千年堂のお稲荷様②ー1
由比ヶ浜駅と長谷駅の中間くらいにある木造2階建てのアパート。
階段上がってすぐの部屋が、名雪が一人暮らしをする部屋である。
幼い頃は母と一緒に住んでいて、「稲穂」という名の明るい茶色の小型犬も飼っていたため、二人と一匹暮らしだった。
やがて母が「男を作って出ていき」、稲穂もこの世を去って、家には名雪一人が残った。
親戚と呼べる人々は最初からほとんどいなかったが、僅かばかりのつながりの人たちも、名雪を引き取ることを嫌がった。しかし相手の立場になってみれば、突然何もないところで叫び出したりする遠戚の子どもを引き取りたいなんて思わないのが当然だろう。
今日まで一人で生きてこられたのは、母が残したこの部屋と、彼女の貯金と、そして何より、自分を捨てた彼女に対する憎しみの気持ちのおかげだったのだと思う。自分と同じく御霊を見ることができ、幼少期の名雪にとってほぼ唯一の理解者だった母。彼女の裏切りは、幼かった名雪にとって到底許容できるものではなかった。しかしその激しかったはずの感情も、最近はほとんどなりを潜めてしまっている。
毎日一人で起きて、登校して、学校での時間を無為に過ごし、毎日一人でご飯を食べて、風呂に入って寝る。ただその繰り返し。
感情なんて、微生物と同じ程度にしか湧かなくなっていた。
ほとんど何もない部屋に入り、畳の上にリュックを置いた。
名雪の部屋はいわゆる1Kで、玄関の隣にキッチンがあり、ワンルームには西側に窓が付いている。この時間は陽の光が入って部屋の中は眩しいくらいに明るくなっていた。
窓の外には葉っぱで作った人形のような御霊が3体いて、名雪の方を見てなんとなくソワソワしているように見えた。霊力も弱く、明らかに害は無さそうだが、今日は彼らも「引き寄せられている」のだろうかと考えると、いつもよりも嫌な気分が増すような気がした。
御霊が見えてこれまで良いことなんて無かったし、今後もそれは変わらないと思う。
畳に座って冷たいお茶を飲み、一息ついている間、名雪は2年前に亡くなった犬の稲穂のことを思い出していた。
母が拾って育てていたらしく、物心ついた時にはもう一緒に住んでいて、彼女の方が年上だったので、時おり母親や姉のような顔をすることもあった。母が失踪してからは、一昨年の別れの時まで、ずっと二人で生きてきた。
全ての犬がそうなのかは分からないが、名雪と同じく御霊を感じることができ、特に幼かった頃の名雪のことを、身を呈して何度も助けてくれた。
その稲穂に一昨年、急性の腫瘍が見つかった。
お金がなく、満足な治療を受けさせてあげることができず、医師から余命一ヶ月と言われ、しかし稲穂はそれから半年生きた。
自分がいなくなったら、名雪が一人になってしまう。
彼女はそれを誰より理解していて、病気の痛みや苦しみの中、歯を食いしばって生きようとし続けた。
臨終の際も、辛そうな呼吸の中、名雪が嗚咽を漏らすたびに薄く目を開き、まるで「大丈夫」と告げるように小さく声を出した。
彼女にもっと生きていて欲しくて、でも、最後にもっと、かけるべき言葉があるような気がして……
ありがとう。もう大丈夫だから
泣きながら名雪が言うと、稲穂は穏やかな表情になって頷き、目を瞑った。
もう二度と、目を開けてくれることはなかった。
名雪は家族と、唯一の心の支えとを同時に失った。
そういえば、それからだったのかもしれない。この世に生きることに、それまでよりも無関心になってしまったのは。
千年堂の手紙にあった時間がやはり少し気になってしまい、何度か時計を見ていたけれど、やがて件の十六時四十分は何事もなく訪れ、何事もなく去っていった。
小さくため息をついて畳に寝転がる。
ふ、と。
西の窓から差し込んでいたオレンジ色の夕陽が消えた。
山の向こうに日が沈んだのだろう。日差しがなくなり、部屋の中が少し寒くなったような気がした。
名雪が窓に近づきカーテンを引こうとした、その時。
コンコン。
玄関から音がした。
誰かが扉をノックしたのだ。
名雪の背中でゆっくりと産毛が逆立っていく。
鼠色のペンキがノッペリと塗られた鉄製のドア。下の方に郵便受けが付いていて、上の方には覗き穴が付いている。
コンコン。
内側からは見えないが、ドアの外には電子タイプの呼び鈴が付いている。
敢えてノックする「人間」なんていない。
心臓が大きな音を立てている。カラカラになった喉に唾を押し込む。
ゆっくりと玄関に向かい、靴を踏みつけにしてドアに顔を近づける。
ドアから錆びた鉄の臭いがする。
覗き穴の先には、想像もしていなかった光景があった。
若い女性が立っていたのだ。
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