〈冰遥編〉市場



 ぼんやりと藍色に滲んだ光が差しこんでくる。


 黎明れいめい、朝まだきの面影がのこる竜胆りんどう色の夜が、清潔な透明色のほむらによく似た赤色が上から覆うように、まっすぐに、偏屈へんくつもせず変わっていく。

 朝が来た。


 冰遥はうすら目を開けて、反対側の壁際の寝台で眠っている文琵の背中をじっと見つめた。そろそろ起きないといけない。尚薬局の朝は早い。


 冰遥はぐんと敷布の上で伸びをすると、長い髪を散らしながら起き上がった。昨晩邪術を使った疲労がたまっている。

 考えれば考えるほど、皇后という存在がどれだけ力を持っているのかを体感する。ぽっと出の貴族を国一番の富豪にさせ、娘を後宮でも上位である昭儀にさせるなど、相当な力があるのだろう。


 その力は誰に支えられているのだ? そう、黑々は言った。

 一晩かんがえてはみたものの、何もよい考えは思い浮かばなかった。


「……文琵、朝だよ」

「ん、……んん~……」


 ぐるんと掛け布団ごと丸まってしまった文琵に、―本当に朝が弱いわ、と―ぐるりと目を回して、さっさと髪を結わえる。


 今日は水曜日だ。買い出しの日。


 また会えるだろうかと考えている自分に気付き、冰遥は些か戸惑ったが、彼が兄のように聡明で柔和な笑みを湛えていたことを思い出してふわりと微笑んだ。


 鈴の耳飾りを付け直し、服を着替え、沓を履くころになっても文琵はまだ布団の上でまどろんでいた。


「じゃ、文琵、私先行ってるよ」

「ん~、……あとでいくよ……」

「わかったわかった」


 伝えておくね、と言い残して、部屋から出た。

 水曜日は、尚薬局以外もところからも買い出しを頼まれることが多く、一日中宮中の外に出なくてはいけない。襦裙を身に着けた冰遥が職場である尚薬局へと出向くと、待ち構えていた子涵ズーハンに大きな籠と買い出しの紙、そして財布を渡された。


「今日は多そうですね」

「うん、一カ月後に皇太子さまの誕生日があるから、その宴に用意するものが多いんだと思う。一人で大丈夫?」

「大丈夫です。私力には自信あるんで」


 あはは、頼もしいね、と子涵が笑う。冰遥はこの子涵という女官が案外好きだった。貴族の出身であるからではなく、彼女自身がもつ明るい気が理由だ。

 邪術を扱うようになってから、大抵の人間は、その血に流れる気と彩で本質を判断できるようになっていた。


 子涵は、呪いさえおのずと拒むほどの明るい気を持っている。ここまで強い彩を持つ者はめったに見たことがない。


「じゃあ、行ってきますね」

「うん。わたしここで待ってるから、帰ってきたら一緒に倉入れしよう」

「すごい、ありがとうございます、助かります」


 じゃあね、と明るく手を振る子涵に手を振りかえし、門番に一言告げてから外へと出る。まずはどこに行こうか。毎度この問いから始めてるな、と冰遥はくすりと笑い、何も考えずに足を進めた。


 彼はいるだろうか。


 胸が高鳴る。彼女の人生のなかでは、期待しただけ無駄だった、なんてことも多かった。無駄な期待はしないと思いつつ、駆けるように足早になってしまう理由が何なのかなんて知らない。知りたくもない。知らなくていい。


 今は、まだ。



 薬屋に寄って、――今日は薬買わないのかよ? と笑う店主に曖昧に返事をして――点心を二個買って外に出た。すぐに裏に回り、大木の下に伸びる石畳の道を歩く。鈴の音に引き寄せられて猫がやってくる。

 しゃがんで撫でた後、木漏れ日を踏みしめて奥へと進むと、前会った時と同じ場所、同じ格好で、彼が座っていた。


 黒々とした髪を髪になびかせて、猫に微笑んでいる。


チェン!」


 彼が顔を上げる。

 ぱあっと目を輝かせる辰が立ちあがって、「早いね!」と言いながらこっちに駆け寄ってきた。


「何も考えずにここに来てた」

「お疲れのようで」

「よくお分かりで」


 辰は鈴を転がすように笑う。そうなんだ、大変だねという彼の言葉に頷く。あ、これ、はい、と二つ買った点心の片方を差し出すと、ぱちぱちと瞬きをしたあと、恐る恐ると言った様子で受け取った。


