二章 天龍のこと

龍の男編

〈辰編〉天龍君



 中秋節が金曜日に始まって、まるまる三日が経った火曜日。


 尚薬局はこの中秋節に、宮中の皆の体調を管理するためにかんたんな薬湯や薬点心をつくることになる。普段の業務よりもはるかに楽なので、この期間、皆いちように肩の力を抜いて過ごしだす。


 冰遥は薬研を上下に転がして砕きながら、ぼんやりと手元を虚ろな目で眺めていた。その横にいた文琵も不思議そうな顔をして、同僚に目配せする。


 つねに活気にあふれている彼女がまるで魂でも抜かれたように過ごしているのを見て、彼女たちはあるひとつの結論に達してにやりと笑った。


 そうして、冰遥の後ろで気付かれないように賭けをして、負けた子涵ズーハンが事情聴取に駆り出されたのだった。

 ふう、と意を決してつかつかと歩いて行った子涵は、さきほどから薬研をぼんやりとひいているだけの冰遥の肩を叩いて、隣に座る。


「あ、子涵さん」

「それ、もう終わってるんじゃないの?」

「……あっ」


 もう液体に近くなっている薬草を見てあわてて器に移す。

 大丈夫さ、繊維を切れば切るほど抽出しやすいからね、と子涵に慰められて、耳の先がじんわりと可哀想なくらいに赤くなる。

 大丈夫だよと冰遥の肩を叩いて、さあ話を聞こうと意気込んで唇を開いた。


「数日前からぼんやりとしているわね」

「……そうですかね……」

「もしかして恋煩い?」

「えっ!?」


 肩を震わせて大げさに振り返る冰遥を見て、子涵が手を叩いて笑う。もしかして図星なのと笑う彼女に、冰遥は頬を膨らませて、ちがいます、と拗ねたような口調で言った。

 ケタケタと鈴が転がるように笑った子涵が肩を寄せる。


「話してごらんよ」

「……友人の、話ですけど」

「あはは、いいねぇ」


 冰遥は新しい薬草を薬研に入れてひきながら、ぽつぽつと話し出した。


 友人は異国出身で自分の国を滅ぼした仇がいて、その人に復讐をしようと名前まで変えて、ある国に潜入した。そしてその国で仲良くなった異性がいて、週に一度会っては仲良くご飯を食べたりしていたのだが、他の人から聞いた噂では彼がその仇の息子である、――と。


