#2
自分の口をついた幼稚な言葉に苦い笑みを浮かべる。
お願い。頼みでも要望でもない、年不相応な響き。その場しのぎである証左に他ならない。
聞き手は口の端を撫でて何度か瞬きをしている。それからややあって、「僕が応えられるものであれば」と真剣そのものといった声音で返事をした。
「そう」
期待していた返事に、細くした目元が緩む。しかし、そのまま緊張がほぐれることはなく、かえって体がじりじりと冷える心地がする。
澄んだ眼差しが不安を掻き立てた。このまま全て吐き出してしまうのではないか。見透かされてしまうのではないか。自分の脆いところを射貫かれたようで恐ろしく、視線を落とした。
「信用していただけませんか」
さっきとはうって変わって気弱そうな問いかけが降りてくる。ちぐはぐな自分の態度に振り回されかかっているのが愛おしくも、気の毒にも思えた。
首を横に振って取り急ぎの回答とする。話し始めてしまった以上、始末はつけなくては。
一呼吸おいて彼と目を合わせる。
「大した話ではないものですから」
一人用のベッドと簡素な作業机、サイドランプ。パソコンと横積みしたままの本。人を招くのに支障はないが歓迎もできていない殺風景な部屋を、電灯がいつものように照らしている。
腰を立てて座り直し、あぐらをかく。背筋は伸ばしすぎないようにする。見てくれだけでもリラックスしているようにするために。
「車、運転できますよね」
「はい」
これ以上進みたくなかった。
毎回律儀に「いいですか」と乞うては自分に触れてくる、彼の習慣を拒むタイミングを見失っていた。ただ手を握ることから、次回にはその時間が延び、数月後には指を絡めてみる。微々たる侵攻が1年以上続いている。先刻もそうやって身動きすら取れない状況を受け入れてしまった。
「明日の予定は?」
「特に」彼は小さく首を横に振る。
少なくとも時間がほしい。彼に黙っておきたいことも、明け渡すべきでない領分も、今のままでは危ういと理性が弾き出す。
「連れて行ってほしいところがあるんです」
「どちらまで?」
ふと下を向く。自分の左手の甲が視界に入った。枝のように広がる静脈の青を見て口にする。
「水辺に」
まだイメージは漠然としている。
話はしたい。だから、静かなところがいい。けれどそれらしいところは気が引ける。
顔を上げると、彼が「水辺に」と鸚鵡返しをして眉を寄せていた。
「泳いだりはしませんよね」
彼は良くも悪くも、普通に考えたら、という筋書きを避ける癖がある。
「この季節ですから」口角を上げて答えた。
もう11月も半ばを過ぎた。街路のイチョウが黄葉し、風は乾燥して冷たく、屋内でも肌寒いことが多い。先ほどまで身を寄せ合っていたため汗ばんでいるものの、そろそろ着ている服も変えた方がいい時期だ。
「だとしても、色々あると思いますけど」
「そうでしょう」予想通りの反応に目を細める。「具体的な場所は君に任せます。昼前に出発して夜には帰ってこられるなら、どこでも。……ああ、けど、水族館や船みたいに人気の多いところは、避けていただけると。静かで、自然が豊かな場所がいい」
「はい」
彼はこくこくと頷いて、行き当たりばったりの注文を聞き入れる。仕事中、メモを片手にしていた仕草そのままだった。それから内容を一通り咀嚼したであろうところで、首を傾げた。
「人工的なところは好ましくない、ということでしょうか」
「ええ、そんなところです」
それを聞いて、また別の角度に首を傾け直す。さながら宿題で行き詰まる小学生のように見えた。何がそんなに引っ掛かっているのだろうか。
「あの」
思い切ったようにそれだけ投げ掛けると、また躊躇して口を真一文字にしている。
「何でしょう」
彼は次の言葉を探すように口をぱくぱくと動かす。
まさか、これだけでは察せられまい。そう心の中で言い聞かせつつも、焦燥感を覚える。
「ダムって、どうなんですか」
沈黙。窓辺から車の走る音がよく聞こえた。
「ダム?」
背を這っていた寒気が去ると同時に、聞き返していた。ついでに、さっきと立場が逆であると頭の片隅で処理される。
「その、えっと」
妙な単語を出した張本人が慌てた様子で話し始めた。
「昼間テレビで見たんです。緑と巨大な構造物のコントラストがどうとか、なんだったか……とにかく施設ではありますが、基本的に山みたいに広いところにしかありません。そうごった返すこともなくて」
自身も状況整理をするべく指を折っては頭を振り、更に続ける。