 もしかして食べたことがないのかと尋ねると、薬点心は初めてだと答えが返ってきた。


 薬点心は健康によくて美味しいのに一体この国で今まで何をしてきたんだ、と思った。ちなみに炎尾国には餡入りの点心以外にはなかった。


 おいしいよ、と言って足元に擦り寄ってきた猫に千切った点心を分け与目の前で

「……ん、ほんとだ、美味しいね」

「でしょう。私のおきにいりなんだ」

「猫ちゃんたちも好きみたいだね」

「そう」


 しゃがんだまま猫を撫でて、おすそ分けをしていると、辰に呼び止められた。

 腰痛くなっちゃうから座りなよ、と差し出された節ばった大きい手。冰遥が顔をあげると、邪なことなど何もないような顔で辰が微笑んでいる。ぎゅ、と眉を寄せる。


「……わたし赤ちゃんじゃないんだけど」

「ふふ、じゃあ何歳?」

「……十八」


 数瞬、本当の年齢を言うか迷ったが、目の前でにこにこと唇を引き上げているこの無害そうな男に教えたところで悪用されることはないだろうと踏んだ。

 辰は十八かぁ、とまなじりを緩めて笑った。


「残念、僕は十九だよ」

「……お年を召されていていいですね」

「あはは!」


 この明涼国は儒学の影響があって、年齢での上下関係に厳しい。今からでも敬語を使うべきかと考えていると、見透かしたように敬語も敬称もいらないよ、と辰が笑った。


 邪術も神通力ももたないのに、やけに鋭い男だ。それも、時々何もかもを見通しているような、真っ黒で無垢のない目で見つめてくる。胸の内を暴かれるような感触があって、居心地が悪い。


 どれだけ生意気なことを言っても本気で咎める気配がない。冰遥は立場上、貴族の血である人と関わることが多かったが、取るに足らない矜持を守るために人を傷つけるような者しかいなかった。

 この男、本当に何者なのか? 冰遥の胸に、ぼんやりと疑問が生まれる。


「……辰、あなたって、貴族なの?」


 冰遥はあまり熟考することが得意ではない。邪術を使えばすぐに正体など暴けるだろうが、彼の前で術を扱うことはしたくなかった。


 辰の、美しい真っ黒な双眸が向く。水気の多い瞳は、日差しのきらめきがたゆたっている。神秘的な目だ。濃い紫色に沈んだ冰遥の目とかち合う。


 ふわり、と、やわらかそうな口角が引きあがる。甚三紅じんざもみの丹唇。真白い歯が覗き、ふふ、と笑う。少し鼻にかかった、掠れた調子を孕んだ甘い声で。


「……もしかしたら、そうなるかもね」


 ああ、また、あの目だ。冰遥は思う。


 彼には触れられない秘密がある。明るく、陽気で、朗らかであるのに、どこか触れてはいけない荒廃した絶望を併せ持っている。彼が自分を許せない理由も、きっとここにあるのだろう。


「ふうん。そうなんだ。じゃあまだ貴族じゃないってこと?」

「そうだね」

「じゃあ、貴族になったらこの子たちに家をあげてよ」


 滅茶苦茶な会話だと彼女さえも知っていた。大抵の人間なら何を言っているのだと呆れ笑いをするような内容だ。

 けれども、辰は愉快そうに白い喉を出して笑って、うん、いいよ、そうするよ、と答えた。


「……いつもここにいるの?」


 冰遥が聞くと、ゆったりと猫を撫でながら、鼻唄を歌うような曖昧な返事をよこされた。君が来るって言ったから水曜日はいるつもりだよ、と答えになっていない答えが返ってくる。


