初めて足を踏み入れた幹部会議室を見渡し、内装を手掛けた奴の壊滅的なセンスに無悪斬人（さかなしきりと）は内心で嘲笑した。

　西新宿の一角に建つ雑居ビル。鬼道会が丸々一棟所有するビルの最上階の会議室は、構成員二万人からなるピラミッドの頂点――本家直系幹部以上の組員のみ立ち入りを許可されている。

　年に二度催される定例会や幹部会議に利用され、盃事（さかずきごと）も執り行われる鬼道会の聖域中の聖域。室内には権力を誇示するように調度品の数々が陳列されている。

　壁には一枚数百万円はくだらない価値の絵画が和洋を問わず、統一性の欠片もなく掛けられていた。そのどれもが美術館に展示されていてもおかしくないビッグネームの画家のものばかり。

　かつて掃除を任された若い衆が、緊張のあまり手を滑らせて落としてしまったことがある。その後どうなったかというと、落とし前として利き手の指を全て切り落とされたとか。

　その他にも古備前の壺や、明時代の白磁器、ガレのシェードランプに鎌倉時代の太刀が無造作に飾られている。アンティークのカップボードには、バカラのグラスとマイセンのティーカップセットに混じって魯山人（ろさんじん）の皿や曜変天目茶碗（ようへんてんもくちゃわん）まで飾られている。

　値段の張るモノを寄せ集めただけに過ぎない。芸術品で闇鍋を作るとは大したものだ――その異様な空間の中央に並ぶのは、コの字型の特注黒大理石の特大テーブル。それと同系色で統一した本革のアームチェア。

　中央には執行部三役が座る椅子が並んでいる。他のものより背凭（せもた）れが高く、一際存在感を主張していた。背後の壁には書道が趣味だという顧問が手書きした、「任侠道」の書が、会議室にいる者を等しく睥睨（へいげい）している。

　額縁の下には、全国各地の傘下団体や外部の組から毎日のようにＦＡＸで届く破門状のハガキが、モザイクアートのように手当たり次第に貼られていた。ここに名が載るということは即ち、極道としての〝死〟を意味する。

　無悪の視線の先――並の人間であれば嘔吐しかねない緊張感が漂う会議室内に、鬼道会本部の執行部総勢十名が睨みを利かせてアームチェアに腰掛けていた。唯一直立不動の姿勢を命じられていた無悪は、かれこれ一時間は下らない迂遠（うえん）な問答の連続に痺れを切らしていた。

　平均年齢七十歳の執行部は、三十代の無悪にとって思想から価値観までまるで合わない。所詮、時代の変化についていけない組織を蝕むガン細胞という認識でしかない。

「もうこの辺でお開きにしたらどうですか。執行部の方々には残された時間も少ないでしょうし、まどろっこしい話はやめにして単刀直入に言ったらどうです。この私が大鰐源蔵（おおわにげんぞう）会長を殺害した犯人だと。まあ……天地がひっくり返っても恩人である会長（オヤジ）を手に掛ける真似なんてするはずがないですがね」

　東日本最大規模を誇る広域指定暴力団、鬼道会を一代で築き上げたカリスマ的存在、大鰐源蔵（おおわにげんぞう）が懇意にしていたクラブで何者かによって射殺されたのが一週間前になる。

　裏家業の人間から見ても、遺体の損傷具合は目を覆いたくなる酷い有様だった。合計二十発を超える銃弾が、射撃訓練用の的を撃ち抜くように人体の急所という急所を精確に貫いていた。犯人はオーバーキルという言葉を知らないらしい。

　顔面に有るべきはずの部位（パーツ）が、至るところに肉片となって飛び散っていた状況は凄惨を極めていた。現場は大量の血と脳漿――それに黄色みを帯びた脂肪分が流れ出して、革靴では足を取られて転倒してしまうほどに滑りを帯びていた。

　現場の第一発見者でもある無悪は、警察で事情聴取を受けることになり数時間に及ぶ詰問に耐えて解放されたその足で、この緊急会議の場に招集されていた。

　東の鬼道会、西の鷲尾組と、日本を東西で二分するほどの組織のトップの死に警視庁も本腰を入れて捜査にあたっていた。無悪は警視庁内部に抱えている子飼いの内通者（イヌ）から、本家でも知り得ない捜査情報を先んじて得ていた。

　公僕でありながら闇金に手を出し、その闇金が運悪く無悪が組長を務める十和田組の傘下企業だった経緯もあり、あれよあれよと糸に絡め取られた愚かな男は今やサクラの代紋ではなく、鬼道会の代紋に忠誠を誓っている。

　そいつの報告では、現場に犯人に繋がる省吾は残されておらず、現場付近の監視カメラに映る画像からも特定は難航しそうだと連絡が入っていた。

「まあ、そう熱（いきり）り立つな。悔しいのはなにもお前だけじゃない。鬼道会という大所帯をこれまで先導してきた大鰐会長の命（タマ）を取られて、度し難いほどの怒りに震えているのは我々も一緒だ」

