第6話

 この日のあとも、アルベールとは何度か関わりがあった。


「人間の本質は精神と身体、どっちだと思う?」


 お忍びで入ったカフェで、コーヒーを傾けながらアルベールはそんなことを訊いた。


「本質? 確実に存在してるのは身体だけど、身体を動かしてるのは精神だからな、なんとも……」


 アゼルは甘いカフェラテの水面を眺めた。水面を見つめる自分自身の目が映っている。その内側にある精神。

 言い淀むアゼルを見て続ける。


「本質は精神だろうね。精神があるから、僕たちは存在できているんだ」


 精神があるから、存在できている。その考えに疑問が湧いた。


「身体の方が本質的なんじゃないか? 例えば、」


 手近なものが無いか少しテーブルの上に目線を彷徨わせてみる。


「このカフェラテだって、カップが無けりゃ存在できない。カフェラテの方が本質として存在してたら、机にこぼれた状態になってて飲めなくなる」


「なるほどね。でも、」


 アルベールは一度ブラックコーヒーを飲む。カップを手に持ったまま、その水面をじっと見つめる。


「君の目的は、このカップじゃなくて、中に入ったカフェラテだ。カップは目的じゃない。カフェラテのために、後からカップが付随しているんだ。確かにカフェラテを存在させているのはカップだ。でもカップは本質ではない。成り立たせるための器でしかないんだよ。つまり、僕たちの目的、本質は精神であって、その精神を成立させるために身体が存在しているんだ。それで、ああ、なんでこんな話をしているかというと、魔術の根本的な仕組みについて話しておきたくてね。アゼルは魔術の扱い方については教えてもらったんだろうけれど、その仕組みについては教わってないだろう?」


 ああ、と頷いた。


「仕組みを知れば、より直感的に魔術を扱うことができるようになる。知っておいて損はないよ。人間は、精神と身体がカップと飲み物のように分かれて存在しているんだ。それで、身体は物理的な存在、精神は、何かしらの目的のための概念的な存在だ。それ単体で自律することはできなくて、身体の物理的な変化に付随している。身体に依存した状態だ。カップを揺らすと、コーヒーも揺れるだろう?」


 そう言ってカップを軽く揺らしてみせた。


「精神と身体とには境界がある。でも、こうやってカップを揺らしたときみたいに、物理的な身体側の——まあつまり予定世界の現象は、その境界面を超えて、精神——思惟世界側に影響を及ぼすことができるんだ。予定世界と思惟世界は人間の輪郭を境界面として、身体の外側と内側にある世界のことさ。現実世界と精神世界のことだね。そして、その境界面としての輪郭っていうのは、具体的にはガイストの扉っていう名前が与えられている。現実が精神に影響を及ぼすことができるとは言ったけれど、過剰に自分自身に干渉してしまっては困る。それを防ぐための、一種のバリアのようなものだね。ほら、こうやってコーヒーの香りを嗅いでみると、心が落ち着くだろう? 現実は精神に、一定の程度を保ちながら干渉してくる」


 そう言いながら、アルベールはカップを鼻に近づけた。アゼルもそれを真似て、彼のよりは甘いカフェラテの香りを確かめてみる。コーヒーの苦い香りがわずかにした。アゼルはブラックで飲むことはできないが、コーヒーの香りは落ち着くから好きだった。コーヒーの苦みの他に、ミルクと砂糖の甘さがアゼルの心を優しく包み込むような気がした。心地がいい、その香りを意識すればするほど飲み込まれていく。今背負っている苦痛も和らげてくれるような、心を包み込んでくれて、奥底まで、入り込んでくるような、そして、きっと、——


「待て、アゼル。大丈夫かい?」


 アルベールがこちらの調子を窺うように覗き込んできていたことに気が付いた。何か液体が自身の頬を伝っていた。泣いている? なぜ。


「もしかして君には、ガイストの扉が存在しないのかい? どうも、現実が精神に過干渉し始めたように見えてね」


 そう言いながら、手を伸ばしてアゼルの背を優しく撫でた。少しずつ落ち着きを取り戻していく。今更になって、心臓が大きな音を立てて脈打っていたことに気が付いた。


「ガイストの扉が無いから、全てを受け入れてしまう。君は何も拒もうとしないのか……」


 数分間深呼吸していると、少しずつ安定してきた。特別問題があるわけではない、一時的なものだったから大丈夫だ、続きを教えてくれ、とアルベールに伝えると、


「そうか……あまり無理をしないようにね。もう特に問題なさそうに見えるけれど、続きは、まあ、気になると言うのなら話すよ。——それで、ええと、予定世界側の出来事は、ある程度はガイストの扉を通過して思惟世界に干渉できる。でも、逆はできないんだ。精神が現実に影響を及ぼすだなんてことは不可能だ。もしそんなことができたら、その人はきっと超能力者なんだろうね。思ったことが現実になってしまう、ということなんだから。しかし、それは何の力にも頼らなかった場合の話だ。とある条件下では、思惟世界内の出来事が予定世界に影響を与えることもできるんだよ」

「それが、魔術なのか?」

「ああ、そうだ。魔術は、魔力を用いることで、思惟世界内の出来事を予定世界に、実現可能な形に翻訳して体現する技術なのさ。だから、魔術を扱う上では、頭の中にどれだけ具体的に魔術を行使した結果を思い浮かべることができるかということが重要になる」

「仕組みを知れば魔術がもっと扱いやすくなるってのはそういうことか」

「ああ、そうさ。しっかりと頭の中に思い浮かべる。これが魔術に於いて重要なんだ。意識するだけでだいぶ変わるよ」

「ありがとう、参考になった。先生みたいだな」


 そう言うと、アルベールはおかしそうに少し笑った。


「そうかい? それはよかったよ」

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