 子涵は、その隣で団扇で仰いで竈に空気を入れながら聞いていたが、話が終わると、そうか、と昏い声で言った。


「どうすればいいのか分からないと言っていて。わたしもなんて声をかければいいのか」

「……昔話をしてもいいかい?」


 冰遥が突然の申し出に驚きながらも頷くと、子涵はうつくしい面を歪めるように笑って、そして話し出した。ここに入る前の話なんだけど、と前置きをして。


「わたしにも想い人がいたんだ。二つ年上の美男で、ずっと一緒にいたんだ。お互いに大きくなったら婚姻をしようと言ってた、でも……」


 子涵は貴族のむすめだ。

 この国の宮中に高い位をもつ貴族は、自分が外戚あるいは有力な貴族となるために自分のむすめを後宮にいれることが多い。子涵も例外ではなかったのだろう。

 もっとも、彼女は文才に長けていて戦略家であったために皇帝から文官のように見られていたというのは有名な話だ。


 子涵にも想い人がいたのか、と少し面食らいながら話を聞いていると、子涵は急に悲痛な顔になって痛々しい笑みを冰遥に向けた。


「彼がほかの人と婚姻するという話を聞いてね」

「あぁ……」

「それはただの噂だったんだけど、それを真に受けたわたしは裏切られた気になって、自暴自棄になってここに入ったんだ」


 結局、彼はわたし以外のだれとも婚姻の約束をしていなかったのにも関わらずわたしが裏切ったと聞いてすぐに他の女人と結婚してしまったよ、と、子涵は続けた。

 ひとの色恋事情というのは難しいものだ。冰遥は思う。


「だからね、鈴の子」


 子涵はにこりと笑って、そのお友達に伝えてあげてほしい、と至極明るい声で続けた。


「噂は噂だ。この世の中、自分の心が動き、感じたことがすべてと思いなさい」


 はっと息を呑んだ。

 冰遥は猛烈に恥ずかしくなって、みっともない顔を隠すように肩を縮めて震えた。どうしてわたしは疑えたのだろう、と。


 それでも、彼女は自分が愚かだということを分かっていた。

 たとえ辰が天龍君であっても、自分の仇の息子であっても、――きっと、彼女は辰に心惹かれ恋をするのを止めることはできないのだろうと。


 水曜日になった。


 辰と会う日だった。この日のために、冰遥は一年でも数少ない休みを貰っていた。今日は辰とともに出かけて、そして、あの手紙が天龍君からのものだと皇太子が言っていたことを話すためにできるだけ努力しようと決めていた。

 話せるかは分からなかったが、善処しようと。


 襦は、珍しい紫がかった青色の青藍せいらん綸子りんずにしよう。その上から薄絹のひとえを羽織れば、ふわりとして美しいだろう。裙は、上から紗を三枚ほど重ねれば、彩合いも美しく着られる。


 髪に挿す簪も、良いものを何も持っていないから、庭に咲いた薔薇を挿していこう。あと、子涵に貸してもらった歩揺も。

 よく磨かれた綺麗な指甲套しこうとうももらったが、あまりにも気合が入りすぎている気がして丁寧に棚の奥にしまった。


 薬をつくる者は化粧などしてはいけないきまりがあるために、普段は紅を軽く引いただけだったが、今日の冰遥は化粧台の前に座っていた。


 絹の衣擦れがかすかに満ちる部屋で、冰遥はさきほど洗顔したばかりの素肌に香油を塗り込んでいた。そして油分をかるく麻の切れ端でおさえると、青磁の合子ごうしに入った米粉べいふん粉刷ふんさつで塗っていく。滑らせるように塗布し終わると、鏡でそっと光に透かして見た。


「わっ、綺麗……」


 准河は鉛粉は有害なものが入っているから駄目だと、米粉を使うように勧めていた。その通りにして正解だった、と冰遥は思った。

 冰遥はもともと色白だ。顔の色のむらを隠すために薄く色を均一にできれば十分だったからだ。そのあと紅で額に美しいはすの花鈿を描く。たいで眉に色を足し、唇に紅を引いた。


 そうして、身支度が終わると、扇子や香袋を懐にいれてから部屋を出た。颯爽と後宮を後にして、門をくぐり普段乗っている馬を手配していた馬房へと行く。


 馬番に声をかけて馬を出してもらい、革の鞍が乗せられた背中に手をかけると、鐙に左足をかけて飛び乗って跨った。

 呆気にとられる馬番に内緒にしてくれと金を投げてから、開かれた門から宮中の外へと出た。


 手綱を引いて調節しながら、普段辰がいる猫の神社へと向かう。

 十分ほどで到着し、軽々と降りてからありがとうの意味を込めて馬の頭を撫でた。


「えっ、うそ」


 あわてて馬に駆け寄る。

 手綱と頭絡をつないで木にくくろうとしたときに、馬の腹の部分から血が出ている事に気がついた。そこまで深い傷ではなさそうで、馬自身も気がついてい無さそうだったが、ここから細菌が入って動けなくなる、などということが起きたらたまらない。