「とにかく、先ほど高棟さんが仰っていたどちらにも該当するんです。なので、先程の行ってもいい水辺に入れて良いのかどうなのか、分からなくて、それで」
彼は俯いた拍子に目にかかった前髪をよける。しどろもどろになりながら次の言葉を探している。
真面目に説明しているところ悪いと分かっていても、思わず笑いが漏れた。数年前まで戻ってしまったような心地だ。成長していることに違いはないが、根が変わっていない様子に安心する。
住野くんはみるみるうちに眉をハの字にしていた。
「ごめんなさい、馬鹿にするつもりじゃないんです。思ったより話してくれるものだから、びっくりしちゃって」
「──すみません」
「謝らなくていいのに」
その強ばった頬を指の背で撫でる。
彼は目を伏せ、ため息を吐いた。
巨大な堰堤によって作られた人工湖に思いを馳せる。しかし、精々脳裏に浮かぶのは、木々、遠くの山、開けた空、静かな水面、高い灰色の設備、それらが曖昧に接続されたイメージだけだった。その想像が正しいかも分からない。貯水量がどうだという話をニュースで見る以外、本当に知らない所だ。
懸念していたことにも抵触していない。これだけ条件が重なるとは瓢箪から駒とでも言うべきか。
暫し思案にふけったこちらを、彼は心配そうに見ている。
「変な質問でしたよね」
いまだ裏返りかけの声で彼は訪ねる。
「確かに驚きましたけど興味深かったです。俺も行ったことはありませんし、試しに見てみたい」
「それじゃあ、さっきの話は」
「君が心配してくれていた点は問題ありません」
「よかった」
ようやく落ち着きを取り戻した質問者はベッドから降りる。自身のスマートフォンを充電コードの接続から外し、ロックを解除して画面の操作をしている。
「関東にもそれなりの数あるらしいんですが、ご希望はありますか? 何県とか、周りに何があるかとか」
そう言いながら戻って来ると、検索エンジンで簡単な単語を入れた結果を見せてくれる。
「そうですねえ」
逡巡している間に彼はベッドに腰掛け直す。その拍子にコイルが軋んだ。
ページに掲載された名前や写真を眺めてはみるものの、見当がつくはずがない。自分の望んだ条件はとうに満たしているので考える意欲が削がれていた。ついでに運転する側の利便も分かりかねる。
「住野くんならどこにします?」
「えっ」すっとんきょうな声が上がる。
「道のことは君の方が分かるでしょうし、水辺ならどこでも構わないので。ほら、番組でやってた場所とか載ってませんか」
そう言うと、目を見開いて彼が訪ねる。
「着いて行ってもいいんですか」
意外だと言いたげな様子だ。連れて行くという言葉の認識に齟齬が生じていたことに気付く。むしろ一緒に来てもらわなくては困るのだが、素直に伝えるのを憚った。
「別で時間を潰したければそれでも構いませんが」
「そんな」彼は食い気味に返答をして続ける。「てっきり僕は運転するだけで、一人で過ごされたいのかと」
彼の推測に首を横に振る。「それだったら黙って電車で行ける場所を探しますよ」
問題なく同伴してもらえそうだ。安堵から息が漏れた。
「なら、僕も考えないとですね」彼は改めてスマートフォンを点け直す。「趣味で見に行かれる方も結構いらっしゃるみたいです。番組で取り上げられたところはそれ以外の人達の注目も集めたことですし、どちらかといえば避けた方がいいかもしれません」
「なるほど」
「道については僕もそこまで詳しい訳ではありませんが、運転しやすそうな場所とすれば──ここですかね」
液晶には質素なレイアウトのウェブページが表示されており、小さな写真を無理に引き伸ばして掲載してあった。イメージ通りの景観だ。東京都の隣県に位置し、周囲には素朴な観光施設や売店が点在している。
「行事の予定もなさそうなので、狙い目かと」
「じゃあ、そこで」今度は自分がベッドの上をいざり、床へ足をつける。「出発時間なども考えてもらっていいですか」
「はい、それは……構いません、けど」
住野くんは立ち上がったこちらを怪訝そうに見上げている。これからどこへ行くのかとダークブラウンの瞳が訴えていた。
「もう一度シャワーを浴びてくるだけですよ」
「ああ、行ってらっしゃい」
合点がいった顔の彼を確認し、寝室を出る。
廊下は人が居ない分冷え込んでいた。たかが数歩のために明かりを点けることもなく、壁伝いと慣れで脱衣所まで向かう。
ドアを開ける。30分ほど前まで使用されていただけあり、まだ熱がこもっていた。閉めきっていなかった浴室からボディソープやヘアケア用品などを差し置いて、むっと重い香りがする。甘苦くて粉っぽい、樹木の匂い。吸い込むと頭の奥がじんと痺れ、視界が薄く滲む。
