〈辰編〉確信



 中秋節の最終日には、王都、宮殿で盛大な宴が催される。

 冰遥は浅葱色の制服を身に纏い、今日、中秋節の祭りが開かれる王宮の大広間に頭を下げて立っていた。


 国内でも指折りの芸者が舞い、鼓を叩いている。

 王宮前の大広間。長い階段の頂点に、皇室の者たちが並んで座る席が用意されている。

 中央の玉座に座るのが皇帝。その左隣が皇后。まだ玉座は空いており、その横にある皇太子などの席も空いていた。


 その隣には皇太后も控えている。それから少し離れた場所に設置された椅子は、位の高い側室が並んでいる。先頭は辰によく似た白い肌の美女、花貴妃が座っている。その三つ横には梅昭儀も控えていた。

 彼女は遠くから見ても美しい面をしていたが、その目が変に凪いでいることに冰遥は気がついていた。彼女がふたたび後宮の巫覡を訪れるのも時間の問題であろう。


 そして、反対側、側室らと対になるように陳列した椅子は、この国の政治を担う大臣たちが座るためのものだ。

 彼らは冰遥たちの前の前のほう、天子のためにつくられた道の外側に立っている。彼らの身体に纏わりつく邪念と因縁が見えて、冰遥はぎゅっと目をつぶった。具合が悪くなるような気さえした。