 一旦待っててね、と馬に話しかけて、大木に括り付けた。


 歩き出した冰遥の鈴の音に反応したのか、木漏れ日の隙間から猫がわらわらと集まってくる。なーん、と鳴く子猫の背中を撫でて、ゆっくりと奥へと進んでいく。

 変わらず、あの朽ち果てた鳥居の下で黒い猫を撫でながら辰が座っていた。


 額に垂れた髪の束が風になびく。

 やわらかそうな頬がにっこりと笑みを浮かべ、穏やかな顔でにゃーんと鳴く猫を愛しげな目で見つめている。



 冰遥は睫毛が、人知れず溢れた涙で濡れているのを感じた。

 ずっと彼女は一人だった。邪術を宿した彼女は悪魔であった。生きるためにとどんな醜いことでもやってのけた。戦わなくては生きていけなかった。


 すべてを失ったあの日から、ずっと。


 そうして、落涙に耐えるために目を閉じてゆっくり息を吸うと、目の前にいるはずの辰の顔が思い浮かんだ。


 どこを好きになったのか、分からない。

 どうして好きになってしまったのかも、分からない。

 たとえ彼が仇の息子だったとして、それを責めることは決してできなかった。


 彼女の仇は戦争を起こした皇帝だけだ。


 初恋だ。どうやっても、忘れられない初恋だ。

 すべてを一人で乗り越えてきた孤独な冰遥に、――否、沙華に手を差し伸べてくれた孤高の人だ。胸中に深い傷と後悔を宿した二人が出会ってしまった。運命のように、偶然に。


 敵同士であった国の民が、こうして出会って、恋に落ちてしまった。


 どれほど愚かと笑われるだろうかと冰遥は思った。

 空から舞い降り、寒い場所でたくさんの足に踏まれ硬くなった雪が、春になって融けるとしたら今なのだろう、とも思った。


 雪融け。

 姉はそれを奇跡と呼んだ。



チェン



 まろい瞼から覗く平坦な黒目が冰遥に向く。

 彼の口から聞くまではどれほど興味を引かれる推測でも聞かないでおこうと思った。

 手を振り、なんなん甘えるように鳴く猫たちを踏まないように小走りで鳥居のもとへと向かう。辰の白い耳の先が赤くなっていて、どうしたの、と聞くと、彼らしくないもごもごとした声でなにか言われたが聞きとれなかった。


「……辰、ちょっと、あのね」

「なに?」

「実は今乗ってきた馬が怪我をしてて」

「それは大変だ」


 すぐに行こうと言って猫を置いて立ち上がる辰の横につくように歩き出す。ちらりと盗み見た彼の横顔はやはり西洋の天才が彫ったように美しかった。

 馬のところまで来て、ほら、ここ、と血が出ているところを指す。


「これは、今日は乗ることは出来なそうだね。近くにある馬房に僕の馬を止めてあるんだけど、そこに一度頼もう」

「そうね、ありがとう……」

「いえいえ」


 じゃあ、行こうか、と片眉を上げて笑う辰に笑いかけて、馬の手綱を引いてくれる彼の隣に並ぶ。彼はいつも冰遥と並んで歩くときに歩幅を合わせてくれる。

 そういえばさ、と柔らかい声が言った。

 女の人に向かって言うとあれなんだけど、と照れたようにこめかみをかきながら続けて。


「今日の冰遥は特段綺麗だね」

「……ありがとう」

「その薔薇も、似合ってる」


 あなたのためにお洒落したんだから、と思ったが、言わなかった。

 口角がわずかに上がった丹唇はご機嫌そうにきゅっと微笑みを浮かべている。全身黒地に金糸の刺繍で虎が描かれた漢服をまとった彼のほうが綺麗だと冰遥は思った。


 そうして歩くと、すぐに馬房が見えてきた。

「そこで待ってて」と入り口を指さされ、勝手知ったる様子で辰が中に入っていくのを横目にそこに立つ。


 しばらく待っていると、手綱を引いた辰が中から出てきた。その馬は冰遥が見てきたなかでも一番といっていいほど背が高く、美しく黒々としていた。千里馬という言葉が似合う風貌だ。


 艶めく深い墨色の毛並みと、筋骨隆々、鍛え抜かれた四肢。風になびく美しいたてがみと、真っ黒に光る丸い目はまるで人間を見ているように表情豊かに冰遥を見て笑う。


「立派な馬ね」

「去年の誕生日に父から送られたんだ」

「素敵だわ」

「さ、じゃあ、この子に乗って行こうか」


 辰の言葉に、冰遥はごくりと唾を飲んだ。


 その馬は彼女が普段乗っている馬よりも、はるかに背が高い。こんなに大きな馬に乗った経験などない。足元から見上げれば、まるで怪物を見上げているような心地になった。


 あの背中に乗るなど想像もつかず、高所から落とされるような恐怖感が全身を駆け巡った。このままでは目的地に着く前に、心臓が口から飛び出してしまいそうだ。震える指先をぎゅっと握りしめ、顔面蒼白で辰を見上げると、か細い声が漏れた。


