第6話 生きているということ
重耳にしても
むろん、前述のとおり、欒枝は己の氏族の保全が一義、そのための国の安定を望む男であり、中立中庸にみせかけているだけなのだが。
その『中立中庸』の『重耳より少し離れた臣』に一つの手紙が来た。
「衛の
内容は、正しき君主を返してほしい、このままでは
はっきり言うが、八百長である。
晋は訴えた臣を勝訴とし、衛公の立てた代理人を足切りの刑、弁護人を処刑してしまった。その上で衛公を拘束し連れ帰ったのである。忠臣である
晋は覇者として
勝訴した臣は衛公の弟・
「どのようなものでも、
欒枝は一人呟きながら書簡を丁寧に丸める。布に包んだ後、これは
朝政にて、欒枝の
「私に書が届き、衛の周氏ほか、衛公の帰還を待ち望んでいる。生きている国君を廃位とし、公子
という言葉に、みなうなづいた。この時の
狐偃が
「難しいですな」
と眉をしかめて言う。もうとっくに六十歳を超えているが、猛々しさと瑞々しさを持ち合わせたような老人である。
「楚はまだ北上をあきらめたとは言えぬ。衛、
昨年の楚戦で軍総司令官兼参謀長であった先軫が言う。彼は
「恐れ入ります、我が君。いかがなさいますか、
胥臣が拝礼し、重耳へ言上した。重耳が少し首をかしげながら
「この件はひとまずわたしが預かろう。しかるべき時に用意するよう、差配する」
とだけ返した。欒枝としてはもっと深く話したかったが、狐偃や先軫の手前もあるのであろう、と息を小さくついて口を開く。
「
欒枝の強い言葉に胥臣が深くうなづいた。
「私も同じ気持ちです。みなさま、そして我が君。欒伯のお言葉に従い、衛公の歓待をいちはやく執り行いましょう」
重耳が何かに気づいたような顔をしたあと、
「
と、笑みを浮かべて言った。
朝政の後である。欒枝は、周氏へすぐさま返信を出した。話を進めている、しばし待つように、と。これは欒枝らしくない軽率だったというべきであろうか。否、卿の中で欒枝だけが異分子だったことが不幸だった、と言うべきであろう。
郤缺との逢瀬、初夏も過ぎ、夏の盛りであった。朝政の場に衛公が引きずり出されたのである。近臣が共にいるため、衣服に乱れなく、国君の体裁を保っているが、顔は青ざめ目は泳いでいる。一年半も他国に監禁される国君など前例はない。衛公が挙動不審になってもしかたがあるまい。それよりも
――宴席、ではないが。
欒枝は眉をひそめた。もし国君として歓待するにしても、同盟するにしても、宴席を設け、決められた食事を行うのが儀礼である。当時、食は盟約と繋がっていることが多い。
それを、晋の行政の場に連れてくるとはどういうことであろうか。閉まろうとする政堂の扉の向こうで、衛の近臣
「衛公への饗応の品、用意しているものを我が君へ」
胥臣が柔らかく
医者が盆に乗った杯をうやうやしく重耳に差し出し、下がっていった。その際、衛公を視線で撫で、何やら憐れむ表情をしていた。
その、磁器で作られた杯をなにげないしぐさで手に取ると、重耳は立ち上がり政堂の前でへたり込むように座っている衛公に親しみ深い笑みをたたえて差し出した。
「あなたも遠い祖国から離れ我が晋へずっといるのはお辛かろう。こちらの
無邪気ささえ感じさせる明るい声の奥に確かな粘性があった。衛公は身をよじったが、重耳が力任せに手を引っ張ると、無理やり杯を握らせる。
一瞬、欒枝は何が起きようとしているのかわからなかった。
重耳は善意でのどを潤せばよいとばかりの態度であった。
狐偃は満足げに頷いており、先軫も微動だにしない。
胥臣さえ、優し気な笑みを浮かべていた。そもそも、あの毒を持ってこさせるように命じたのは胥臣であった。
