第3話 初めての専属家政婦一日目
結局僕は美容院に行くことなく、この日を迎えてしまった。十月二十日。山内さんは今日から僕の家に家政婦としてやってくる予定だ。朝から部屋中を掃除して、……って、家政婦さんに来てもらうのに掃除してって言うのもおかしな話だけれど、朝からソワソワして落ち着かない僕は掃除をすることで気を紛らわせた。
「はあ……」
もうすぐ十時。最初に来た日もこれくらいだったし、きっともうすぐ山内さんが来るのだと思うと、嬉しいよりも緊張感の方が優ってしまう。えっと、今日の僕の格好は、……うん、買い物に行ってないのだからしょうがない。前と同じような感じの薄いグレーのロンティーに、紺色のチノパン。きっとおかしくはないと思うけど、自分の服装がどう見えるのかなんて僕には分からない。
「ネットで服でも買えば良かったかな……」
何度かそう思って見てみるも、どれを買っていいのか正直分からなかった。今時のお洒落って、どんなんだ? そもそも、お洒落する必要があるのだろうか……? 自分の家なのに。
ネットを見てて、最近のトレンドで検索し、全身真っ黒のモードなブランドは違う気がしたし、かと言って、派手な色のシャツをカッコよく着こなしている外国人モデル採用のブランドも違う気がした。いかにも普通なのにお洒落って、意外と難しいことがわかった。大体お洒落なブランドなんかに興味がないから、ネットで選ぼうとすればするほど意味が分からなくなってしまったのだ。
そんなこんなで、昔の服を引っ張り出してきてアイロンかけてみるとか、僕、よっぽど山内さんにどう見られるかが気になってるのかな……。それにこの髪、今日も一つに結んでみたけど、これ、本当にいいのか?
——ピンポーン
「うわっ!」
ビビったぁ。あ、ちょうど十時。あ、山内さんだ……。本当にきてくれたんだ。
「よかったぁ、事故にあったとかじゃなくて」
——ポチッ
「はーい、どうぞー」
今の答え方は普通ぽかっただろうか。いかにも誰かが来るのに慣れてます的な雰囲気で返事ができていただろうか……。うん、大丈夫。きっと大丈夫なはず。えっと、髪型もいいし、歯もさっき磨いたし、えっと、それで洋服もシワがないし。うん、大丈夫……、だよね? や、これ、本当大丈夫かな……? やっぱり白いボタンシャツのほうがしっかりとして見えるかも……?
——ピンポンピンポン
うっそ、はやくね? てか、エントランスからここまではやくね? いかんいかん、待たせたらダメだ。さっき見たところ、また大きな風呂敷を持ってきてるみたいだったし。
——ガチャ
「関川さんおはようございます。あ、今日のお洋服もとってもよくお似合いですね」
「あ……、と。ありがとうございます……」
セーフ!? 今日の僕のセレクト、これでセーフ?! でも山内さんの笑顔に嘘はない気がするし。それにしても今日はこないだの服装に普通の白いパーカーを羽織ってるだけなのに、なんでこんなにも可愛く見えるんだろう。
「中、入ってもいいですか?」
「あっ! ああ、ごめんなさい、どうぞどうぞ……。これ、持ちましょうか?」
「いいんですか? 土鍋が入っていて重たいので、気をつけてくださいね」
「あ、はい。え? また、土鍋?」
「はい。土鍋です。じゃあ、関川さん、これ、よいしょっと。ふう、肩が少し楽になりました。結構重かったので」
「確かに……。これを一人でここまで?」
「はい! もちろんですよご主人様!」
「ごっ!? そ、その呼び方はやめてください……」
「あはは。その顔、すっごく可愛いです。では中に、失礼しまーす」
なんてことだ。ご主人様なんてふざけて呼ばれただけで、僕の胸が張り裂けそうになるだなんて。それにまた僕の胸に触れるくらいの距離感で部屋の中に入って行った。僕の胸の辺りから山内さんの香りがする……。
やはり、山内さんは、こういうのに慣れているのだろうか……。
ぐっ、なんか急に胸がさっきとは違う苦しさを持ち始めている気がする……。
「台所、好きに使っていいですかぁ?」
あ、いけない。
「はーい、どうぞー」
僕もはやく中に入らなきゃ。
「それ、ここのテーブルに置いてください」
「あ、うん……。それにしてもやけに重いね、これ本当に土鍋なの……? え? や、山内さん? あの、これは……?」
「これ、私の家にある調理器具ほぼ一式です! だって、関川さんのおうち、何にも調理器具がないんですもん。だから、家からほぼ一式持ってきちゃいました。てへ」
「てへ、……って。え? でも、それじゃあ山内さんは自分の家でご飯作れなくなっちゃいますよね?」
「そうですよねぇ。困っちゃいました。なので、私も関川さんの専属家政婦として毎日一緒にご飯を食べてもいいですか?」
「は? えっと、それは、あの……?」
「関川さんの家に朝はやめに来て、一緒に朝ごはんを食べるでしょ? それから、お昼ご飯を作って食べて、夜ご飯をまた作って、あ、私、おやつも作れます! 簡単なものならですけど。それで家に帰って、また次の日の朝に来る。どうですか? この計画だと、私の家に調理器具はいらないような気がしたんですよね」
「うんと、えっと、確かに、そうなるかもなんですが……。それって、毎日うちに来るってことですか?」
「そうですよ! 先日お話ししましたよね? 私を専属家政婦として雇ってくださいって。関川さん、いいですよってハンバーグ食べながら言ってました!」
そんな笑顔で言われても……。
「いや、ですか……?」
そ、そんな僕に一歩近づいて言われても……。てか、近いから、距離感が、あ、もっと近づいてきた……きょ、距離感が近いから!
