ。爆発して肉片になるよ」

 こわい……。

「でもこれで、俺は早速お役御免かー。残念無念」

 残念でも無念でも無さそうな顔で久世が宙を仰いでいる。


「お役御免?」

「そうそう。俺、もともと今回、稲穂様の御守り候補としてここに来たんだよね。その選考レースで突如現れた名雪君にぶち抜かれたっていう、今そういう状況」


 なぜ久世という霊能力者がこの地に現れたのか理解した。

 確かに久世であれば、御守りの役にぴったりだと思う。

 むしろ自分などとは比べ物にならないくらいの適任に違いない。今から変わる……ことができるとしたら、名雪が死ぬしかないというのが残念なところだが。


 夏希が笑顔で名雪の方に少し寄った。

「名雪様、これからはよろしくお願いしますね」


 ん?


 何故いま改まって言われたのか良くわからないでいると、お婆婆が助け舟を出した。

「言ってなかったかもしれんが、『御守り』が選任される場合は、庇護される神の思考や価値観が偏らないよう、人間と妖怪、それぞれから一名ずつ選ばれるのが通例だ。つまり夏希は稲穂のもう一人の御守りということよ」

「え?」

 戸惑う名雪の視線の先で、夏希が花のように微笑んでいる。


「病める時も健やかなる時も互いに協力し合い、共に神を守って生きていく、それが二人の御守りの在り方だ」

 いやそれ、結婚式の誓いみたいになってないかと慌てる名雪の目の前では、夏希が決意も新たに真剣な顔で深く頷いている。夏希はそれで良いのだろうか。名雪は霊が見えるだけでそれ以外は全くの素人なのである。迷惑をかけてしまうのは目に見えているのだが……。


「おい公陽、メシの準備しろ」

「はーい」

 名雪以外の面々は、それほど名雪の「御守り就任」を悲観的には考えていないらしい。

 お婆婆の指示に従い、久世がちゃぶ台を引っ張り出してきた。


「あと公陽、お前、お役御免は気が早い。名雪の修行はお前が付けろ」

 おお、と久世が手を叩いた。

「なるほど納得。お婆婆様が指導なんてしたら、名雪君が一日で精神崩壊しますもんね。どうするつもりなんだろうって思ってました」

「そうだろう?」

 お婆婆と久世が二人ではっはっは、と笑っている。

 とんでもない魔窟にいるらしいことに今更ながら気づいた。


 朝食の用意ができて四人でちゃぶ台を囲む。

 そういえば誰かと一緒に食事をするなんて久しぶりのことだった。


「おい、稲穂」

 席につくなりお婆婆が言った。

「いつまで隠れてるつもりだ。お前もメシ食え」

 奥の襖から、ソロソロ、と稲穂が顔を出した。

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