欒枝は止めねばならぬ、と息を深く吸った。国君を殺めるものは終わりがよくない。しかもそれが国ぐるみである。しかし――国君が国君を殺めたとき、それはどちらに天命があるのか。周王を助けた覇者晋公と、周王の親戚国家でありながら拒絶し南蛮の楚になびく衛公。衛公の親楚政策は衛人の多くに受け入れられていない。彼らが欒枝にすがってきているのは、たんに国君を見捨てたくないというだけである。
この、
透徹の理より国益の利がよぎり欒枝の声は遅かった。陰険な凶行を止める前に、衛公が破れかぶれのように杯の中の毒液を飲みほした。
「ひ、け、けく、け、け、」
しばし痙攣した衛公は、そのまま倒れ盛大に吐いた。どたんどたんと跳ねるようにあばれ左右に転がり続ける。我慢できなかったのか、政堂の扉を無理やり開け、寧兪が衛公に駆け寄った。
「失礼いたします、我が君」
と小さくつぶやくと、その口に指を二本、突っ込む。衛公は寧兪の指も衣服を汚しながらさらに嘔吐した。その背を少し撫でたあと、寧兪は衛公の腕をとって担ぐ。
「お見苦しいところ、そして許しなく神聖な覇者の政堂へ分け入り拝礼なく退く無礼、のちにいかようにも咎めは受けましょう。今は我が君をゆっくり労わりたい。お許しを」
衛公の近臣、忠義深く賢い寧兪に重耳は怒りを見せなかった。己の席へ戻ると鷹揚に頷き、
「
と優しく柔らかく、度量の広さを見せた。先の凶行がなければ、まさに器広い君主そのものであった。ちなみに衛公は数か月後、衛に戻される。彼はしぶとく、こののち約三十年ほど生きた。
寺人によって床が清められている間に狐偃が苦々しい顔で口を開いた。
「これで衛も我が傘下になるはずだったのに、惜しい」
その言葉に欒枝は腹の奥が煮える思いであった。この、非常識な凶行の指図をしたのは狐偃なのか、と頬をひきつらせる。欒枝は狐偃を好いてはいない。はっきり言えば蔑んでいた。それは性格よりは出自に起因している。
えたいがしれぬ。
という差別意識が先に働く。その上で、重耳の覇道のためなら手段を選ばぬ老人であった。その果てにこの非常識か、と吐き捨てたくなったが、欒枝は耐えた。感情に流されれば、正論も愚論と落ちるものである。罵倒を飲み込むように唾を飲み込んだ欒枝の耳に、胥臣の丸く柔らかい声音が飛び込んでくる。
「衛公の弟は良い方で晋にも親しいと
欒枝は今度こそ唖然とした顔で胥臣を見た。胥臣は気づかず、重耳に拝礼している。
己が持ってきた議、言葉を曲解され、歪んだ使い方をされたのである。まるで、欒枝がこれを諮ったかのような言いぐさと、胥臣さえもが全く悪気もないことに、腹底が冷えて抜けるようであった。
胥臣に頷き、狐偃や先軫、そして欒枝を見回して重耳がゆったりと言葉を紡ぐ。
「衛は先代も私が伺った時にご返礼なかった。これから良き関係になりたい」
重耳の声に暗さはなかったが、湿気を感じた――のは欒枝の考えすぎか。重耳が衛の先代に無視されたのは公子として放浪の苦しみの中にいたときである。当時の衛文公は自国の立て直しに力を注いでおり、他国の公子まで面倒を見てられなかった。下手に手を出せば晋のお家騒動に巻き込まれると考えたのであろう。
衛は、よもや晋が勇躍するなど、思いもしなかった。西の、少々血の気の多い国、という程度だったのだ。
欒枝は俯かないよう必死に背を伸ばし、端然と座り続けた。その日の朝政が終わり拝礼するまで、平静を装い、それぞれの議について静かに弁じた。そうでもしないと、叫びだしそうであった。
これは、狐偃の差し金か。おのが主君を無視した恨みをはらしたいと重耳にこいねがったのか。
