千年堂のお稲荷様②ー4
普段運動なんてまともにしていないので、名雪の息は走り出してすぐに上がった。そして息が苦しくなるにつれて、自転車を使うという選択肢を思いつかなかったことを後悔した。とはいえ今更アパートへは戻れないので、重い足をなんとか前に進ませ走り続けた。
海岸線に出るために国道百三十四号線に出る。
車のヘッドライトの眩しさを感じて目を細めたその時、周囲の世界全ての色が薄い青色へと塗り変わり、走っていた車が停車した。
いや、正確に言えば車が停車したのではない。
車だけではなく、名雪の前を走っていた自転車はそのまま倒れることなく停車していて、それは歩行者においても同じことだった。まるで動画を一時停止したかのように周囲の光景全てがピタリと固まってしまっている。
「……勅命結界」
口から出てきた自分の知らない言葉に困惑する。
ちょくめいけっかい……、って何?
頭の中の検索が始まり、脳がミリミリと音を立てて動く。
どこで聞いた言葉だろう。
確か昔……母さんが……。
そこまで考えて正気に戻る。そんなことはいま、後回しだ。
とにかく千年堂を目指して進まなければならない。
およそ一キロあるかないか。なんとか自分の体力でも走り切れるのではないかと思う。
走りながらも、周囲の全てが凍りついたように動かないことには戸惑いを覚えた。ただ、確かに自分は以前これと同じ現象を見た記憶がある。幸いなことに、止まってしまった人たちが死んでしまった訳ではないし、何か深刻な被害が出たとかもなかったような気がする。……たぶん、だけれど。
とにかく悲観的になっても仕方がないので、今は悪い方に考えないことにする。
ようやく長谷駅の近くまで来て、今度は山の方に向かって走り始める。
ここまで来ても周囲の光景は固まっていて、江ノ電の車両さえも駅に入る前のタイミングで硬直して止まっていた。
突然。
右の方向に爆発的な霊力の高まりを感じた。
その辺の御霊達なんて比較にならない。洪水が迫っているかのような圧迫感。
続いて足音。
まるで映画で見た怪獣のそれのような巨大な足音が急速に大きくなってきた。
何かが来る。
ドーン!
巨大な衝撃音が鼓膜を叩き、思わず耳を塞いだ。
右前方にあった二階建ての民家が崩落し、中から何かが身体を振って飛び出してくる。
灰色をしたその悪霊らしきものはそこで止まらず、固まって停止していた電車に衝突した。電車が脱線して横転する。金属の摩擦音と破壊音とがまるで断末魔の悲鳴のように聞こえた。
ゴオオオオオアアアアッッッッ!!!!
その咆哮に我に返った。
名雪の視線の先、巨大な怪物が横転した電車を踏みつけにして立ち上がる。
一瞬、先ほどアパートにやってきた怪物に似ていると思ったが、改めて見ると姿形にはかなり違いのあることが分かった。
一言で言えばその姿形は「二足歩行するオタマジャクシ」でり、前脚は小さく、代わりに後ろ脚が太く長い。しかしいずれにせよ先刻のものと同じく、大きさが常軌を逸している。普段見かける御霊とはまるで異なり、大型のバスくらいはある。
先ほどの悪樓と同じ種族か否かは不明だが、とにかく敵が一体だけでないということは間違いないらしい。
怪物は、すぐには名雪を襲っては来ず、電車の車両に食いつき、皮を剥ぐように鋼鉄の壁をベリベリと壊した。そしてやはり車輌の中で硬直している人間達を、当然のように貪り喰い始めた。
バキゴキ、と骨の砕ける音がして、真っ赤な血液が噴き出していく。あまりの光景に名雪が口を押さえ、それでも我慢できずに路肩に吐いた。
あの人々がどうなるのかなんて分からない。考えたくもない。
ただ……最悪の可能性がある以上、そのままになどしておけない。
目の前にあった拳大の石を拾う。
思いっきりの力で放り投げ、頭を狙ったそれは大きく想定から逸れたものの、巨体の左の後ろ脚に当たった。
怪物が顔を上げ、名雪のことを見る。その大きな口は、まるで笑っているかのように歪んでいる。
名雪がダッシュでスタートを切ると、怪物はゆっくりした足取りで、しかし一歩一歩加速しながら、後を追って走り始めた。
捕まったら食われると、久世という男性は言っていた。
大量の汗が背中を流れた。
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