その4 「癌」VS「がん」VS「ガン」
私は今この原稿を書いている2025年11月時点で病理診断科の専攻医です。病理診断科を一言で解説すると「主として顕微鏡観察による疾患の診断を専門とする診療科」であり、病理診断科の医師のことを病理診断医もしくは病理医と呼びます。そして専攻医は「専門医資格を取得するために専門研修を受けている医師」を指します。病理専攻医は専門医資格を取得するために通常の組織診断はもちろん細胞診、病理解剖、症例報告を含めた病理学研究といった様々な業務に取り組む必要がありますが、その業務の一つに「術中迅速診断」というものがあります。
術中迅速診断はその名の通り、手「術中」に採取された検体を(臨床検査技師が)「迅速」に顕微鏡で観察するための標本とし、(病理診断医が)「迅速」に顕微鏡でそれを観察して疾患の「診断」を行うことを指します。例えば患者さんの肺にできた腫瘤を切除するための呼吸器外科の手術で術前検査によりその腫瘤が悪性のものか良性のものか分からない場合、手術中に(呼吸器外科医が)その一部を採取して(病理診断医が)術中迅速診断を行い、良性であればそのまま手術終了とし悪性であった場合には肺切除を行うといった方針が取られる場合があります。
その術中迅速診断で、患者さんの身に被害は及ばなかったもののその可能性が生じうる事例(いわゆる「ヒヤリ・ハット」事例)を私自身が経験したことがありました。その事例を個人が特定されないよう匿名化した上で説明すると以下のようになります。
①手術はとある臓器の切除術。術前検査で転移性の腫瘍が疑われていたが、執刀医(その手術を担当する外科医)が作成した術中迅速診断の依頼書には「転移性腫瘍疑い」としか書かれていなかった(これ自体はよくあることで、やや不親切ですが問題行為とは言えません)
②転移性腫瘍疑いの場合は原発巣となり得る腫瘍(既往にある腫瘍=患者さんが過去に持っていたもしくは今も持っている腫瘍)が何なのかを必ず確認する必要があるため、私と術中迅速診断の指導医(もちろん病理診断医)の2人でその患者さんのカルテを確認した
③カルテを見たところ「既往:○○(臓器名)癌」との記載があり、術中迅速診断の標本(上記の転移性腫瘍の生検検体)の組織所見は○○癌の転移として矛盾しなかった
④指導医と相談した結果、手術室に「○○癌の転移として矛盾しません」と連絡する方針になった。その前に念のためもう一度カルテを確認した
⑤するとカルテの別の箇所には「既往:○○悪性リンパ腫」との記載があり、事実関係を確認するためカルテを精読したところ実際には「既往:○○悪性リンパ腫」という記載の方が正しかった
⑥術中迅速診断の標本(上記の転移性腫瘍の生検検体)の組織所見は明らかに悪性リンパ腫ではなく(=○○悪性リンパ腫の転移とは考えられず)、既往に○○癌がないことから転移性腫瘍ではなく原発性腫瘍の可能性が高いと考えられた
上記を一言で要約すると「原発性腫瘍を危うく転移性腫瘍と報告する所だった」という事例になります。この世の中に人生で全くミスをしない人間はおらず、カルテには様々な医師が記載を行うためカルテの記載内容に時折誤りがあるのはやむを得ない面もあり、上記のヒヤリ・ハット事例は「○○悪性リンパ腫の既往を○○癌と誤記載していた医師」と「カルテを十分に確認しなかった私(および監督者である指導医)」の両者に責任があるものです。私自身もこの事例で深く反省し、その後は診断業務、特に術中迅速診断の際はカルテを精読した上で既往を正確に確認する習慣を心がけるようにしました。
ここで医学に詳しい読者の方ならば違和感を覚えるかも知れません。というのは、悪性リンパ腫はいわゆる「がん」の一種であり、「既往:○○悪性リンパ腫」と書くべき所を「既往:○○癌」と書くのは正確ではないにしても誤ってはいないのではないか(小分類で書くべき所を大分類で書いただけではないか)ということです。その疑問はごもっともで、悪性リンパ腫は確かにいわゆる「がん」の一種です。しかし、悪性リンパ腫を「癌」の一種と言うことは正確ではありません。