それとも、重耳自身の恨みか。その恨みに、寵臣どもは盲目的に頷いたのか。
欒枝は、宮中から帰宅する際、手勢一人を
いきなり呼び出された郤缺は不審さを隠さなかった。
「欒伯。火急の要とは」
ここですぐに切り出すべきであったが、欒枝は言いよどんだ。己が平静さを取り戻さねば、正しく伝えられぬ、と思ったのである。欒枝は郤缺の手をとり、指を触って絡めた。
「……まさか、それで私をお招きされたと?」
不快さをあらわにした郤缺に欒枝が苦笑した。
「たまには、いいだろう」
郤缺が欒枝の目をじっと見て、絡んでいない手を伸ばし、その眉をなで、こめかみを触った。欒枝は思わず目をつむる。こめかみを触ってくるしぐさは、妙に優しかった。
「……たまには良いかもしれません」
そろりとした声音で郤缺が返した。それが引き金となり、欒枝は郤缺を抱き寄せた。もう五十の半ばに近く、男の機能も衰えている。ゆったりとした営みとなり、郤缺も静かに受け入れるだけとなった。が、何を察しているのかときおり額や眉を撫でてきたり、こめかみを触ってくる。欒枝はそのたびに気持ちよく思い目をつむった。
終わり、身を離したとき、のっそりと起き上がった郤缺が欒枝の鼻を軽く噛む。欒枝はくすぐったくて思わず笑った。そうなると、しわが寄り年相応の魅力の中に可愛げが出る。欒枝がこの年まで生き延びたのは人を警戒させない可愛げもあった。
郤缺が口を離して至近距離で欒枝をじっと見た。色の無いしぐさで両手を握りこむ。
「落ち着かれましたか。何があったのです」
「……ばれたか。私は汝で気を静めようとした。怒っていい、甘んじて受ける」
首を横に振り、郤缺は
「私にしか話せぬことならば、受けましょう。それがあなたのお荷物を背負うと決めた私の責です」
いつもは事後は不快な顔を見せる郤缺であったが、この日は違った。欒枝を心から
そういえば――その
「私は我が君が賢君であることは間違いない、と思っている。衛を傘下に治めるは我が晋にとって極めて重要なことでも、ある。しかし……国君を辱めたもの、害したものに終わりはよくない」
と、苦い口調で話を締めた。すべてを聞き終わった郤缺が
「しかしあなたはこうもお思いではないですか。国君同士であれば戦いであると。先代の恵公は
知っている、と欒枝はうなづいた。その時、国内で静観していたことは今も覚えている。勝てもせぬ戦であると主張したかったが、
欒枝の理解がわかったのであろう。郤缺はさらに口を開く。
「衛公は負けたのです。臣下を掌握できず、我が晋に裁判など開かれ、それにのこのこ弁護人まで連れてやってきた時点で、戦略的に負け、虜囚となった。――
「いや、命は助かった。朝政のあと、すぐさま情報を集めた。毒を仕込まれると知った寧子が医者に頼み、水で薄めてもらったらしい」
苦い口調の欒枝の言葉に、郤缺が少し考え込むような顔をした。
「……医者が薄めた……。君公はそれさえもご存じやもしれません。それで失われてもよし、助かってもよし」
郤缺の言葉に欒枝も考え込む。非道、非常識という思いで思考にもやがかかっていたのやもしれぬ。何か大切なことを取りこぼしているのか、と考える。
「……やはり舅犯や先卿の、外征好みに合わせたが、命をとるほどまでではない、と我が君の賭けか?」
欒枝の言葉に郤缺が首を振った。少し、苦笑しているようであった。今日は余裕のある良い子だな、と欒枝はなんとなく思った。
さて、郤缺の言い分であるが、はっきり言えば不敬極まりなかった。
「