 気に食わない。冰遥は猫を最後に一撫でして立ちあがった。


「じゃあ、私そろそろ行くね」

「……お買い物?」

「そう。結構多いから、急がなきゃ」

「じゃあ僕荷物もちしようか?」


 ぴたりと足が止まる。

 冰遥はなんと返すか迷って、ゆっくりと相手の顔を見繕った。


「……本気?」

「……え、本気だよ?」

「……え?」

「え?」


 じっと見つめ続けると、辰は突然「ああ!」と合点がいったように頭に手を当てて、ああ、ごめんごめん、と矢継ぎ早に謝った。


「同じくらいの妹がいてさ、その子にするみたいにしちゃったね、ごめんね」


 そんなに気が知れた仲でもないのにごめん、気にせず行っていいよ、と告げて、辰はまた猫を撫で始める。

 絹を纏った大きな背中は、まるでずっと降ろすことのできない荷物を抱えているように澱み、悲しみに暮れた赤子のように見えた。


 怨嗟えんさしようにもできない、本有ほんゆうのままに咆哮することもできない。


 ずっと、ああして生きてきたのだろうか?


 焦る本能も身に押しくくみ、哀しみをたんずることも、かおりに酔いしれ華に遊ぶこともできないまま――。


 冰遥は彼の本質が『善』であることを知っていた。彼の言い分に他意はないことも知っていた。

 彼の心にあるのは、純粋なる善意と、――不自然なほどに思い悩んだ深い後悔だけだ。



 冰遥は注意深く辰に近づき、ふぅ、と軽く嘆息して耳飾りの鈴に触れた。

 しゃらん。鈴が鳴る。辰はゆったりと瞬きをしながら白い面を向けた。紫に滲んだ神秘的な瞳に貫かれて、数瞬見惚れたようにぼんやりとしていたが、どうしたの、と呟いて立ち上がった。


「……力持ちなんでしょ」


 これ、と籠を押し付けるようにして差し出す。


「不審者じゃないから大丈夫」

「……危機感足りなくない?」

「いいえ」


 私が大丈夫だって判断したら大丈夫なんだ、と言いかけ、開きかけた口を閉じる。彼に伝えるにはまだ早いだろう。

 はやくして、と可愛くない言葉を吐きながら、熱くなる耳の先を隠すように顔を背けた。


「ふふ」

「……笑うな」

「はあい」


 隣で、にこにこと柔和な笑顔を浮かべる辰をじろりと睨めば、すべてを許す寛容な仏のようにふふ、と笑みを返される。


「じゃあ、まずは何を買うの?」

「ん、……まずは布と花かな」


 手元の紙をじっと見つめてそう呟く冰遥を横目に、辰はじゃああっち、と人差し指を向けた。


「女人の服やくつを仕立てる布なら、この路地の先にあるお店が良いよ。腕利きの掌櫃しょうきがいるんだ」

「……へえ」

「あとは、花でしょう。花は保存用? それとも生け花?」

「たぶん、……生け花だと思う」

「なら華田坊の通りがいい。あそこはみんな花をよく識ってる」


 全部聞いたことがない店だ。

 冰遥がぼんやりと頭の中に地図を描いていると、さあ、行こう、と数歩先にいた辰が振りかえる。


「案内するよ」

「……助かる」


 押しつけた籠をもって自分をじっと待っている辰のもとへと走ると、辰は華やかに笑ってこっち、と指さすと歩き出した。

 隣に並ぶと、彼の体格の良さが分かる。鍛錬を重ねた武官と同じくらいの背丈に、鍛えられた身体は健康的で、すらりと長い脚をしている。


 横からは麝香ムスクと甘い安息香がまじった品の良い香りがした。

 官能的でありながら、包み込むようなあたたかい香り。炎尾国でも明涼国でも嗅いだことのない、異国の香りだ。


「わたしはあまり詳しくないけど、……辰の香りは、落ち着いてて、素敵だね」


 なんともなしに口にした言葉に、辰がばっと振り返った。

 冰遥がえ、なに、と呟いて不審がって後ずさりすると、彼はぱあっと花が咲き綻ぶように笑った。


「嬉しい。……結構強いって言われるんだよね」


 ふふ、と鼻にかかった笑いを漏らす辰は普段通りだ。冰遥はいやに警戒したな、と思いながら隣にふたたび並ぶ。

 後宮の女人がお互いに香りを褒め合って嬉し気にしていたいつかの記憶が蘇った。


「……そうかも。でも似合ってるよ」


 人通りが多い大路に出ると、辰にやんわりと道の端へと移動させられる。段差に気をつけて、と服を引っ張られたり、これ、似合うんじゃない、と小さな簪の店に連れていかれたり。