この病理医は果たして何を言っているのか、「がん」の一種であるのに「癌」の一種ではないというのは謎掛けか何かではないのか。この疑問にお答えするために、まずはいわゆる「腫瘍」や「がん」の定義について大分類から説明していきます。
<1>「
まず、「腫瘍」の定義はデジタル大辞泉によると「身体の一部の組織や細胞が、病的に増殖したもの。」です。ヒトの身体の組織や細胞はそのヒトが生存している限り正常な状態でも増殖を繰り返しており、特に小児では一般に高齢者と比べて増殖(細胞分裂など)が盛んですが、その増殖が過剰になったものを「腫瘍」と呼びます。「
「腫瘍」には良性のもの(良性腫瘍)と悪性のもの(悪性腫瘍)があります。良性腫瘍は放置していてもそれ単独ではヒトが死に至らないもの(ただし良性腫瘍の巨大化による物理的圧迫等により死に至る場合はある)で、具体例には筋腫や脂肪腫があります。悪性腫瘍は放置しているとヒトを死に至らしめるものであり、いわゆる「がん」と同義です。すなわち、腫瘍は大きく分けて「良性腫瘍」と「悪性腫瘍=がん」の2通りに分類されることになります(厳密には良性腫瘍と悪性腫瘍の中間である「境界悪性腫瘍」といったものも存在します)。
<2>「がん」と「癌」とはどう違うのか?
これが本稿において最も重要なポイントです。先ほども述べた通り「がん」は「悪性腫瘍」と同義ですが、悪性腫瘍は大きく分けて「上皮性悪性腫瘍」と「非上皮性悪性腫瘍」の2通りに分類されます。ヒトの臓器を構成する細胞の集まり(これを「組織」と呼びます)は大まかに分けて「上皮組織」「結合組織」「筋組織」「神経組織」の4通りに分類されますが、ここにおける上皮組織から発生した(上皮組織が病的に増殖することで生じた)悪性腫瘍のことを「上皮性悪性腫瘍」と呼びます。
そして、漢字で書かれた「癌」は医学的には「上皮性悪性腫瘍」とイコールであり、ひらがなで書かれた「がん」は「上皮性悪性腫瘍」と「非上皮性悪性腫瘍」の両者を含めた悪性腫瘍の全体とイコールです。集合論的には「癌である → がんである」は成り立ちますが、「がんである → 癌である」は成り立たないことになります。
具体例としてはヒトの皮膚の表皮や消化管の粘膜、腎臓の尿細管といった組織は上皮組織であり、これらから発生した悪性腫瘍は表皮組織では「基底細胞癌」や「有棘細胞癌」、消化管では「胃の高分化腺癌」や「大腸の低分化腺癌」、腎臓の尿細管では「淡明細胞型腎細胞癌」や「乳頭状腎細胞癌」というようにいずれも「癌」と表現されます。一方でヒトの子宮の筋肉(筋組織の一種)や血液(結合組織の一種)は上皮組織ではないため、子宮の筋肉にできた悪性腫瘍は「子宮肉腫」(良性腫瘍の場合は「子宮筋腫」)、血液の悪性腫瘍は「白血病」「悪性リンパ腫」というようにいずれも「癌」とは表現されません。
つまるところ悪性リンパ腫は上皮性の悪性腫瘍ではないため「がん」ではあっても「癌」ではなく、冒頭のヒヤリ・ハット事例で私が「○○癌」と書かれていたことで悪性リンパ腫の可能性を考えなかったのはこの理由によります。もしカルテの記載が「○○がん」であれば私も悪性リンパ腫の可能性を念頭に置きましたが、この時は「○○癌」とカルテに書かれていたことがヒヤリ・ハット事例の発生につながりました。
ここまでの<1><2>の内容をまとめると以下のようになります。
①腫瘍は大きく分けて「良性腫瘍」と「悪性腫瘍」の2通りに分類される
②「がん」と「悪性腫瘍」はイコールである
③悪性腫瘍は「上皮性悪性腫瘍」と「非上皮性悪性腫瘍」の2通りに分類される
④「癌」は「上皮性悪性腫瘍」とイコールである
<3>この用法に問題はないのか?