ああ、僕の心の中がざわついている。山内さんが僕の胸の前に立ってて僕の胸の中がざわついている。もうダメだって
なんなんだ、この今直ぐにでも抱きしめたい衝動は!? こ、堪えろ、堪えろ関川流生。堪えろ。そんなことをしてはいけない、いけない……のに、ああ……なんでこんなにも山内さんに触れたいって思うんだろうか……。離れがたい……。
「ダメ、ですか? 毎日きちゃ?」
くうう! なんて顔して見上げてくるんですかっ! なんでそんな可愛い表情してるんですかっ!
「わ! わかりましたから! ちょっと、山内さん、距離が、距離が近い気がしませんか……? 」
「やった! じゃあこれで毎日来てもいい契約完了ですね!」
「毎日来てもいい契約?!」
「はい! 私は関川さんの専属家政婦として、朝から晩まで、なんなら関川さんが眠るまで一緒にいていいってことで契約完了です」
「眠るまで一緒!?!?」
「いや、ですか?」
「い……や、と言うか、それは……」
なんでまた悲しそうな顔をするんだー! でもそんなのって、ないし、ないない。だってそんなの、緊張しすぎて息ができないから!
「いやなんですか……」
「や、えっと……」
ちょま、本当、なんでそんな悲しそうな顔するの? 山内さん、そんな顔したら僕はもう……。
「いやじゃないです……」
はああ、言うしかないじゃん、そうやって。
「嬉しいです! 思い切って仕事辞めてきた甲斐がありました!」
「え? 仕事辞めて……?」
「なんでもないです……。ささ、今から土鍋でご飯を炊きますので、今日は関川さんに土鍋でご飯を炊くのを手伝ってもらいたいんですよね。結構楽しいですよ。ほら、ほらほら、ぼうっと突っ立ってないで、良かったら一緒に作りませんか? スパイシーなカレーはもう仕込んできてるので、今日は土鍋でご飯を炊くだけです。それで、土鍋でご飯を炊くためには、まずはお米を洗って、それから浸水時間は——」
「二十分?」
「正解です! その二十分の間に、良かったら私に関川さんの髪の毛を切らせてください」
「え?」
「美容師の友達に教えてもらってきました。てへ」
「てへ、……って」
「いや、ですか……?」
「や、えっと……」
「私、この一ヶ月の間に実家に帰って、髪を切る練習をお兄ちゃんやお父さんや幼なじみにお願いしてしてきたんです。ほら、これで」
「バリカン……?」
「はい! 最近のバリカンは優秀で、長めのかっこいい髪型もできるんですよ!」
「そ、そうなんですか……」
「なので、後ろで結んでいるのも本当に好きなんですけど、良かったら……。そんな素人の私が少し練習したくらいじゃ、いやですか……?」
くうー! なんだその顔は!? さらにその一歩近づいてもう僕の胸と山内さんの胸がくっつきそうじゃないかっ! く、苦しい……。心臓の鼓動が早くなりすぎてもうオーバーヒート気味だってば! 山内さんのおでこにあと少しで僕の唇が触れてしまいそうなくらいの距離感じゃないかっ! なんなんだ、この展開は!?
「関川さん? いやですか?」
「や、えっと、えっとですね、近いですよね、すごく」
「近いですね。すごく」
「うんと、本当、近いと思うんですよ。その、なんと言うか、距離が……」
「ご主人様との距離感は近いほうがいいかと」
ダメだ。もうダメかもしれない。もう心臓がはちきれそうにドキドキしすぎてる……。
「いいですか?」
「はい……?」
「土鍋ご飯を炊くまでに手があく時間、関川さんの髪の毛を私が整えても?」
この展開は、なんなんだろうか? 僕は彼女いない歴三十一年の恋愛経験も何もないのに、これは、一般的には普通なのだろうか?! 彼氏と彼女でもない関係なのに?!
to be continued……
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