　総白髮をオールバックにまとめ、額に横一文字の刀傷の痕が走る男――亡き会長の跡を引き継ぐ形で、暫定的に若頭から会長へと出世した本宮榮治郎（もとみやえいじろう）は、両隣に座る舎弟頭の猪木弥（いのきわたる）と本部長の前園圭吾（まえぞのけいご）の執行部三役に目配せし、本題に移った。

「ただな、ここにいる執行部十名のうち、九名が現場の状況から鑑（かんが）みて、大鰐会長を弑（し）いした犯人の首謀者は〝オマエ〟である可能性が高いと結論づけた」

「は、馬鹿も休み休み言ってくださいよ。ガキの頃から実の息子のように可愛がってくれた恩人を、何故殺害しなくてはならないんですか。動機もなければ証拠もない。何もわかっていない状態で有無を言わさず呼び出しておきながら、裁判官気取りで有罪判決を下すとはいくら執行部とはいえ、あまりに失礼な話ではないですかねえ」

　現執行部の無能さを痛烈に批判すると、予想通り耄碌（もうろく）した連中は怒りで顔を染めて噛みついてきた。

「無悪っ！　貴様誰に向かって生意気な口聞いてるのかわかってんのかッ！」

「いいからさっさと白状しやがれ！　この親殺しがッ」

「ドス持ってこんかい！　指じゃ足りん。腹切りやがれッ、今すぐここでな！」

　会議室には怒声と湯呑が飛び交う。拳銃（チャカ）さえあれば銃撃戦になりかねない一触即発の空気を落ち着かせたのは、本宮の鶴の一声だった。

「まあ待て。少しは静かに話くらいさせろ」

　その一言で場は嘘のように静まり返り、子を諭す親のような口調である提案を持ちかけてきた。飴と鞭――処罰を匂わせておいて、一転して解決策を持ちかけるのは本宮のみならず、ヤクザの常套手段である。

「このままだと、真偽はどうあれクロに極めて近いオマエには、数時間後に親殺しの責任を取ってもらうこととなる。しかしだ、もし真犯人を突き止めてここに連れてくることが出来たなら、その時は褒美に幹部の椅子を一つプレゼントしてやる。どうだ？」

「随分と気前がいいようですが、鬼道会の幹部の椅子は数に限りがあるのでは？　見たところ……どなたも譲ってくれる気配はしませんが」

　本宮を除いた執行部は、事前に話を聞かされていなかったらしく、先程の怒りから一転して狼狽える様子を見せた。互いに視線を合わせながら、まさか俺が？　と疑心暗鬼に陥っている。地位にしがみつくだけしか能のない老いぼれには、椅子を一つと言わず全て明け渡してもらいたいくらいだ。

「そこは問題ない。何故なら――たった今空席になるからな」

　微笑みながらそう告げた本宮は、視線を無悪から一切外すことなく、懐に忍ばせていたベレッタＭ９２を取り出すと目にも止まらぬ早業で幹部の一人に銃口を向けた。

　乾いた発砲音が反響すると、その場にいたほとんどの人間が耳を押さえてある一点を見つめた。自分が殺されたことに気づく間もなく、スローモーションで椅子から転がり落ちた男の眉間のド真ん中には、見事としか言いようがない位置に銃痕が残されている。

　室内には硝煙の臭いが漂い、頭蓋の内圧から解き放たれた脳味噌が隣の幹部の一人のジャケットに降りかかると、小さく悲鳴を上げて振り払っていた。他の幹部も青褪めた顔で絶命した仲間に見入っている。まるで息絶えた仲間の姿と己を重ね見るように、息を呑んで固まっていた。

「どうやら内部情報を持ち出して鷲尾組に鞍替えしようとしていたらしい。ほら、言った通りにちょうど一席空いただろう。それで真犯人を見つけてくるか、それともお前がクロだと認めるか――さて、どっちを選択する」

　犯人を見つけ出し、幹部の椅子も手に入る。断る理由が見つからない願ってもない申し出に、考える間もなく無悪は首を縦に振っていた。

　脳裏に浮かぶ大鰐源蔵の事切れた体を思い出す――肉塊と呼んだほうが正しいそれに、生まれて始めて涙を流してら抱きかかえたとき、視神経で辛うじて繋ぎ止められた眼球が、眼窩からこぼれ落ちる映像が脳内で再生される。

　この怒りは、首謀者をこの手で殺さないかぎりは永遠に沈まらないだろう。大鰐会長を、大鰐源蔵を、オヤジを殺した奴はこの俺が絶対に許さない。凪のように静かでありながら、溶岩のごとく熱い怒りが体を包み込んでゆく。

　退室を促され、会議室を後にしようとすると本宮は思い出したように声をかけてきた。

「伝え忘れていた。『シロ』に手を上げたのは俺だよ。無悪、オマエには期待しているからな」