 空が青い。

 日が高い。秋にも関わらずあたたかい快晴だ。


 すう、と深く息を吸いこんだところに、儀の始まりを知らせる銅鑼の音が、天空に大きく鳴り響いた。


 合図で頭を下げる。大広間の下、立派な赤い門が開き大きな冕冠べんかんを被った皇帝陛下が姿を現した。

 地を練り歩く鹵簿ろぼのように、その後ろに皇室の者、女官や官僚が連なり、行列を作っている。

 その姿は大地を這う神聖なる大蛇だいじゃのようだ、と思った。


 うつむき皇帝の顔を見ないようにするのが礼儀であるため、冰遥もそれに倣った。ちらりと盗み見ると、皇帝の後ろに皇太子、そして天龍君である辰が並んで歩いていた。


 ああ、いやに美しい男だと他人事のように思った。


 長い行列がゆっくりと歩き出す。天を支配する者の後ろに、老いぼれの皇太后もにやりと笑っていた。ぶちりと首の血管がどうにかなる音がした。


 長い長い行列が進む。ゆっくりと、冰遥がいるところの前の方を皇帝陛下が進んでいく。

 ちらりと少しだけ頭を上げると、辰が通るところだった。


 日差しに透かれうすら輝く美しく、滑らかな生地にあしらわれた龍。雲井くもいに住まう、この世を統べる神の眷属けんぞく――龍の上る豪壮な姿。

 年中雲に同化し、人の目からは見られない聖なる生物。


 常に落ち着いた黒や白の色彩の衣をまとう辰にしては珍しい、深い青と紺の綸子りんず

 頭上で高く結い上げられた髪には小さな金の簪が挿してある。耳に真珠の飾りが揺れる。


 辰はまさに色男であり、恍惚こうこつとするほど美しい。隣の女官からかすかに感嘆の吐息が聞こえてくる。


 辰はずっと誰かを探しているようにかすかに瞳を左右に揺らしながら歩いていた。冰遥がそっと、少しだけ顔をあげて彼を見ると、それに気がついた辰ににこりと微笑まれた。


 美しい衣を纏って、豪華な飾りとともに歩く彼はまさしく殿上人という感じがした。


 それに見惚れていると隣の女官から頭を下げるように小声で注意された。行列も終わり、皇帝が玉座の前に立つ。大臣や側室も席の前に立ち、皆が決められた席の前に佇む。

 そうして、あたりを見わたした皇帝は轟くような凛とした声で宣言した。


「これより、中秋節の祭りをはじめる」


 再び地を鳴らすような銅鑼の音が響き渡った。

 中秋節とは、月を祀り幸福を祈る祭りだ。——平民の間では月餅げっぺいを楽しむ祭りなのだが、皇室は少しばかり異なる。


 この頃、秋にはやまひが流行る。

 炎節を乗りこえようやく作物が収穫できたというのに暗い知らせばかりでは気がめいってしまう。


 そのために、皇室では毎年、その㽲のはやい収束を天に祈る儀が行われる。

 今の皇室では、月をただ楽しむだけではなく、㽲がはやく収束するよう、天子である皇帝が天空に住まう神を招致しょうちし、祈る儀なのだ。


 だから天龍君が呼ばれたのだろう、と冰遥は思った。彼はもっとも天に愛された男であるから。


 どおん、銅鑼の音がした。

 戦いのために用いられることの多いその音色を聞いて、全身が興奮で震えた。皇帝の隣、皇后とは反対側に座る老婆。皇太后。

 破滅の色である黒色のオーラが身体に染みついているような、異様に人相の悪い女だ。


 冰遥はじろりと大きな目を回して、その女の様相を目に焼きつけた。


 祖国の戦争を指揮し、愛しい辰を陥れ、自らの利益のためだけにしか動かない沼底のへどろのような人間を覚えておこうと彼女は思った。


 さあ、始まりの銅鑼を叩こう。

 これからはわたしたちの戦いである。


 この国の因縁と腐り切った縁を正し、よりよい未来へとつなげよう。


 皇太子と、その隣に座る辰をじっと見つめた。視線に気がついた二人は了承したようにかすかに顎を引いて頷いた。



◇◇◇◇◇



 しゃらん。鈴が鳴る。

 後宮の中庭、宦官でさえ管理を忘れている小さな古びた東屋に、緑色の蠟燭が灯る。中秋節が終わり、平穏な日々に戻ったある夜のことだった。


 後宮の巫覡は、今夜も、白い面をして美しい少女であった。

 カァ、と大きな黒い鳥が鳴く。つばさの付け根にある赤い羽。夜にまぎれた邪術の使い手。炎尾国にしか住めないはずの黒鳳雀クロホウジャク


「いらしたのですね」


 鈴を転がすような清廉とした声だ。

 彼女の肩にとまっていた黑々はバサリと翼を広げ、客を招くように頭を低く垂れる。しゃらん。鈴が鳴る。


「梅昭儀さま」


 高位の女人がたった一人でここまで来るとは思えにくいが、実際そうなのだろうと冰遥は微笑みながら考えた。彼女が店を構える荒れた中庭へ、たった一人できたのだ。

 ちりん、ちりん。東屋の入り口にかけられた鈴が鳴る。


 二度目の来訪となると、驚くことも少ないようで、梅の女は弱々しい吐息を吐くと冰遥の前の席へとゆったりと腰を下ろした。

 冰遥は彼女の胸の奥が凪いでいることに気付き、にこりと笑みを浮かべた。もうこちらのものだ。


「声を取り戻しにきたわけではなさそうですね」


 いずれはそうするつもりです、と美しい女は心の内で答えた。冰遥がそれを聞きとれることを知っているかのような強かな目で見つめながら。


「あたりです。わたしはあなたが胸の内で呟いたことも聞きとることができる。ですからしばらくはそのままでも大丈夫そうですね。声を失って困ることはございませんか?」


 ない、と短い返答。

 それでは、と冰遥は小さく呟いて、にこりとまなじりを緩めて口角を引き上げた。


「今夜いらした理由は、わたしが思っているようなもので、間違いないですね?」


 梅昭儀の細い首に巻きつく黒い煙が薄れているのを見て、冰遥は満足げにすぅ、と目を細めた。実は、彼女に渡した声を失う薬は、呪詛調伏も薄める効能を持っている。決してそれを教えたりはしないけれど、と、心中で笑う。


 予想通り、冰遥が解術したあとまた新しく呪詛調伏をされていた。もちろん、巫覡が解けなかったからとすぐに安心して野放しにするはずなどないだろう。

 ――たとえば、それを指示したのが皇后ではないとしても。


 木となり黄に紅藍べにばなほむらとなり赤に芍薬、水となり青に牽牛花あさがお、土となり緑に欝金香チューリップ、毒となり紫にトリカブト。熱情となり金に金蓮花きんれんか、知性となり銀に木白香もくびゃっこう、力となり銅に白薇ふなばらそう。生となり白に白百合。死となり黒に黒百合。


 冰遥の目にもきっと金が灯っていることだろう。


「では、再度ご提案します」


 冰遥はにこりと笑う。美しい笑み。


「あなたは今夜からわたしと協力することになります。情報を得て、わたしはわたしの復讐相手に復讐する。その代わり、あなたの呪詛調伏は解かれ、あなたが恨んでいる皇后陛下への復讐も果たされる。いいですね?」