 どれもこれも、彼とその店の店主とは知り合いのように仲良さげに話している。どれだけこの街に詳しいのだろう。



「……ほんとに詳しいのね。なんでも知ってるじゃない」


 肉屋の店主に声をかけられて足止めを食らっていた二人が歩き出し、冰遥がそう言うと、辰はなんでもないような口調で「ずっとここで暮らしてたからね」と答えた。


「生まれも育ちも?」

「生まれも育ちも。実はね」


 彼の纏う香りや、服や、懐の広さを見れば、ただの商人の息子ではないことなど一目で分かる。冰遥は数多の貴族や商人の娘を見てきた。彼と同じように穏やかで高貴な雰囲気をもつのは大抵国の上層部を支配する五大貴族の娘だけだった。


「ここらへんは貴族と商人が住まう町って聞いたけど?」

「……うーん、まあ、そういう感じかな。沙華は?」


 自分の本名を呼ばれて、冰遥の心臓が強く跳ねた。そういえば、そうだ、彼には教えていたんだ。

 この数年をずっと「冰遥」として過ごしてきたせいで、いまだ自分の名前を知られていることに慣れていない。


「わたしは、……ずっと田舎の方から来たんだ」

「へえ、そうなんだ。お店の移動とか?」

「ううん。宮中入りするために」

「えっ!」

「……なに?」


 急に大きな声を出す辰をふりむくと、大きく目を瞠った彼の黒い目に貫かれた。


「宮中の女官っていうこと?」

「……そうだけど。買い出しもそのためだし」

「……それさ、宮中で使うものって部外者に言っちゃだめじゃん……」

「辰はいいんだって」

「どこから出てくるのその自信……」


 あ、ここ右に曲がるよ、と辰の言葉に導かれて、ようやく彼が良いと言っていた布屋にたどり着いた。

 買わなければいけないのは新しい服を仕立てたいと言っている四夫人と妃たちだ。それなら十五枚ほど買わなくてはいけない、と辰に言うと、いっしょに選ぼうとにこやかに返された。


「宮中のきまりとして、女の人は、皇后あるいは寵姫よりも華やかなものを着てはいけないんだ。だからその二人が何を召すのかを最初に分かっていなくちゃいけない」

「え、……それは知らないよわたし」

「だろうね」


 だろうねって何だよ、そもそも尚服局の女官は今忙しい時期なんだから出歩けないんだよ、なんでそれ知ってるの、ほら口軽いよ沙華。


「意外と宮中のこと知ってるのね」


 これは正一品の人たちに良いと思う、と細やかに教えてくれながら、真剣に布を選ぶ辰に向けてそう言うと、彼は一度流し目で冰遥を見た後「そうかもね」と呟いた。

 またあの黒い目だ。冰遥は思う。すべてを諦めて、地獄の底で滓をすすって生きてきたような目。


 話題を変えよう、と思い、冰遥は明るい声になるように務めて辰の手元を覗き込んだ。


「それに、布にも詳しいのね」

「……そうだね、沙華にも似合うの、選んであげようか?」

「わたしはいらないよ」

「なんでよ」


 まあ、ついこういうの見ちゃうんだよ、と笑う辰は、そう言い残して店主に促されて奥へと歩いていった。

 彼がどうして女人と親しげにできるのか、そしてどうして冰遥の行動をよく受け入れてくれるのか曲がりなりにも理解していた。彼にはよほど仲がいい妹がいたのだろう。


 ふと、瞼の裏に、酷く美しい兄が浮かんだ。隣をチラリと横目で見やる。彼はまだ、ひだまりから飛び出してきたような笑顔を浮かべていた。


 ほら、これ、ささやかだけど金糸が織り込まれてるから、歩くたびにきらめくんだよ、と説明されて、促されるまま十五枚の買い物を済ませた。籠に布を丁寧にしまって、外に出るとぐうと伸びをする。その籠をすぐ辰に奪われた。


「なんか、お腹空いてきたね」

「そうだね。どっかで食べる?」

「食べたい、良いお店知らない?」

「知ってるよ」


 まかせて、と魅惑的に笑い歩き出す彼に、なぜ誰にも教えていないもとの名を教えたのか、今は考えたくなかった。





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