第2話

 5歳になる頃には、曹瑛は自分が父と母に捨てられたことを知っていた。男たちが面白半分にそう話して聞かせたのだ。自分を守ろうとしてくれたのは兄だけだった。兄を殺された怒りを胸にここで生き抜くこと、そのために信じられるのは自分だけだった。


 ここは不条理がまかり通る世界だ。大人は冷酷だが、子供たちは残酷だった。夜中じゅう泣きじゃくる子がいれば、大人に怒鳴られる。3人の年長者が毛布を被せて息の根を止めるのを見た。

 酷く寒い夜には、寝具を奪い合う。力無い子は朝になって冷たくなっていた。大人たちはそれを一切咎めない。弱いものは淘汰されて好都合と思っていたからだ。“良心”が何かを教えるものはここにはいなかった。


 集団で行動し、ずる賢く生きる子供たちがいる中で、曹瑛は一人で過ごした。いくら集団の中にいても、結局容易く裏切られる。その様を冷静に見ていた。

 子供たちはずっとここで強制労働を強いられるものばかりでは無かった。むしろ、年頃になれば大半がどこか別の場所へ売られていった。

 行き先は農家の労働力として、また紛争地帯の少年兵として、見目の良いものは愛玩用として。大人たちはそんな話をしていた。


 この山岳の要塞に、読み書きを教えに来る女性がいた。呂林杏といった。老婆というにはまだ若いが、日焼けに荒れた肌のせいで年齢よりも老け込んで見えた。山の麓の村から雇われて通っているという。口数の少ない女性だったが、子供たちは控えめに慕っていた。

「生き抜くためには知識をつけることよ」

 彼女の言葉が曹瑛の心に刺さった。曹瑛は必死で学んだ。他の子が居なくなった後も林杏に教えを請うた。そんな曹瑛に情が移ったのか、林杏は読み書きの他にこっそりと絵本をくれた。


 絵本の主人公は愛と勇気に溢れ、知恵を絞って悪者を倒し、大事な人間を守る。

「大切な人を守るために、力があるのよ」

 曹瑛にははじめその意味が分からなかった。ここで振るわれる理不尽な暴力は誰かを守るためとは思えなかったからだ。絵本には高い山や、長い河、広い砂漠が登場した。

「こんな風景が本当にあるの」

 曹瑛は林杏に訊ねた。

「そうよ、この山の向こうにはもっと高い山や、長い河、広い砂漠があるのよ。それに、海も。海は川よりも大きくて、果てしなく広いわ」

 生まれ育った寒村と、この山の要塞だけが曹瑛の世界だった。外の世界にはもっといろいろな景色が広がっている。それを見てみたい。曹瑛はいつしか憧れを抱くようになった。


 険しい山に赤い陽が沈んで行く。曹瑛は山の麓へ帰る林杏を見送りに来ていた。林杏が振り返り、曹瑛を見つめる。

「私にも子供がいたの。阿瑛のような可愛い子よ。でも、私の夫はとても駄目な人で、たくさんのお金を借りてそれを返せなくなった。そして、子供は連れて行かれてしまった」

 林杏は涙を流し、膝をついた。曹瑛は彼女がとても悲しんでいることに気がついた。彼女は涙を拭い、坂道を降りていった。


 次の日、農園に向かうと男の太い腕に見慣れたスカーフが巻かれているのに気が付いた。曹瑛は目を見開く。呂林杏が首に巻いていたスカーフだ。

「なに見てやがる」

 男は曹瑛を睨み付ける。曹瑛は男を見上げたまま体中が震えているのが分かった。恐れでは無い、体の底から噴き上がる怒りだった。

「これか、よく分かったな。あの女のものだ。どうだ、似合うだろう。余計なことをガキどもに教えてやがったから・・・」

 

 曹瑛は反射的に地面に突き立っていた棒きれを引き抜き、男の大腿を渾身の力で突いた。棒きれは大腿に突き刺さり、血が噴き出す。男は悲鳴を上げる。

「このガキ、何しやがる」

 怒りに任せて曹瑛の横っ面を豪腕で殴りつけた。曹瑛は地面に転がったが、すぐに飛び起きて、男に殴りかかる。その目は殺気が漲り、激しい怒りに燃えていた。男は思わず息を呑む。大腿に刺さった棒を抜き、曹瑛の首を掴んで締め上げる。


「殺してやる」

 曹瑛の足は地面から離れた。太い指が細い首に食い込み、呼吸を奪われる。

「お前を・・・絶対に・・・許さない」

 男は苦しみもがく曹瑛を面白そうに眺めている。ここで子供を殺したとしても、誰にも文句を言われないのだ。


 曹瑛は白目を剥いた。男は油断して首を絞める手の力を緩める。その瞬間、曹瑛が男の鼻っ面に頭突きを食らわせた。男の鼻がへしゃげて血が噴き出す。曹瑛は男にしがみつき、耳にかじりついた。

「ぎゃあっ」

 男は曹瑛を振り落とす。地面に叩きつけられた曹瑛はよろめきながら立ち上がり、男から囓り取った耳の肉を吐き捨てた。男は痛みに泣きわめきながら地面を転がり回る。曹瑛は転がった棒きれを再び拾い上げた。


 怒り狂った男が立ち上がり、腰の銃を抜き曹瑛を狙う。曹瑛はそれを恐れることなく、棒きれを持って男に突進した。

 パンと乾いた銃声が響いた。続いて2発。撃たれた、と思い曹瑛は自分の体を確認する。しかし、痛みは感じず、血は流れ出していない。


 目の前の男が白目を剥いて顔面から地面に倒れた。背中には3発の銃弾が撃ち込まれている。死体となった男の向こうに、黒いスーツの男が立っていた。曹瑛は鋭い眼差しでスーツの男を見上げる。

「お前はなかなか見どころがある」

 そう言って、スーツの男は口角を上げて笑う。

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