「辰、わたし、むりかもしれない……」

「わ、なぁに、怖いの?」


 優しく笑っている辰がするりと蛇が降りるように滑らかに馬の背中から降りてくる。少し触れるよ、と言葉が耳に届くと同時に、甘い香りのする体温が冰遥の右肩に触れた。

 すぐに腰のあたりの服をつかまれて、ぎゅう、と抱き寄せられる。


「僕の肩に手を回して」

「ん……」


 雷に打たれたようにばったんばったんと暴れだす心臓を片手でおさえて、もう片方の腕を辰の広い肩に回す。


「せーので持ち上げるからね」


 いい、と尋ねられて、もういっぱいいっぱいで声が出なくなった冰遥は必死に頷く。ふふ、と愛し子を見たような鼻にかかった微笑みのあと、「せーのっ」と力強い筋肉質な腕に抱えられて、そのまますっぽりと馬の背中に乗せられた。


「よし、いけたじゃん!」


 じゃあ僕後ろに人がいられると恐いから、とへらへら揶揄うように笑いながら辰の腕が冰遥を包むように手綱を引き寄せる。後ろから大きな体にすっぽり包み込まれて、冰遥はもうすでに爆発して消えてしまいそうになった。


「じゃあちょっと走るからね」

「うん」


 そう言って手綱を引き寄せ、馬がゆっくりと走りだす。大丈夫? と耳元で聞かれて、うん、とか細い声で答えた。

 じゃあそのまま走るね、という言葉に返事したのを最後に、だんだんと移り変わる美しい景色を眺めながら旅路を楽しんだ。



 馬が走るのをやめ、辰が低い声で着いたよ、と言ったとき、冰遥たちは綺麗な渓流の入り口にいた。

 岩の間を通って透き通る青色の水が流れ、波に揺れる水面に色づいた紅葉が写る。少し奥には小さな滝もあった。ざあざあと流れる水の音。吹き付ける水を含んだ冷たい風。


 ゆっくりと水辺まで行き、するりと辰が馬から降りる。ほら、おいで、と両手を広げる彼に向かって手を伸ばし、前のめりになって体重を預ける。

 すぐに筋肉質な腕につかまれて、軽々と降ろされた。彼が鍛錬をしているというのは決して嘘ではないんだな、と冰遥は思った。


「いいところだね」

「ふふ、でしょ」


 彼自身が褒められたわけではないのに、どうして冰遥がほかのものを褒める度に辰が嬉しそうにするのか分からない。

 不思議な人だ、と思いながらぼんやりと水に引き寄せられるように歩いていく。


「滑らないようにね」

「わかってるわ」

「沙華は危ないから」

「なんだと」


 二人で笑いあう。

 どうしてわたしはこうして生きられないのだろう、と、揺れる水をみながら冰遥は思った。


 壮大な自然の中にいると、自分がいかにちっぽけな人間なのかを実感するようだった。息を吸う。吐く。生きている。

 それだけなのに、どうしてそれ以上を望むのだろう。それはわたしが強欲だからだ、と冰遥は胸の内で呟いた。辰のほうを見ないようにして、呟いた。


「辰」


 その声に反応して、数瞬遅れて、辰の返事が聞こえてきた。

 今しかないと思った。胸が震え、畏れに身体がわなないても、今しかないのだと。


「正直に答えてほしいの」


 ぱしゃり。なかにいた魚が跳ねる。

 その水滴を見ながら、興奮したようにばくばくと早鐘を打つ胸を押えて、ゆっくりと辰に振り向いた。彼はいたって穏やかな表情で冰遥を見つめていた。


「……うん、なに?」


 冰遥はゆっくりと震える睫毛を閉じて、そうして、意を決したようにゆっくりと目を開いた。


「――あなたは皇族なの?」



 辰は驚きもせず、冰遥に合わせるようにゆっくりと鼻から息を吐いて、引き結んでいた柔らかそうな唇を開いた。




「……うん、そうだよ」






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