 はい、と梅の女が答える。


 冰遥はふたたびにこりと笑って、では、と言いながらくるりと振り返り、棚からある合子を出してきて、梅の女の前に座る。そして、自分の首の後ろへと手を伸ばした。


 その美しい黒髪を留めていた簪をぬく。

 長く絹のように美しい髪が留め具をうしない、ふわりとおろされ、彼女の背に放射状を描いて舞う。


 冰遥は指先でくちびるをなぞると、指先にふぅっと息を吹きかけた。


 転瞬てんしゅん、彼女の耳に揺れる鈴が発光し、彼女の黒に近い紫色の瞳が、鮮やかな赤紫あかむらさきへとぐゆりと色が変わる。


 死骸が息を吹きかえすように、鈴と指先に薄青紫――楝色おうちいろをたたえた炎がぶわっと立った。瞬間、どこからか分からない風が吹きつけはじめ、冰遥の髪が炎をかこむようにさらさらと散りはじめる。


 不思議な色をした奇麗な炎から光をうけ、月光の余韻を残した夜のなかに、その異質な彩は浮かびあがり見惚れるほどに美しい。


 梅昭儀は、その美しさに息を呑んだ。

 彼女でさえ、後宮に集められる美しい女人たちを数多見てきたが、それらとはまったく比にならない神秘を感じたのだ。


 紫色の目は炎に誘発されるようにいっとう光り、揺れる炎に照らされる白い面はさらに滑らかで美しく。

 あでやかに、さらに細やかにさらりさらりと宙へ舞う漆黒ともいえよう髪はくすしくも、神により創られた奇跡、神秘に満ちた白銀しろがねに見える。


 まるで、毒蜘蛛がその住処に糸を張り巡らすような。

 おのれに近づこうとする外敵から身をまもるような。

 そんな、鮮やかな白銀だ。


 ――炎はすべての源。転じて、《白》へと還す。


 冰遥は胸中にしてつぶやき、薄く白金はっきんを帯びた眼睛がんせいを開く。

 手に握った新月塩―新月のときにだけとれる純度の高い塩―を口に含むと、炎へと吹きかけた。


 須臾しゅゆにして炎は消えたかに思えたが、次の刹那せつな麒麟きりんうろこのような黄色い炎があがった。


 炎はすべての源。転じて、《白》へと還す。


 凛とした、水音のような爽やかな声だった。悪も転ずれば善となる。邪術も転ずれば、きっと命を助ける術となろう。

 冰遥は蠟燭に灯った炎を手にすると、力を与えるように炎に息を吹きつけた。


 ――炎は黄色のまま、細やかな光を散らしてゆらゆらとはためくと大きな蝶となり、冰遥の手から舞いあがる。

 蝶は左へ、右へ、と不安定に飛ぶと、梅昭儀の胸もとへと降り立った。


 彼女の喉から全身に蔓延ったくらい黒色の紋が、耀かがやく蝶にふれ、まばゆいほどに燃え、白く発光する。白い炎と発光は紋をたどるように全身へと広がってゆく。胸から首、上腕、胴体、そして下半身へと。


 美しき梅の女の体が、白くつつまれる。


 蝶もやがて《黄》から《白》へとかわり、紋を焼いた炎をまとっていっとう耀き大きく舞いあがる。

 宙に浮かび、ひとつ羽ばたくと細かな光となって、鱗粉りんぷんのように彼女へと降りそそいだ。


 ――まるで流れ星のように。


 途中からその眩しさに耐え切れず目を閉じていた梅昭儀は、「もう終わりましたよ」と言う声に目を開いた。ぎゅうと力が入っていた眉がもとの位置に戻る。あ、と普通の声が出て、驚愕の色を顔にうかべた。


「こえ、声が……」


 しわがれた声をだす。死人のように青ざめていた顔に、朱をさすように赤みが戻ってくる。

 深緑ふかみどりへと戻ってしまった蠟燭の炎が揺れている。

 冰遥はにこりと笑い、解けましたね、となんでもないことのように言った。それから、目を丸くする梅昭儀に穏やかな口調で続けた。呪詛調伏を解いて、二度とほかの術からかけられないように保護もつけたので、と。


「あなたは皇后に復讐をしたいと言いましたが、たぶん、それは間違いです」

「間違い?」

「ええ」


 冰遥はにこりと眉を上げた。今、解術したことで確信した。

 彼女へ強い調伏をさせたのは皇后ではなくて、皇太后なのだと。


 末恐ろしい女だ。自分の利益のためならばなんでもするのだろう。あの中秋節の祭りで見た皇后の念と、皇太后の念とは色が違う。皇后の念は恐れや恐怖を意味する青色、そして皇太后の念の色は黒色だ。破滅と破壊の色。


「あなたの声を奪い、皇后の犬になるよう約束させたのは皇后ではなく皇太后だ」

 ――心当たりがあるのでしょう?