上記で示した「がん」と「癌」の使い分けは日本の医学の長い歴史の中で確立してきたものですが医療職でない市民の皆様にはほとんど知られておらず、医師であっても100%この用法を理解しているとは言えないのが現状です。冒頭のヒヤリ・ハット事例で他科の医師が「○○悪性リンパ腫」を「○○癌」と記載していたのも記載ミスではなくこの使い分けを知らなかっただけの可能性があり、そうであれば現状の「ひらがなと漢字で意味が異なる」状態は明らかに問題でしょう。
さらなる問題点としては「がん=上皮性悪性腫瘍+非上皮性悪性腫瘍」かつ「癌=上皮性悪性腫瘍」であるにも関わらず「非上皮性悪性腫瘍」を一言で表現する用語がないことで、実際に非上皮性悪性腫瘍の病名は「○○腫」「○○病」など様々で統一されていません。しかし2025年の今から「非上皮性悪性腫瘍」を一言で表す用語を新たに確立することは日本医師会などが働きかけても困難と思われ、現状では不便な用法を理解した上でその用法を知らない医療職や患者さんの存在を前提として対応するしかありません。冒頭のヒヤリ・ハット事例で言えば病理医である私が行うべきことは「他科の医師のカルテ記載に『○○癌』と書かれていたとしても、それが必ずしも上皮性悪性腫瘍を指しているとは限らないと考えて慎重に確認する」ことで、「他科の医師に『癌』と『がん』の使い分けについて啓発する」ことは重要ですがあくまで副次的なものに留まります。
ちなみに、ここまで出てきた「腫瘍」「がん」「癌」を英語で表現すると腫瘍はtumor、良性腫瘍はbenign tumor、がん=悪性腫瘍はcancerもしくはmalignant tumor、癌=上皮性悪性腫瘍はcarcinomaと表現されますが英語においても「非上皮性悪性腫瘍」を一言で表現する英単語は存在しません。私は学問としての英語には詳しくありませんが、日本において「がん」と「癌」の使い分けがややこしいのはこのような事情も関連しているのかも知れません。
ついでに言うと私自身も病理医として所属しているがん研究者により構成される学会「日本癌学会」は名称に「癌」と書かれていますが白血病や悪性リンパ腫といった「癌」ではない「がん」についても当たり前のように研究課題として扱っており、日本癌学会の学術大会である「日本癌学会学術総会」では講演のテーマが「大腸がん」「婦人科がん」など「がん」表記で統一されています。そうであれば本来的には「日本癌学会」は「日本がん学会」という名称に改名されるべきですが、学会名ですら「癌」と「がん」を正しく使い分けられていない現状で「癌」と「がん」の違いを全ての医療職に理解して貰うのは困難な試みと思われます。(さらにややこしいことを言うと日本癌学会の英語表記はThe Japanese Cancer Association、日本癌学会が出版している英文医学雑誌の名前は「Cancer Science」であり、ここにおいてはCancer=がん表記で統一されておりもはや摩訶不思議としか言いようがありません)
<4>おまけ:「ガン」とは何か?
「癌」「がん」をカタカナで書くと当然「ガン」になりますが、この「ガン」という表記は2025年現在医学的には定義されておらず、専門的な医学書で「ガン」という表記が用いられることはほとんど皆無です。実際的には専門書以外、特に週刊誌などで「ガンの名医」「ガンに強い病院」といった形で用いられる俗称であり、逆に言えばX(旧Twitter)などで「ガン」という表記を多用している医師のアカウントは偽医者の可能性があります。
これに関しても本来的には「癌」と書いても「がん」と書いても「ガン」と書いても同じ意味であるのが望ましいのですが、それが実現される日は永遠に来ないかも知れません。とにもかくにも「医のことば」には注意して病理医生活ひいては医師生活を送っていこうと思います。
医のことば ~医学生と医大生と医学部生と医療系学生~ 輪島ライ @Blacken
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