郤缺の声は重さもなく、湿気もない透徹そのものであった。欒枝を慮る篤実と父を祀れぬという辱めを受けてなお己を失わぬ自制心。これこそが、欒枝が郤缺に興味を持ったきっかけであった。欒枝が政堂で話す様々を吸収し、その視界は広がっているようであった。
「賢者の言葉だ。郤主が重鎮となれば必ず大きなことを成そう」
さらりとした欒枝の声に郤缺がむっとした顔をする。逆臣の息子が国を動かす重鎮などなれるわけがない。
「戯言など、お年のようで」
と拗ねたように言い出した。そういうところが、妙にかわいいと欒枝は思うようになっていた。
「そのとおり、もう年だからね。あと何年私は頑健であるかわからぬよ。いつか、こうして
「気持ち悪い」
「……抱くことも適わぬやもしれぬ」
郤缺の本気の拒絶に、欒枝は半笑いで言い換えた。この拒絶は、愛玩のように聞こえたからであろう。そのつもりはないのであるが、情人をにおわす言葉を言うと、この男は拒絶し拗ねる。彼の矜持とともに意地なのであろう。そういった態度を年上の情夫は喜ぶ、ということを知らないらしい。その様子になごみながらも、欒枝は今朝の悪趣味な出来事が心の底でよどんでいた。それと止めるべき己は動けなかった。次は君公に間違いを犯させてはならぬ。欒枝は底光りする目を郤缺にむける。
「しかし、我が君より先に
そっと郤缺の指が欒枝の唇を押さえた。
「
「褒めるか
欒枝は途方にくれた顔をして、布を床に投げだした。郤缺が申し訳ございませぬと素直に謝る。
「いや謝ってほしいわけじゃなかったのだ。情人として甘えてこられるのも良し、賢き大夫の顔を見せるも良し。ただ同時にされると何やら身につまされる」
壮年の男の言いぐさと、肩をすくめる様子に、誰が甘えているのかと、郤缺が不快を隠さずに言った。今度は欒枝が、すまぬと素直に謝った。
「……不祥の言葉は口に出さぬことですよ、欒伯。我が父は、身が朽ち果てようとも恵公の忘れ形見をお護りすることを誓い、それが破れれば君公を死しても骨になろうとも弑いたてまつると申しました。父の最期をあなたはむろん知っておられる。私の父は
郤缺の声は優しく響いた。よくよく考えれば今すぐ会いたいという無茶な『命令』を嫌な顔せずはせ参じ、真綿につつむように欒枝を労わり続けた。欒枝の戯言にはにべもないが。
「私より汝がこの国の必要なものとなる。……そう否と首を振るものではないよ。汝は覚悟は決めている。私の庇護する氏族を貰い受ける覚悟をされ、私のまつりごとを聴き、国を憂い導く覚悟をしている。そのくらい、わかるよ、これでもおじさんだ、幾度も春秋をめぐり亡国を見て私はここにいる。つまりだ、おじさんはかわいい情人に期待しているから、おもいきり利用して、一切合財持っていっておくれ。汝が自在に動けるほどのものを」
そこまで言うと、欒枝は郤缺を押し倒し、その胸に耳を当てた。とくとくと、命の音がする。己よりよほど力強く思えた。
「汝は生きている。良きこと」
郤缺が思わず欒枝の首筋に手を回した。とくとくと脈が感じられる。それは命の音である。
「あなたも生きている。――良いことだと私は思います」
そうして郤缺が目をつむり、静かに息を吐いた。それは苦痛と悲しみを伴うため息だと欒枝はすぐに気づいた。――ああ、そうだ。郤缺は欒枝のために父親のことを話したのだ。きっと誰にも見せたことのない、彼の癒せぬ傷を欒枝のために掘り出し、あらわにしたのである。
「……すまぬ、郤主。汝に辛い思いをさせた」
欒枝の言葉に郤缺が、お気になさらず、とだけ返した。彼は辛くないとは言わなかった。
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