「は……、」
吐き出す息が淡くなり、立ち尽くしそうになるのを顔を拭って切り替える。彼の香水が揮発したまま残っていたようだ。20代にしては大人びているというか、巷で似たものにあまり巡り会わない。本人も外部とのやり取りきは向かないため、せいぜい週末しか着けないと言っていた気がする。
着ていたものを全て脱ぐ。寝巻きは後で着直すためラックに置き、インナーシャツは思ったより汗ばんでいたので替えることにする。紺のトランクスを片手に濡れたタイル床へと足を運ぶ。
シャワーをもう一方の手で掴む。下着の表裏をひっくり返して置き、しゃがみ込む。ヘッドを下に向けてハンドルを捻ると、人肌には適さない冷めた水が出てきた。布の上で乾燥しかかったカウパー液にそれをかけ、指の腹で擦って落としてやる。白い跡がなくなったら浴室の戸を腕が出せるだけ開けて洗濯機に投げ入れる。
その頃には水も温まり、湯気がほんのりと上がっていた。シャワーラックの位置を下げて鎖骨の辺りに湯が当たるように調節する。後ろ髪を避けて首の汗を流す。脇や背なども同様にしたあと、水勢を弱め竿先を洗い流す。ぬめりが取れたら、それ以上の慰みはしないよう手を離す。
部屋一面にもシャワーをかけてから、ハンドルを閉める。曇りが晴れた姿見に映る自分を観察する。
平行な眉、奥二重の瞼。主張の弱い鼻筋と唇。普段上げている前髪は、落ちてくると人中辺りまで届く程になっていた。夕飯の前にふと「回復してきた」と言われたが、肉付きは削げている。顔色はましになったかもしれない。
それから、右肘から手の甲へと目をやる。赤褐色をした靄がその上をまだらに占めている。
自分が住野くんを唯一縛っているもの。
配属が同じだった頃に遭った事故のことを、彼は酷く自責している。
彼が何かした訳ではない。ただ自分が庇って火を浴びただけ。当時のことを完全に覚えている訳ではないが、そこに立っていることが悪手だと判断するのは不可能だった。直後に部署が変わったのも、上が処分したのではなく彼の希望を受理した結果である。
退院してからこの話題は出さずにいる。トラウマを蒸し返すのは悪いと思ってのことだ。しかし、ここでの均衡が崩れたのもこのあとなのだから、いつか話をしなければならないことも分かっている。
突っ立ったままあれこれと振り返っていると、体に着いていた水滴や熱はいくらか落ちている。寒くなってきた。そそくさと脱衣所に戻り、広げて乾かしていたタオルで再度体を拭く。
着替えて寝室に戻る。住野くんは部屋を出る前と同じ場所で座っていた。
「おかえりなさい」
「ええ、ただいま」そう言って隣に掛けた。「明日のスケジュールは固まりそうですか」
「はい。目的地までは2時間見積もれば問題なく着けると思います。向こうで昼食を摂るのであれば、10時出発になるかと」
「分かりました」
「僕は一度車を取りに行くので、9時過ぎには一度こちらを離れることになります」
逆算して、一通りの支度を急ぐ必要はなさそうだ。唯一衣類が乾ききらないだろうということを除いて。
「洗濯物は帰りにまた寄ってもらう形でも構いませんか」
「大丈夫です。すみません、何度もお邪魔することになって」
彼は申し訳なさそうに小さくお辞儀をする。
「お互い様ですよ」
立ち上がりスマートフォンを取り、目覚ましアラームのアプリを開く。
「7時半頃に鳴らします」
セットした画面を見せた。彼は頷き、伸びをする。
「これで決まりですね」
「そうですね。急に色々とすみませんでした」
「いえ、貴方のお力になれるなら」
柔らかく微笑む彼は、異動前より頼もしく見えた。
「優しいんですね」
ほっとしたところで、不意に欠伸が出る。
「失礼」
涙の浮いた眼を、じっと彼が覗き込んだ。
「もう、寝ましょうか」
「──そうします」
住野くんは立ち上がって電灯の紐を引き、明かりを落とす。その間に自分は足をベッドに上げ、のろのろと奥へ這いずる。
彼もまた寝転ぶと、両腕を広げ自分が来るのを待っている。
「高棟さん」
この儀式にも随分と慣れた。促されるまま腕の中へ収まりに行く。彼はそれを確認すると、ぎゅう、と音がしそうなくらい強く自分を抱き締めた。
布団を被ったあと、優しく背をさすられる。風呂場に充満していた香りの薄まったものが鼻腔をくすぐった。目を閉じ、常夜灯から逃げるように彼の懐へ潜る。
「あれから夜中はどうですか」