 梅昭儀は美しいだけではなく強い女人だ。声を奪われて、一生抗えない主人を幼いころから教え込まれてきたのにも関わらず、その相手が甘い蜜だけを吸わないよう立ち回り、あまつさえ復讐も考えていた。

 それがもっともな証拠だ。それならば、彼女も皇后が本来の黒幕ではないと分かっていたはずだ。


「どうして、それを……」


 小さく呟かれた言葉。ぼろぼろと涙があふれでる美しい形の瞳。

 やはり、そうでしたか、と冰遥はにこりと笑った。きっと彼女にも分かっていたのだ、皇太后がすべてを握っていること、それでも圧倒的な力をもつ相手に復讐ができないから悶えていたのだろう。


『皇后がおまえに呪いをかけて、おまえの父と約束したのだよ。……おまえが一生自分のもとで働くようにと、ね』


 彼女の呪いを解術したときにふいに流れ込んできた記憶。

 あれは皇太后の声だった。


「再度言います。梅昭儀さま」


 今ならわかる。冰遥だけが、本当の黒幕にずっと気がつけていなかったことに。だがすべてを知った今、なにに復讐し、どうすれば良いのか分かった今、するべきことはひとつだけだ。


 徹底的な排除。


「わたしたち、協力して、復讐をしませんか?」


 梅の女は承諾した。

 祖国を滅ぼす戦争を支持し、他の者の人生を巻き込んで不幸にし、辰を陥れ、皇后を脅し、その他の人間の気持ちを踏みにじった悪女がいるのなら、それを排除しなくてはいけない。


 この国のためではない。辰のためでもない。まぎれもない、自分が愛した者たちの無念に報いるためだ。

 そして、その行動が他の苦しめられてきた者たちの背中を押すことになるのならこれ以上のことはない。


「それなら、協力してくださいませんか」

 ――龍と鳳の争いが、皇太后によって起こされたものだと証明するために。


 そう伝えると、梅昭儀は心当たりがあるようにはっと瞠目した。

 冰遥がにこりと笑う。梅の女はゆっくりとまなざしを逸らす。あら、いやですね、話してくださいな、と冰遥が続けると、梅の女はいささか唇を噛んだあと、ゆっくりと話し出した。


 ――どうして辰の文官が次々に謀反や横領でつかまったのか、それを指示した証拠をどうやって探したらいいのか。


 梅の女が簡単に話し終わると、冰遥はひとつ大息たいそくした。

 今ここに、すべてのほころびを指摘するための条件がそろったことに、瞳に喜色が浮かぶ。ふふ、と笑う。ありがとうございます、これで復讐も進みそうだ、と夢見心地に呟いて、立ち上がる。


 薄汚れた窓の外から黑々がやってきて、梅昭儀を目にするとカァ、と鳴いた。冰遥がかすかに目を眇め、梅昭儀に振り向く。


「では、それだけで、無念を晴らせるのでしょうか?」


 梅昭儀はく、と小さく喉を鳴らした。言葉に詰まったようだった。

 彼女が口にした仮説は、たしかに理にかなっているように思えたが、証拠をそろえることが出来ても後宮の一女官と女人が今更証拠をもっていったところで信用してもらえるとは思えない。


 辰に協力してもらうのも、忍びないわね、と冰遥は嘆息した。


 彼は自分の過去の行いをひどく悔いている。悔いて、悔いて、己の身を滅ぼすほど後悔の念にさいなまれている。これ以上苦しめるわけにはいかない。

 惚れた弱みか、と黑々が言った。冰遥は弱々しく微笑んだ。


「……わたしに、ひとつ、考えがあります」


 しばらくの静寂のあと、泣き出しそうなほどに震えた梅の女の声がした。


「……お聞かせ願います」


 月光の余韻を肌に受けて微笑む冰遥は、白銀に耀いて見えた。

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