「だいぶ、減りました」2年前から、魘されて目が覚めることが多かった。「最近は朝まで眠れる日の方が多いくらいで」
ここ二月で特にその兆候は落ち着いた。泊まりでのやり取りと因果関係はあって然るべきだろう。
「本当ですか」
「君のお陰です」
彼の胸板に額を擦り寄せる。しなやかな筋肉がそれを受け止めた。
「……ありがとうございます」
くしゃりと髪を掻いて頭を撫でられる。
自分以外の体温に包まれ、ふつふつと後頭部から浮くような感覚を覚える。重たくないかという心配をする間もなく、身体を預けきってしまう。
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
返事を最後に、呼吸を深くしていく。再び背をさすられていれば、やがて意識がほどけた。
***
膝立ちになっていた。
眼下には仰向けの人間がいて、自分はその下腹辺りを跨ぎ膝を地につけている。腰を下ろしていないものの、形としては馬乗りになっているような状態だ。
指の一本も自分の意思で動かせず、視界の縁がいつもよりぼやけて見える。
かろうじて眼球だけは自由が許されているらしかった。視線を移せば、位置関係を同じくして、そこにあるディテールがめくるめく変わっていく。
濡れたアスファルト、タイル張り、よれよれのカーペット。柄の悪い服装、長い黒髪、骨と皮ばかりの四肢。学生服、素足、スラックス。蛍光灯、西日、電球、月。灰、白、黄、藍。
腰から屈んで、手をついた。
相手により近くなる。
苦悶に歪む眉、血色を失う唇、失意、満足げな笑み、閉じた目、額にかかる黒一筋。対象のかたちは一向に定まらない。
手を遠くに置き直し、肘を曲げる。
いやだと思った。この後自分の体がどのように動くのか予想出来てしまったから。
目と鼻の先に顔がある。そんな気はしたが相手は息をしていない。暖かくもない。
首を少し傾ける。
それから更に顔を落とす。
唇が触れる。
それは人らしい質感ではなかった。言うなればプラスチックのフィルムに近い。そして自分の体が地に近づこうとする力への抵抗感がない。
表面に張っていた薄い膜が音も立てずに裂ける。その隙間から暗紫色が見えた。
同時に四肢を支えていたはずの地面までもが緩くなり始める。一斉に自分の形通りに潰れ、体が沈んでいく。
口やあちこちに中身が付着する。べたべたする。溶剤で伸ばしていない、チューブから出したばかりの絵の具を想起した。
顔が埋もれる。
纏わりついたもので息が苦しい。目の前はぼんやりと黒や紫の濃淡があるばかりで何にも標準が合わせられない。
手足を動かそうにも、固く粘ったもの相手に絡め取られる。全身が飲み込まれるのを待つ他なかった。
空間識ではなく、先に起こったことの文脈からのみ自分がゆっくり下降していると知覚する。呼吸は問題なく行えるようになっていた。それ以外に出来ることは依然としてない。
どこへ落ちているのか分からない。ただ恐い。
しばらくすると、眼下に今までと違うものをとらえる。
青い光だ。光量は心許なく、周囲との対比で明るいと感じる程度だった。寒色なのになぜか暖かそうに見える。
自分より前方にあるようで、ぶつかることはなさそうだ。
なすがまま降り続けていけば段々とそれに近づいていく。
それは人の頭くらいの大きさの球体だった。目を凝らして見ると外側は半透明で、中心にいくほど青色が濃くなっている。ビー玉のような艶がある。
自分は両の腕を伸ばす。球を抱き寄せようとしている。
なぜだか、そうしなければいけないと思った。
距離が足りない。
それでも伸ばす。手を目一杯開く。肩や胴や全身をもって届こうとする。
指先が表面に触れた。
***
気付けば昨夜と同じベッドにいた。ついさっきまで伸ばしていた腕は折り曲げて鳩尾の前へ納められている。
顔を上げた先では、住野くんがまだ静かに寝息を立てていた。
ようやく、今まで夢を見ていたのだと理解する。
彼を起こさないよう注意を払いながら、自分の顔に触れ、身じろぎをしつつ体を覚醒させていく。これといって何か付いていたり姿勢が変わっていることはない。あの感触は、また別の記憶の残滓だったのだろう。
布団を目元が出るまでまくる。カーテンを閉めた小窓の隙間が白んでいた。朝だ。
アラームの音は聞こえていない。
念のために壁掛け時計を見やれば、ちょうど7時になるところだった。
山峡の十字路 @hiraoyanagi
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